~成年期~
昭和二十四(1949)年、紗栄子が花嫁学校に通いだして、しばらくたってからのことである。
地元の町役場で職員採用試験の話があり、採用試験を受けることになった。
試験に合格し、公務員として採用された紗栄子は、辞令により地元の保育所に配属になった。紗栄子は保母の資格は持っていないため、代用保母(無資格保母)としての配属である。
当時の保育は一年保育であり、小学校入学前の一年間のみ保育をおこなっていた。
三十人程の園児に保母は二人だけ。
通常の保育のかたわら、園児たちと公園に散歩に出かけたり、山にどんぐり拾いに行ったりもした。
『久村せんせい。おやつが食べたい』
『今日はドーナツを作ろうね』
同僚の保母とともにおやつにドーナツを作り園児に食べさせたりもした。
この頃の紗栄子の給料は四千円程であった。ボーナスもあり、初めて自分でハイヒールを買って履いた。この頃、流行っていたパーマもかけた。
紗栄子は、園児たちと楽しい保母生活を送っていた。
正式な保母の資格を取ろうかと考えていたが、近くに保母資格を取得できる養成所がなかったため、代用保母のまま働いていた。
三年ほど経ったとき、結婚の話が持ち上がった。
相手は、かつて父・弥平の葬儀に来てくれた内田 茂 であった。女学校時代に、何度か会うこともあったが、その後はそれほど交流もなく過ごしていたのだ。
茂なら、遠縁にもあたり、母も安心する。紗栄子は結婚を決意した。
昭和二十七(1952)年、紗栄子は内田 茂 と結婚した。二十歳になる年のことであった。
結婚にともない、保育所は退職することにした。
『紗栄子さんが仕事を続けたいなら続けてもいいんだよ』
茂は、そう言ってくれたが紗栄子は退職することに決めた。
長男である茂の実家は隣町の農家であり、婚家には茂の両親、弟、妹たちがいる。大家族の長男の嫁として家庭に入ることを決めたのだ。
退職の日、かつて卒園していった教え子と親御さんたちがやってきた。
『久村先生、ありがとうございました。幸せになってください』
結婚のお祝いと言い、下駄を百足近くもくれたのだ。紗栄子は物凄く嬉しかった。
八月の暑い盛り、二十歳の花嫁は上等な黒引き振袖に身を包み、実家で母や兄たちに挨拶をした。
この振袖は、母・ユクノが紗栄子のために買ってくれたものだ。当時はまだほとんどの人が、黒留袖の花嫁衣裳であった。母は一人娘の紗栄子のために上等な花嫁衣裳を用意してくれたのだ。
『さえちゃん、幸せになるんよ』
『お母さん。いままでありがとう。本当にありがとうございました』
母と娘は涙で別れの挨拶を交わした。
結婚式は二日間にわたって行われた。一日目は家族や親戚の人を呼び披露宴をし、二日目には夫である茂の会社の人を呼んで披露宴が行われたのだ。
その夜、夫の茂が紗栄子に言った。
『紗栄子さん、小さい頃に会ったことがあるのを覚えてる?』
紗栄子は幼いときのことを思い出していた。
『実はね、まだ子どもの頃、ぼくの妹のマユキが五歳で病気で亡くなったんだ。そのとき、妹と同い年だった紗栄子さんがお父さんと一緒にお葬式に来てくれたんだよ。そのとき、僕らははじめて会ったんだ』
紗栄子は五歳の頃の記憶をうっすら覚えていた。そう、二人は幼い頃に一度会っていたのだ。
さて、結婚式を終えるとすぐに嫁としての生活が始まった。婚家での生活は思った以上に大変なものであった。
夫・茂の父である内田一郎(仮名)は明治三十三(1900)年生まれで、当時52歳。地元の発電所に勤めていた。あっさりした性格だったという。
茂の母である内田コトメ(仮名)は明治三十九(1906)年生まれで、当時46歳。コトメはこの集落で一番の土地持ちの裕福な家の出身であった。小柄でおとなしく、優しい人であった。
内田家には、そのほかに夫の妹・清香(仮名)、弟・辰夫(仮名)、妹・末子(仮名)、弟・和義(仮名)がいた。妹の清香はすでに近くの農家・高野家に嫁いでいたが、弟・辰夫はまだ未婚であった。妹・末子は中学生、末弟・和義にいたってはまだ六歳であった。
『お姉さんができた』
妹の末子は、姉が出来たと喜んだ。この末子は後に、紗栄子が卒業した山野高等学校(紗栄子が通った当時は山野高等女学校だったが学制改革により高等学校になっていた)に進学することになる。
婚家には田畑が六反(約1800坪)程あったが、慣れない農作業が紗栄子には何よりも辛かった。
紗栄子の実家も農家ではあったが、紗栄子は小さい頃から農作業などしたことがなかったからである。嫁に来て初めて農業の大変さを知ったのだ。
結婚してしばらく経ってからのある日のことである。
紗栄子は胸痛や呼吸の苦しさを覚えた。
病院を受診すると胸膜炎という診断であった。
胸膜炎は胸膜に炎症がおき胸水を生じる病気である。
紗栄子はしばらく実家に帰って養生することになった。
『しっかり養生したらええ』
母や兄はそう言ってやさしく迎えてくれた。
慣れない生活環境が一つの原因だったかもしれない。
実家で養生していたある日、婚家の舅が滋養強壮に良いというハブの肉を持ってきてくれたという。
そのおかげか、胸膜炎はすっかり良くなり紗栄子はしばらく養生して婚家に戻った。
結婚翌年の昭和二十八(1953)年、長男・東吾(仮名)が生まれた。ぼくの父である。
昭和三十一(1956)年には、次男・栄太(仮名)が生まれた。
紗栄子は二人の男の子の母親になった。
夫・茂が会社勤めをしており、給料も二万円程あり、比較的良かったが、夫ひとりの給料で大家族を養っていかなければならなかったため、生活に苦労することも多かった。
それでも、クリスマスになると夫は子どもたちにクリスマスケーキを買ってきてくれた。当時はバターケーキが主流であったが、田舎の農村ではケーキは珍しく、子どもたちは喜んだ。
昭和三十年代、高度経済成長により三種の神器であるテレビ、冷蔵庫、洗濯機が各家庭に普及してからも、それらをなかなかそろえることが出来なかった。
洗濯機が買えないため、家の裏の小川での洗濯を続けていた。そんな状況をみかねてか、母・ユクノが洗濯機を買ってくれた。
冷蔵庫も月々の分割払いでやっと買えた。
この頃、夫の母・コトメの姉にあたる武田キリエ(仮名)がよく家に来ていた。キリエは鉱山会社の社長夫人であり、裕福な生活を送っていた。子どもがおらず、妹・コトメと仲が良かったため、この家によく遊びに来ていたのだ。紗栄子はキリエの好きなおはぎをよく作って出迎えた。
キリエは自身に子どもがいなかったこともあり、紗栄子の子どもたちも可愛がってくれ、子供服などよく買い与えてくれた。
また、キリエ夫妻が、田植えや稲刈りの農機具を買ってくれ、それまで手作業で行われていた農作業は一気に楽になった。
昭和三十三(1958)年が明けた。
夫・茂の妹・末子はこの年、高校を卒業し、隣町の伊賀家に嫁いでいった。
末子が嫁ぎ、家には茂の両親、紗栄子夫婦、子ども二人、茂の弟・辰夫、茂の末弟・和義の八人が残った。
中年期へ続く・・・