~少女期~

 

 

 





 

 


 

昭和十九(1944)年、長兄の忠義がビルマ(現在のミャンマー)で戦死した。二十一歳の若さであった。

 

 

 

 

 

この年、村では戦時色が更に強くなり、紗栄子たち小学生も学校で薙刀訓練がおこなわれるようになっていた。

 

 

 

 

 

 

この辺りに空襲はなかったが、敵機が上空を飛んでいく様子が何度も見られるようになり、警戒警報の度に防空壕に駆け込む生活を送っていた。

 

 

 

 

 

 

また、お米も配給制となったというが、紗栄子の家では田んぼを多く作っていたため、戦時中であったが特に食べることに苦労したことはないという。

 

 

 

 

 

 

 

この頃、紗栄子の母・ユクノは婦人会の竹槍訓練に参加していた。

 

 

 

 

 

 

紗栄子は同級生と一緒に高台から、母たちが竹槍訓練をしている様子をよく見ていた。

 

 

 

 

 

 

『やぁー!!!』

 

 

 

 

 

 

母たち女性陣の竹槍訓練の声が響く。

 

 

 

 

 

 

『あんなもんで勝てるんかなぁ』

 

 

 

 

 

 

紗栄子は純粋にそう思ったが当時の世情柄、口には出せなかった。

 

 

 

 

 

 

この頃、被差別部落ではない同級生の女の子が



『あんたのところはうちらとは違う!』



と紗栄子に言ってきたことがあったという。





負けず嫌いだった紗栄子は同じ被差別部落の女の子たち数人で、嫌がるその子を前から後ろから無理やり引っ張って、被差別部落の区長のところに連れていき叱ってもらったという。





後に祖母はこの時の体験を



 『いま考えたらあの子も無理やり連れて行かれて怖かったろうにね。可愛そうやったね』



と孫のぼくに語っている。

 

 

 

 

まだまだ、そういった差別も当たり前のようにあったようだ。

が、この辺りの被差別部落の人々は差別に屈することなく立ち向かっていたようだ。

これは、この辺りの被差別部落が比較的豊かな家も多く、人口も多かったため、早い段階から村長や村議会議員を輩出するなど被差別部落の力が強かったことも要因のようである。

 

 

 

 

 

 

さて、紗栄子も小学校六年生になり、そろそろ卒業後の進路をどうするか決めなければならない。

 

 

 

 

 

 

紗栄子たちの学校は戦前にあって少人数の学校であり、同級生は男女で五十人程であった。当時は、小学校を卒業すると男女で進路が分かれていた。

 

 

 

 

 

現在のように小学校→中学校と進む単線型の進学形態ではなく、学力や家庭の経済力によって進む道が異なる複線型の進学形態であった。

 

 

 

 

 

 

男子が進学する五年制の中学校

これはよほど裕福な家庭の子弟でないと進学できない。

もちろん学力も必要だ。

特に田舎の農村などでは、一村に一人くらいしか進学出来なかった。

 

 

 

 

 

女子が進学する四年制の高等女学校

これも家庭が裕福で、ある程度学力のある者でないと進学できない。

『高等』と付いているのはこれ以上女子には学問は必要ないという意味が含まれているという。

中には五年制の高等女学校もあるにはあったがこれは都市部にしかなく、全国的にも数が少なかった。

 

 

 

 

 

その他に、教員を養成する師範学校、農業学校工業学校、青年学校、裁縫学校、看護婦養成所などいろいろな種類の学校があった。

 

 

 

 

 

一番多い進学先は、小学校に付設されていた二年制の高等科である。

高等科は、小学校卒業後の多くの子どもたちが進学していた。二年制で卒業後にほとんどは就職していたのである。

 

 

 

 

 

紗栄子は第一志望の県立高等女学校を受験することにした。

 

 

 

 

 

同級生の女子二十五人程のうち女学校を受験したのは八人だけである。

残りの女子は二年制の高等科に進学したり、就職したりしていた。

 

 

 

 

 

 

受験した八人のうち、この県立高等女学校に合格したのは二人だけだった。

 

 

 

 

 

紗栄子は不合格となった。

 

 

 

 

 

『紗栄子さん、他の女学校を受験してみたら?』

 

 

 

 

 

担任の先生が紗栄子に言った。紗栄子は両親に相談することにした。

 

 

 

 

 

『お父さん、お母さん、他の女学校を受験してもいい?』

 

 

 

 

 

『ええよ。受験しんさい。』

 

 

 

 

 

紗栄子は両親の許しを得て、隣の市にある私立山野高等女学校を受験し、そして合格した。

 

 

 

 

 

 

他の六人もそれぞれ別の女学校を受験して進学していった。

 

 

 

 

 

このうち、被差別部落から女学校に進学したのは紗栄子と井口千賀子(仮名)の二人だけであった。

 

 

井口千賀子は、紗栄子と同じ被差別部落出身で家も近所であった。

井口家は豊かで、千賀子の父は地元の有力者であり、井口家の庭には一面に桜の木が植えられ、千賀子の小学校時代には使用人を雇い、雨が降れば使用人が傘をさして迎えに来る程であった。

千賀子は紗栄子と同じ山野高等女学校を受験し、進学した。

 

 

 

 

後の話であるが、この千賀子の従姉妹が紗栄子の次兄・初男と結婚している。

 

 

 

 

 

昭和二十(1945)年三月、紗栄子は小学校を卒業した。

 

 

 

 

同級生たちと別れの挨拶を交わした。これから、それぞれが別々の人生を歩むのだ。就職する者、進学する者、いろいろであった。

 

 

 

 

四月、紗栄子は私立山野高等女学校に進学した。これから四年間の女学校生活が始まるのだ。

 

 

 

 

 

毎日、一時間以上かけて汽車と徒歩で通学した。

 

 

 

 

 

八月、終戦を迎えた。もう空襲はないのだ。警戒警報の度に防空壕に入ることもない。

 

 

 

 

 

女学校では、仲の良い友人が出来き、ほとんど毎日その子と一緒に遊んでいた。

 

 

 

 

 

『今日は家に遊びにおいでよ』

 

 

 

 

 

友人の家は裕福な家で、家には大きな蔵があり、紗栄子は友人の家に行くのが楽しみだった。

 

 

 

 

 

『今度はさえちゃんの家に行きたい』

 

 

 

 

 

そう言う友人を紗栄子は断り続けた。自分の家には蔵などなかったのと、被差別部落であるためそれを知られるのを恐れてのことであった。

 

 

 

 

 

またその友人と千賀子と三人で汽車に乗って帰っているときのことである。友人が同じ汽車に乗る被差別部落の人を見て『あの人たちは私たちとは違うから近づいたらだめよ』と紗栄子たちに言ってきた。

 

 

 

 

 

紗栄子と千賀子は内心どきっとし、そして紗栄子は『あぁ、友人も差別心があるんだなぁ』と感じたという。

 

 

 

 

 

友人と別れたあと、紗栄子と千賀子は『私たちが部落だってことは彼女にはぜったいに話せない』と話し合ったという。

 

 

 

 

 

昭和二十二(1947)年の秋のことである。紗栄子は女学校三年生になっていた。

 

 

 

 

 

教室で友人と話していた紗栄子を担任の先生が呼んだ。

 

 

 

 

 

『久村さん、ちょっとこちらへ・・・お父様がお亡くなりになったそうよ』

 

 

 

 

 

父・弥平の突然の死だった。紗栄子は愕然とした。

 

 

 

 

 

自分を最も可愛がってくれた父が死んだのだ。

 

 

 

 

 

父・弥平は、鉱山内の落盤事故に巻き込まれて亡くなった。五十一歳の若さだった。

 

 

 

 

 

遺体に対面した紗栄子は、父の頭に事故の落石で出来た穴があいているのを見たという。

 

 

 

 

 

『痛かったね、苦しかったね・・・』

 

 

 

 

 

紗栄子は父の遺体の前で泣き崩れた。

紗栄子、十五歳のときであった。

 

 

 

 

 

父の葬儀に、ある一人の青年が現れた。名前を内田 茂 と言った。のちに紗栄子と結婚し、ぼくの祖父になる人物である。

 

 

 

 

茂は、隣町の被差別部落出身で、紗栄子の遠縁にあたり、当時二十一歳。当時珍しい自動車運転手をしていた。

 

 

 

 

 

紗栄子と茂との出会いは、これが最初ではなく、実は幼い頃に二人は出会っていた。

が、この時の紗栄子はまだそのことを知らない。この事実を知るのは後のことである。

 

 

 

 

 

父が亡くなった後、母・ユクノは自ら牛を使って田んぼを耕作するなどこれまで以上に働くようになった。

 

 

 

 

 

終戦後、次兄・初男が呉の海軍から無事に戻ってきて働いており、父亡き後の生活は兄の仕事と母の農業によって支えられていたのだ。

 

 

 

 

 

この頃、紗栄子は母・ユクノの弟・橋田政夫(仮名)が華道の師匠をしていた関係で、叔父の元に華道を習いに通っていた。

この叔父は薬剤師であり、別の町で薬局を経営していたのだが、この頃家族で生まれ故郷のこの村に戻ってきていたのだ。

 

 

 

 

紗栄子が叔父の家から華道を終えて帰っていたとき、以前、父の葬儀に来てくれた内田 茂が車で通りかかったのだ。

 

 

 

 

 

『紗栄子さん。家まで送ります』

 

 

 

 

 

紗栄子と茂の二度目の出会いであった。紗栄子は茂の車で家まで送ってもらった。その間、いろいろな話をし、二人は少しずつお互いを意識するようになっていった。

 

 

 

 

 

叔父の三人の娘たちもこの頃、それぞれ県立女学校を卒業しており、このうちの一人は女学校卒業後に代用教員として働いていた。

 

 

 

 

紗栄子も女学校卒業が迫っており、卒業後の進路を決める時期に来ていた。

 

 

 

 

紗栄子は、裁縫が好きだったこともあり、あざみ服装学院という専門学校へ進学したかった。

しかし、父が亡くなったこともあり、これ以上母と兄に経済的に負担をかけたくない。

紗栄子はあざみ服装学院への進学を諦めた。

 

 

 

 

 

代わりに地元で裁縫や料理などの花嫁修業をする花嫁学校へ通うことになった。

 

 

 

 

 

昭和二十四(1949)年三月、紗栄子は山野高等女学校を卒業した。

 

そして四月から、地元の花嫁学校へ通いだした。

十七歳になる年のことであった。




 

 

 

この頃ちょうど学制改革で小学校、中学校、高等学校と現在の学制に変わった。女学校は高等学校となったが、祖母たちが卒業する頃はちょうど転換期でもあり、旧制で卒業する者、新制高等学校に進んで卒業する者といろいろだったようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

成年期へ続く・・・