母方の祖父の生家・稲村家(※仮名です)について
稲村家については別の記事にも書いてますので詳しくはこちらをご参照ください。↓
稲村家は被差別部落ですが、
『もともと武士だった』という言い伝えが残っています。
ぼくは、祖父からこの言い伝えを聞き、祖父は自分の父親から聞いたとのことです。
最初に祖父からこの話を聞いたときは、にわかには信じられなかったんです。
被差別部落なのに、武士ってどういうこと?
とよく意味がわからなかったんです…
ところが
ぼくが自分のルーツを調べるようになり、全国の被差別部落にはかなりの地域性があり、部落の成り立ちや起源についても部落によって全く違うものだということを知りました。
例えば、九州では古代に太宰府の警護のため東北の蝦夷を移住させて成立した部落があったり、藩主が姫路から皮革職人を連れてきて成立した部落があったり、など。
そして、我が稲村家の場合で言えば、なんといっても同じ地域の稲村姓の家にも同じような武士の言い伝えが伝わっていたという事実。
この地域には稲村姓が数十軒あり、その中のいくつかの家に下記のような言い伝えが伝わっていました。
『元は毛利の家臣だった』
『古い時代の武士だった』
これらのことを踏まえると、祖父の生家である稲村家も戦国期以前など古い時代には武士だった可能性があるのでは?
毛利の家臣だったという言い伝えが残っている稲村家は、被差別部落でもかなりの田畑を所有する地主で、家紋も毛利家と同じ一文字に三つ星紋です。
この稲村家は、
稲村勘右衛門(江戸時代生まれ)
↓
勘平(江戸時代生まれ)
↓
勘介(明治10年代生まれ)
↓
○○
↓
□□
↓
△△(現代の当主)
と続く家で、二代目の勘平さんは村議会議員をつとめ、勘平さんの息子・勘介さんも村議会議員をつとめ地域に大変貢献した人物として石碑が残っています。勘平さんの娘・リナさんがぼくの高祖母の弟と結婚しています。
明治7年(1874年)時点では、初代当主・稲村勘右衛門は田畑2町7反(8100坪、2.678ヘクタール)を所有しています。
さらに、明治33年(1900年)の〇〇県富豪家一覧表に、二代目・稲村勘平の名前が載っており、この当時の稲村家は富豪であったことがわかります。
そして、昭和3年(1928年)時点では、三代目・稲村勘介は田畑3町8反(11400坪、3.769ヘクタール)を所有しており、小作人の戸数は13戸でした。
この稲村家についての詳細は下記をご覧ください↓
さて、祖父の生家である稲村家をさかのぼって判明した最も古い先祖は天明4年(1784年)生まれの治七です。
治七はぼくの母の父の父の父の父の父にあたり、ぼくから六代前の先祖になります。
稲村治七(1784年生)
↓
善右衛門(1813年生)
↓
久作(1835年生)
↓
曾祖父(1889年生)
↓
祖父
↓
母
↓
自分
治七が生まれた数年後にヨーロッパではフランス革命が勃発しますので、治七が生まれ育ったのはちょうど有名なマリー・アントワネットが生きていた頃になります。
治七は、江戸時代の宗門改帳(戸籍のようなもの)の記録によると○○村出生=つまりこの地域で生まれたと書かれていますので、少なくとも稲村家は1784年の時点ではすでにこの地域には居住していたことになります。
別の記事でも少し書きましたが、この地域は江戸時代の飢饉で多くの農民が餓死・離散したことで藩の政策により他所の地域から農業をおこなう人々を募り、多くの人々が移住してきたこと、それが後の被差別部落になったことを書きました。祖父の生家である稲村家もおそらくこの政策により別の地域から移住してきた可能性が高いんです。
そうなると移住する前はどこで何をしていたのか?
もともと武士で、何かの事情で流れ流れて移住してきたということも考えられます。
ちなみに、戦国時代にこのあたりの地域を治めていた城の城主が橋田氏(※仮名です)といいます。ぼくの父方の曾祖母の実家もおなじく橋田家であり、この橋田氏の流れだ言われています。それは別の記事に書いてますのでそちらをご参照ください。↓
この橋田氏の家臣の記録の中に、稲村九郎俊盛(名字は仮名)という人物がいたことがわかりました。
稲村家と同姓であり、かつこの地域の人物というだけで我が家との直接の繋がりまでは不明ですが・・・
この城は永禄年間(1558年〜1570年)に落城し、その際に城主である橋田一族は、十数人が縦一列に並び自害して果てたと言われています。その他の一族やその家臣たちは城を出て各地に落ち延びています。
また、この地域のある被差別部落には橋田姓の家が数十軒あり、言い伝えによると城主一族である橋田氏の流れであるということです。
このように城が落城した際に一族郎党が各地に落ち延び、その末裔が現在も暮らしているという場合が各地に多々あるようです。
これらのことを踏まえて、わが稲村家も戦に敗れて落ち延び流れ流れてきた武士の子孫なのでは?と考えています。
ちなみに、祖父の生家の稲村家の家紋は【丸に違い矢】という家紋で、これは武家に好まれた家紋だそうです。
また、図書館の古文書マイクロフィルムの中に、この地域の江戸時代の職人の記録?のような資料があり、その資料の中にぼくの6代前の先祖と同名の「治七」という名前が出てきました。
文化〜文政頃の記録のようですので、ちょうど我が家の治七が当主の頃の記録になります。
ただ、もちろん名字の記載はなく、治七と名前のみ記してありますので別人の可能性もありますが。。
この記録は、職人の記録のようでそれぞれの名前の横に大工等の肩書が書かれていますが、この治七の肩書は何も書かれていませんでした。
別の記事にも書きましたが、明治期の稲村家は村内には田畑を所有していないようでしたので、そう考えると明治期には何かしらの職人であった可能性もある??
別記事でも書きましたが、明治33年(1900年)に作成された『○○県一円富豪家一覧表』という、地域の富豪家を記載した資料に、この家の関係者が載っています。
これは、○○県下の所得金高が300円以上の者を対象に調査しており、300~60000円の所得を有する富豪家たちの名前を記載しているものです。
ここに、高祖父・久作の六女・フミエ(曾祖父の姉)の夫が記載されています。
曾祖父の姉の夫は560円の所得金高となっています。これは現在の価値に換算すると約1000万円〜2000万円になるとのことです。
この他に、地域の氏神である神社の鳥居や石柱に曾祖父の兄・虎太郎(高祖父・久作の長男)やその息子・彌太郎(虎太郎長男)の名前が記載されていることもわかりました。祖父の従兄にあたる彌太郎さんは戦後、村議会議員をつとめ、祖父の次弟も戦後、長きにわたって町議会議員をつとめました。
これらのことから、少なくとも明治期の稲村家は、神社に鳥居や石柱を寄贈できるだけの経済力や娘を富豪家に嫁がせるだけのある程度の力も有していた可能性はあるのかなと考えます。
ちなみに、稲村家の人々は大柄だったらしく、
曾祖父・益次郎(明治生まれ)身長170センチ程
曾祖母・マツノ(明治生まれ)身長160センチ以上
祖父の兄(大正生まれ)身長170センチ以上
祖父の姉(大正生まれ)身長165センチ
祖父(昭和初期生まれ)身長170センチ以上
祖父の長弟(昭和初期生まれ)身長170センチ以上
祖父の次弟(昭和初期生まれ)身長170センチ以上
という、当時としては大柄な一族でもありました。