内田 市平家(父の父の父の父の父の系統) | けろのルーツ探し

    内田 市平家(父の父の父の父の父の系統)について書きます。



    ※名字は仮名

    ※曾祖父母以下の名前は仮名

     

    この家は、ぼくの父の父の父の父と男系の父方名字を遡った家系になります。

     

    家系図では赤線で示した家になります。

     

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    この家で、最も遡れた人物はぼくの五世祖父にあたる市平です。

     

    市平は戸籍には高祖父・秀吉の父としてその名前が記載されているのみで、市平の生没年は不明です。 

    市平より前の世代の先祖も不明です。

     

    この戸籍では、高祖父・秀吉の欄に下記の記載が確認できます。

     

    「明治十一年三月二十八日願済○○県○○郡○○村  △△市平長男分家」

     

    つまり、高祖父・秀吉は明治十一年(1878年)に父・市平家より分家したことになります。

     

    通常、長男が家督を相続することが多いと思われるのですが、なぜか秀吉は長男でありながら分家しています。この辺りの事情は何も伝わっておらず不明ですが、何か事情があったのではないかと思われます。

     

    分家当時、秀吉は数え20歳(満18歳)でした。

     

    明治十五年(1882年)に作成されたこの地域の【徴兵国民軍名簿】という資料に秀吉の名前が出てきます。

     

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    この資料で秀吉の隣に記載されている、松太郎という人物。

    名前の右上に「分」という字が書いてあります。これは分家という意味のようです。松太郎の生年月日は文久三年(1863年)とあります。

     

    このことから、松太郎は秀吉の弟ではないかと考えました。

     

    ただし、松太郎の名前は市平家の戸籍には出てきません。

     

    しかし、

     

    実は全く別の家の戸籍の中に松太郎の名前を見つけました。

     

    この家の女性の欄にこの記載がありました。

    「~○○県○○郡○○村○○番地ノ弐△△松太郎長男房次郎ト婚姻~」

     

    つまり、この家の女性が松太郎の長男・房次郎と結婚していたのです。

    ということは、当時松太郎は○○番地の2の戸主であったと考えられます。

     

    そこで、ぼくは秀吉の弟を松太郎であると仮定して、役場に戸籍を請求してみることにしました。

     

    もしかしたら、秀吉の弟(仮定)の松太郎が市平の後を継いでおり、松太郎の戸籍に市平の記録があるのではないかと期待して・・・

     

    しかし、、

     

    役場からの連絡では

     

    「市平さんの記載はありませんでした」

     

    というもの。

     

    まって、もしかして松太郎は秀吉の弟ではない??

     

    再度、市平家の戸籍をよーく見てみることに。

     戸籍内に記載された秀吉の長男・彌助の妻・スエさんの欄を見ると・・・

     

    「○○県○○郡○○村大字○○○○番地戸主△△亀太郎二女~」


    と記載されています。

     

    そう、秀吉の弟だと仮定した松太郎の番地も同じ番地だったのです。

    そして松太郎と亀太郎というどこか似ている名前・・・

     

    ひょっとすると松太郎は秀吉の弟ではなく、この亀太郎の兄弟なのではないかと考えたわけです。。

     

    亀太郎の兄弟であるならば、松太郎の戸籍に市平の記載はでてくるはずもなく・・

     

    そして話は少しそれますが、この亀太郎さんの旧土地台帳を請求し、亀太郎さんの父親の名前が判明しました。

     

    勝平さん

     

    今までの内容を家系図にすると




     

    と、どちらかになりそうです。

    松太郎が秀吉の弟という仮説ですが、、一旦置いておいて

    亀太郎の兄弟という仮説を立てて調査を進めていこうと思っております。

     

    そして上の系図を見て、他に名前がどこか似ている二人がいると思いませんか??

     

    勝平さんと市平さん

     

    そう、もしかするとこの二人が兄弟の可能性があるのです。

    これには、少し理由があって、勝平さんの家はこの地域では「母屋(オモヤ)」と呼ばれており、秀吉さんのところは「隠居(インキョ)」と呼ばれています。

    そして、秀吉さんの「インキョ」はもとは「オモヤ」から出た家だというのです。

     

    この辺りは、今後の調査が更に必要です。 

     

     

    さて、話は戻りますが、高祖父・秀吉は明治十六年(1883)に内田フシと結婚しました。フシはぼくの高祖母です。

     

    フシの戸籍欄には下記の記載が確認できます。

     

    「明治十六年二月三十日○○県○○郡○○村  内田壮次郎長女入籍ス」

     

    ぼくの高祖母・フシは同じ○○村の内田壮次郎の長女ということがわかります。

    フシの実家である壮次郎家については下記の記事を参照ください。

     

     

    https://ameblo.jp/okerokichi/entry-12593764549.html

     

     

     

     

    さて、秀吉とフシの間には五人の子どもが生まれました。

    当時としては子どもの数は少ないほうだと思います。


    長女・ナミ

    次女・セラ

    三女・リオ

    長男・彌助

    次男・一郎(ぼくの曾祖父)


    ぼくの曾祖父・一郎は二男(末っ子)として生まれてます。

    曾祖父・一郎は成人して従妹にあたる内田コトメと結婚し、二人の間にぼくの祖父が生まれます。




    さて、明治三十七年~三十八年にかけて、日露戦争という戦争がありましたが、

    秀吉はこの日露戦争に従軍しており、その後無事に帰還しています。

     

    下記の地元の資料に秀吉の記録がありました。

     

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    これによると、秀吉は日露戦争に陸軍歩兵一等卒(一等兵)として従軍し、帰還後に白色桐葉章を授与されたことがわかります。

     

    しかし、ここで一つ不思議なことが・・・

     

    秀吉は安政六年(1859年)生まれ

     

    つまり日露戦争に従軍した明治三十七年(1904年)当時、、

     

     

     

     

     

     

    45歳だったんです

     

     

     

     

    現代ではまだ若いですが、当時としてはかなり年配だったはず。

    そして、なぜこの年齢での従軍となったのか、、

    理由はわかりませんが、何か特別な技能や技術をもっており、従軍することになったのでしょうか。

    誰かお詳しい方教えてください!!WW

     

    さて、この従軍ですが実は秀吉は長女・ナミの夫である健太郎と一緒に従軍しているのです。ただし、健太郎の記録には陸軍砲兵とありますので配属部署?は違ったようです。

     

    そして健太郎さんも無事に帰還して白色桐葉章を授与されています。

     

    二人とも激戦地の満州できっといろんな苦労や経験をしたことでしょう・・・

     

    さて、その後の秀吉ですが、

    昭和二年(1927年)十一月二十三日に68歳で亡くなっています。

     

    家督は長男・彌助が継ぎました。

    二男であるぼくの曾祖父は昭和五年(1930年)に近所に分家しております。

     

    ぼくが生まれ育った実家は、この曾祖父が分家して興した家になります。

     

    というわけで長くなりましたが、今回は市平家についてまとめてみました。

     

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