男はまだしばらく疑問点を挙げていたが、牛一が言葉を返す気がないことに気付いたのだろう。口を閉じて牛一の顔を見つめてきた。

 牛一は仕方なさそうに頭を掻き、男の目を見返す。

「話は分かり申したが、某はあったことをあった通りに書いただけでござる。それ以上でもそれ以下でもない」

 牛一の言葉は予想外だったのだろう。男はしばらく牛一の顔をじっと見つめていたが、牛一が何も喋らないことを悟ったようだ。目を外し、これからどうすればいいかと考えるように斜め下を向いた。

(知れば、死ぬ)

 そう牛一は言いたかったが、言うとこの男は寧ろしつこく探ろうとするかもしれない。

 実は牛一は目の前の男には近しいものを感じている。言葉にすれば、好奇心や、書きたい気持ちというところだろう。しかし、それ以上にこの男には自信と野心が垣間見えた。

 俺ならもっといいものが書ける、という牛一に対する自負心、もっといえば驕りだろうと、牛一は見なしていた。

 

 

 その後も牛一は、豊臣家家臣としての職を続け、織田信長の伝記をはじめとする様々な書を記し、推敲を続けた。

 80を超えた時分、牛一は生死をさまよう病気に罹った。高熱となりおびただしい汗をかいた。やたらと喉が渇き水を欲した。そして意識が朦朧となり起き上がることもできなくなった。

 医師は織田信長や正親町天皇などを診察した曲直瀬道三の養子玄朔で、彼は感冒と見立て、丁寧に治療をしてくれた。その甲斐あって病を克服することができたが、やはり牛一自身の強靭な体が命を繋ぎとめる面もあったのだろう。

 牛一はその後も筆をとっている。

 信長の伝記であるいわゆる『信長公記』のうち、彼の自筆として現在も残っている本はいくつかあり、その一つが姫路城の池田家に伝わる一五巻本で『池田家本』といわれている。

 この巻一三に、あとがきといえるような奥付がある。その文章の最期にある日付は「慶長15年(1610)2月23日」となっており、その下に牛一の年齢である「八十四歳」という文字が記されている。

以下、意訳。

 

この一巻は、尾張の国生まれ、春日郡安食の住人である太田和泉守牛一が記した。老齢すでに極まり、衰えた目を拭い、老眼の目が見えるときを伺いながら、くだらない考えであることを顧みず、心に浮かんだことを、拙文ながら書き留めたものである。私が事ごとに日記のついでとして書き記していたものが自然と集まった。これらは私の創作ではない。有ることを除かず、無きことを添えず、直に書き記した。もしわずかでも虚の事を書いたなら天道がどうなるか。読者はただ一笑し、一笑をもって真実を見ていただきたい。

 

 太田牛一は87歳まで生きた。亡くなったのは慶長18年(1613)、大坂冬の陣が起こる1年前だった。

 豊臣家の最期を見ずに終わったのは、彼にとって幸せだったのか、それとも無念だったのか。それはわからない。

 

〈了〉

 

 

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