作品を読む ⑧ (加藤治郎) | nishiyanのブログ

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 作品を読む ⑧ (加藤治郎)



 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。

 



 今回は、エロスの表出、性愛表現の作品を取り上げてみる。個々の作品の具体的な読みにまでは下りて行かないで、エロスの表出である性愛表現について考えてみたい。

 吉本さんが晩年に日本人のエロスについて触れている。


吉本 先程、僕は自分の中にエロスが薄いということを言いましたが、そもそも僕は日本人にはエロスが薄いんじゃないか、と思っています。民族性か種族性か、どう呼んでもいいんですけど、この種族がエロス的にどうなのかと言えば、全体として物凄く薄いんじゃないかと思います。日本人の中からサドとかバタイユのような、そういう作家を求めようとしても難しい。みんな何かにすり替わっている。エロスをエロスとしてそのまま、サドのような作品が書けるのか。書けば書けるのかもしれない。しかし文学だけで言いましても、数えるほどもそういう作家はいない気がします。

――それは宗教的なものも関係しているんでしょうか?サドもバタイユも、そのベースにキリスト教的な土壌があるという点において、日本とは環境が異なると思えるんですが。

吉本 本当にそう思いますか?僕はそこに疑いをもちます。日本においては何かがエロスに入れ替わってしまっている。エロスが全開にならぬところで、外らされてしまっている。特にそれが外に現れる時に非常に貧弱な気がします。自分の内面において自分自身と話をしていると、すごいエロティックな男のように自分では思えるんですが、それが表れとして外側には出てこない。そこには日本の家族制や血縁性の強固さというものが、ヨーロッパなどに比べると非常に大きく作用していて、その問題じゃないのかなっていう気が僕はします。

――その点について、もう少し詳しくご説明頂けますか?

吉本 関心が薄い、強いというのは表層的な部分です。つまりエロティックなものが外に向かって表象されないということなんです。同種族間の結合力の方にエロティックな問題が回収されてしまっている、血縁の男女間の繋がりが非常に強固であるのが妨げになって、エロスの問題が語られづらくなっているように思います。そこでエロスが何かにすり替えられてしまうんですね。しかし、これは一歩間違えれば近親相姦の領域に入ってゆきかねない。
(インタビュー 「性を語る―コイトゥス再考―」2011年7月5日『吉本隆明資料集179』猫々堂 )



 エロスが全開で表現に上ってくるヨーロッパに比べ、この列島社会の個のエロスの表出や表現の特異さが、列島社会の慣習や家族制と関わるものとして語られている。今のわたしはよくはわからないが、そう言われれば、なんとなくそうだなあと思い当たるような世界である。

 例えば、表現者の中上健次や岡本太郎は、具体的な相手が存在する性愛においてはどうだったかは知らないが、表現の世界での表現的なエロスは―もちろん、具体的な性愛の振る舞いと何らかの対応性を持つはずであるが―、作品を見ると骨太のエロスが全開されているように見える。物語の世界では、中上健次や村上春樹に限らず大衆小説含めて考えれば開けっぴろげの性愛描写や性描写は存在してきたのかもしれない。わたしは、サドもバタイユもまともには読んでいないので、明確には中上健次や岡本太郎と比べることができないが、わたしの印象で言えば、サドもバタイユもまさしく全開のエロスだとして、中上健次や岡本太郎にはどこかで押し止めるもの、自然による希釈のようなものがあるような気がする。村上春樹の作中の性愛表現は、自然による希釈ではなく、エロスの開放と抑制が作品世界や作品イメージの方から無意識的であれよくコントロールされているような気がする。

 よく言われるように、この列島社会では、古くは性が大らかに捉えられ表現されていたという。それは、例えば正月の祭りなどで安産を願う要素も含まれているなど、生活世界の宗教性とつながった意識だと思うが、そうした風習が後々の個の表現としての物語にも影を落としていたのだろう。例えば、わたしの小さい頃はまだ自宅で結婚式もしていた。今から半世紀くらい前のことである。わたしが目にしたことであるが、父方の叔母さんの結婚式で、余興で親戚の人が股間に一升瓶を当てながら歌い踊っていた。たぶん何か卑わいな歌だったのだろうと思う。何となく恥ずかしい感情を持った覚えがある。それは、真面目に言えばトリックスターのように振る舞いながらも結婚する当事者への祝福や祈願の表現に当たるものだったのではないだろうか。このようないくつもの生活場面を潜り抜けて、わたしたちは、エロスの表出や表現について自然にあるいは無意識的に学んできたのだろうと思う。吉本さんは、ヨーロッパの代表的な表現者たちのエロスの表出・表現とわが国のそれの比較から、その背景を照らし出していることになる。

 ところで、作品から作者の性愛(エロス)の表現を任意に取り出してみる。


71.木星はきのう消えたの金星はくらくらしてきちゃったあ さわって 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
72.屋上でしようじゃないか杏ジャムフライドチキンその他しゃぶりあって 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
73.じきぼくをなくすぜなくすチェック・イン、チェック・アウトのやわらかなキイ 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
74.暗黒の男根としてわれはあり煙草のけむり貫きながら  加藤治郎 『雨の日の回顧展』
75.画面には隣のビルの屋上に飛び移る刑事(デカ)、やりながら観る 加藤治郎『環状線のモンスター』
76.表情はふたつしずかに横たわる 水のうごきにしなうみず草 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
77.水草に鰭(ひれ)ゆらしてるらんちゅうよ出ておいで、ゆるく咬んであげる 加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
78.つややかな水を出しあうおたがいのいたるところがゆるされていて 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
79.星雲のようにひろがる体液をすするのえんえんとえんえんと 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
80.虹のように脚をひらいてきみは待つ暗い回転扉の彼方 加藤治郎『ニュー・エクリプス』
81.はずしあう白いボタンのいらいらとはじまるときの息はせつない  加藤治郎『しんきろう』
82.聖なるかな! おまえの足は聖なるかな口にふくめばマニキュアのにがさ 加藤治郎『マイ・ロマンサー』
83.あなたってぬいだばかりのブラウスを胸にあてあなた文語のようだ 加藤治郎『しんきろう』
84.湖に霧がながれてゆくようにあなたのほそいおなかがしなう 加藤治郎『ハレアカラ』



 わたしは、近代以降の短歌の歴史に詳しくないが、少し見知った感じでは、このような性愛の表現の登場は新しいような気がする。ちなみに、作者の加藤治郎が次のように述べている。


 俵の文章を引く形で仙波が発言しているが、この時代を象徴する三つのキーワード、それは、林あまりのFUCK、仙波龍英のPARCO、そして俵万智のカンチューハイだったのである。

 生理中のFUCKは熱し/血の海をふたりつくづく眺めてしまう
                       林あまり『MARS☆ANGEL』
 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで
                       仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』
 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
                       俵万智『サラダ記念日』

 風俗とコマーシャルな固有名詞の解放は、現代短歌がサブカルチャーの領域に開かれたことを人々に印象づけた。時代がFUCK、PARCO、カンチューハイを摘出し、流通させたように思える。
 (『短歌のドア』P179-P180 加藤治郎 2013年)



 短歌の作者たちも時代に促されるようにして、互いに響き合いながらこのような表現を生み出してきているのだろう。わたしの場合は性愛の表現にはほとんど踏み込むことはないが、このように表現として開放されることはいいことだと思う。短歌表現から見れば、それは表現の拡張に当たっている。

 上に取り出した作品に表現された〈エロス〉の表現の特色を挙げてみると、開放的、直線的、エロスへの没入、しなやかさ、ということになるだろうか。ここには、ある精神の遺伝子を持つ列島社会の表現世界で、時代性と個の固有性とが交差しながら〈エロス〉が表現としてかたち成そうとする姿がある。

 この作者を含めて上のような作品群の背景には、吉本さんが解明してみせた1970年代以降の「消費資本主義」社会の成熟の現実がある。作品たちはその社会の有り様を意識的に感受しているはずである。個の意識としてみれば、旧来的な束縛から解放されて、意識としても表現としても自由度を増大させたと言えるだろう。この旧来的なとは、当然旧来の社会性であるが、農村性や地域性と関わるものだったように思う。(旧来的な束縛を例示すると、今から半世紀くらい前には、フォークソングなどは不良で敬遠すべきもの、女性は二十代前半くらいで結婚するのが当然、などなどの生活世界と結びついた慣習や倫理が存在した。そのようなものが、総仕上げのようにすっかり剥げ落ちてしまったということ。別の言い方をすれば、産業社会の変貌によって、お金による交換、そして消費という活動が、旧来的な組織性や精神性を解体してしまったということ。)