『1Q84』( BOOK 3 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑬ | nishiyanのブログ

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 『1Q84』( BOOK 3 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑬


  [1章から31章まで]

  2017.4.16 物語は終わり、読者は作品を出る


 1.物語は終わる


 天吾と青豆に追及の手を伸ばしていた牛河は、老婦人の強力なスタッフであるタマルによって殺されて、天吾と青豆はとうとう出会うことできた。(第27章)

 青豆はこの物語世界の始まりで首都高から下の道路に下りて「1Q84」の世界に入り込んでしまった。青豆は、その下りた地点からから今度は逆にたどることによって「1Q84」の世界から抜け出せるのではないかと考えて、知り合いのタマルに別れを告げ、天吾といっしょにそれを実行する。出口から出た世界には月は二つは出ていないがそこが「1984」の世界かどうかはわからない。青豆には少し疑念がある。



 ここがどんな世界か、まだ判明してはいない。しかしそれがどのような成り立ちを持った世界であれ、私はここに留まるだろう。青豆はそう思う。私たちはここに留まるだろう。この世界にはおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。私はここからもうどこにも行かない。どんなことがあろうと私たちは、このひとつきりの月を持った世界に踏み留まるのだ。天吾と私とこの小さなものの三人で。(第31章 P601-P602)



 この引用部分はこの物語世界のほぼ終末部分である。こうして、物語は終わる。アメリカのテレビドラマのようなエンターテインメントの作品として眺めるならば、読者をずいぶんもてなし楽しませてくれた作品であると言えるだろう。



 2.作者の物語世界に込めたモチーフ


 しかし、作者のあるモチーフを込めた物語世界として見るならば、わたしには不十分な造形の作品と感じられた。

 大学紛争の時からの流れを持つコミューン「さきがけ」とその宗教的な教団への変質。しかし、コミューン「さきがけ」や教団やそこに生きる人々が、内部から徹底して生き生きと描写されるわけではない。また、太古から存在してきたと描写された「リトル・ピープル」だが、何か深い歴史性が明らかにされるのかなと思いきや、最後までそれはなかった。ただ、おそらく主人公の天吾と青豆に関わってくる範囲で、それらは外面描写や教団の主立った登場人物であるふかえりやリーダーを通して語られるにすぎない。そうして、「1Q84」の世界は、雷を起こしたり人の心を察知したりできる「リトル・ピープル」や同じく常人を超えた察知力をもつふかえりやその父親のリーダーが登場する異様な世界であった。

 そこで、この作品をいろんな仕掛けのある少々手の込んだ単なるエンターテインメントの作品と見なさないとすれば、家族の中でともに深い心の傷を負った少年と少女(天吾と青豆)の二十年に及ぶ「超純愛」ということになるだろう。それは、「1Q84」という世界に呼び込まれて一種異様な「1Q84」という世界の通路を通して天吾と青豆が結ばれる。ふたりは強いられる世界で自由意志を発揮して生きていこうとする。(ここで、素朴な疑問がある。青豆が作品の冒頭で「1Q84」という世界に入り込んだのはわかったが、どうして天吾も「1Q84」という世界にいたのだろう。)

 上の最終場面の描写にしても、若い作者が書くのならわからないでもないけれど、この深く魂を病んだ二人が異世界に入り込んで「超純愛」を遂げるというというのが老年に近づいた作者村上春樹のモチーフとすれば、余りにも白々しい通俗性と言うほかない。

 かつて大原富枝は『アブラハムの幕舎』というすぐれた作品を書いた。現実に事件としてあった祖母を殺して自身は飛び降り自殺をした荒れ果てた少年の心の在所をモチーフとしていたように思う。この現実世界には、普通に行動し人と関係し生活している人々を〈強者〉と見なすほかないような、そういう普通の場所から一段落ち込んだ負の世界に生きている人々がいる。その少年も実はそうした魂の在所を持っていたのではないかと作者は見なしている。この物語世界を通した作者のモチーフは、現実世界で日々魂の受難を被っている人々にスポットライトを当てることであった。そして、そういう人々が生きていく細い道筋をイメージすることにあったと思う。

 ところで、天吾と青豆も小さい頃深い魂の傷を負っている。十歳の時青豆は学校で急に黙って天吾の手を握った。そこから二人とも互いを思い始める。小さな病める魂同士が深い場所で一瞬にして出会い感応し合ったということなのだろう。しかし、それも含めて二十年間も一度も会うことなく「超純愛」が持続したというのは異様な印象を与える。

 これは何の喩なんだろうか。この物語世界が天吾と青豆が主流にあるのは間違いないと思う。しかし、素直にその「超純愛」というモチーフを受け入れることはできない。とりあえず「超純愛」という通俗なモチーフを認めないとすれば、作品世界の無意識的なものとしては、神話世界を思わせる過剰な性描写によってその「超純愛」という通俗性を賦活していると見ることができる。一方、作者の無意識のほうに返せば、老年に近づいた作者の老いの徴候を賦活するというモチーフが込められているのではなかろうか。いつまでも昔と同じままで若者を取りあげて物語世界を走らせることはできないだろうから。

 喩として考えてみると、深い魂の傷を負った者は同様な傷を負った者としかほんとうは通じ合うことができないという喩として受け取るほかないように見える。

 ひとつ気になることがある。作者は、この作品にパズルのような仕掛けを施しているのではないかということである。(第23章 P474-P479)この物語世界に、ふかえりが語り天吾が書いた『空気さなぎ』や天吾自身が書いている物語作品が内蔵され、しかもそれらが物語世界自体や青豆などの登場人物にも見えないところから関与して動態化させていると語り手は語っている。つまり、物語世界に別の小さな物語世界が作られて全体の物語世界に関与したり影響を与えるというのである。いずれにしても、それは作者の魂のモチーフには深く関わっていないと思われる。
 
 作品に依然として謎のように靄が立ち込めて見えるのはしょうがない。とりあえず、わたしが一回目の読みでたどれたのはここまでである。