『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑥⑦ | nishiyanのブログ

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 『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑥⑦


  [1章から終章・24章まで]

  2017.3.30 作品からこまごまと


 1.数学の描写について

 天吾は、週三日予備校に勤務する若い数学の教師である。小説も書いている。その天吾の描写。


 数学教師としての彼は教壇の上から、数学というものがどれくらい貪欲に論理性を求めているかということを、生徒たちの頭に叩き込んだ。数学の領域においては、証明できないことには何の意味もないし、いったん証明さえできれば、世界の謎は柔らかな牡蠣のように人の手の中に収まってしまうのだ。講義はいつになく熱を帯びて、生徒たちはその雄弁に思わず聞き入った。彼は数学の問題の解き方を実際的に有効に教授するのと同時に、その設問の中に秘められているロマンスを華やかに開示した。
 (第22章 P498-P499)



 『平均律クラヴィーア曲集』は数学者にとって、まさに天上の音楽である。十二音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八曲。完全なサイクルがそこに形成される。
 (第16章 P368)



 この数学の描写は、読者としては流し読みして良いのかもしれない。天吾は予備校で受験数学を教えているわけであるが、作者村上春樹が大学で理工系に学んでいたならこのような甘い数学の描写にはならなかったろうと思う。なぜわたしがこの数学の描写にひっかかったかというと、二つ目の引用のような音楽談義(ここでは、天吾とふかえり)が何度か出てきたのである。わたしは、このような音楽に関してはまったくわからないから、数学の描写で音楽の描写を類推できないかと思ったわけである。しかし、それは無理がありそうだ。若い頃の喫茶店を経営していた頃から音楽の造詣を深めてきたのかもしれない。ともかく、作品はわかる読者にわかればいいのだろうという面も持っていると思う。わたしはそんな音楽の描写は流し読みなりとばすなりするほかにない。しかし、作品世界での数学や音楽談義も、これらは作者の知見や造詣の程度と対応した描写になっているのはまちがいない。ただ、やっかいなのはこれらの音楽談義やチェーホフの『サハリン島』からの引用された言葉などが、作品の流れを強化したり、なんらかの喩として機能するように位置付けられている場合である。



 2.「文体」ということへのわたしの関心から

 わたしは「文体」ということに関心を持っているから、次の部分に目が留まった。もちろん、電話をかけてきた相手をそのベルの音からわかるというのは、あり得ないだろうという思いも立ち止まらせた。「ベルの鳴り方」とあるからたぶん家庭の固定電話と思うが、それがかけた相手によってベルの音が変わるということはあり得ないはずだ。編集者の小松は、夜遅くでもお構いなしに天吾に電話をかけてくることがあるのは今までに何度か描写されている。そのせいかと思った。しかし、語り手は「うまく説明できないのだが」と天吾がなんらかの微細な差異を見分けることができると言いたがっているように見える。付け加えれば、自閉症と呼ばれている人の中には、スイッチが入っていないラジオから放送されているものをなんとか聴き取れる人がいるらしい。これもまた、大多数の普通の人々の感度を超えている。


 小松が電話をかけてきたのは、『空気さなぎ』が二週続けて文芸書ベストセラーの一位になった数日後だった。夜中の十一時過ぎに電話のベルが鳴った。天吾は既にパジャマに着替え、ベッドに入っていた。うつぶせになってしばらく本を読み、そろそろ枕もとの明かりを消して眠ろうとしたところだった。ベルの鳴り方から、相手が小松であることは想像がついた。うまく説明できないのだが、小松のかけてくる電話はいつだってそれとわかる。ベルの鳴り方が特殊なのだ。文章に文体があるように、彼がかけてくる電話は独特なベルの鳴り方をする。
 (第22章 P500)



 「文章に文体があるように、彼がかけてくる電話は独特なベルの鳴り方をする。」ここでは、「文体」というものは作者固有のものを指している。そして、一般的にではなく小松がかけてくる電話は、彼固有の独特なベルの鳴り方をすると言われている。しかし、人間の通常の感覚や能力ではあり得ないことである。この描写は、何らかの伏線を持つのかここで完結しているのかはわからない。



 3.男女の交わり・性描写について

 並行して推移してきた物語世界の「天吾の章」も「青豆の章」も男女の交わり・性描写が、これまでの村上作品に対するわたしの大まかな印象からは今までになく多いような気がする。しかし、人間的な世界の描写だから別にそのこと自体は問題ではないが、この作品世界ではその男女の交わり・性描写は、天吾や青豆という登場人物の生存の欠損の象徴として、その喩としての位置を担っているように見える。また、このことを作者村上春樹の無意識的なものと見なすならば、その男女の交わり・性描写は作品発表時作者は60歳ぐらいで、作者に訪れているだろう老いの徴候を賦活して言葉を励起する作用をもたらしたのかもしれない。



 4.ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に触れた箇所

  この作品と関わりありそうなジョージ・オーウェルの『一九八四年』に触れた箇所がある。ふかえりの保護者をしている先生が語る。


 先生はしばらく自分の両手を眺めていたが、やがて顔を上げて言った。
 「ジョージ・オーウェルは『一九八四年』の中に、君もご存じのとおり、ビッグ・ブラザーという独裁者を登場させた。もちろんスターリニズムを寓話化したものだ。そしてビッグ・ブラザーという言葉(ターム)は、以来ひとつの社会的アイコンとして機能するようになった。それはオーウェルの功績だ。しかしこの現実の一九八四年にあっては、ビッグ・ブラザーはあまりにも有名になり、あまりにも見え透いた存在になってしまった。もしここにビッグ・ブラザーが現れたなら、我々はその人物を指さしてこう言うだろう、「気をつけろ。あいつはビッグ・ブラザーだ!」と。言い換えるなら、この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」
 先生は天吾の顔をじっと見たまま、笑みのようなものを浮かべた。
 (第18章 P421-P422)



 わたしは、高校の頃英語の授業でジョージ・オーウェルの『動物農場』を読んだことがある。これも寓話的な作品だった。オーウェルの『一九八四年』は読んでいないけど、ビッグ・ブラザーという独裁者と対比してコミューン「さきがけ」にまつわるリトル・ピープルが取り上げられていることは、読者に何か不吉な未来を予想させる。



 ⑦ 作品の未来からの視線


 わたしはこの文章を書く前に、『1Q84』のBOOK 1は読み終えて、BOOK 2の第6章まで読み終えている。ということは、読者として作品の未来からの視線で作品を見ることができるということになる。もちろん、作者はある程度の大まかな構想を持ってこの作品を書き出しているはずだから、作者の場合はBOOK 1を書きながら物語の起伏やわくわく感や心ひくためなどからBOOK 2に書かれることを意識的に伏せておく等の作品の未来にずいぶん通じていることは確かである。

 BOOK 2も青豆の章と天吾の章が交互に並行して進んでいく。また、BOOK 1では意図的にふせられていたと思われる、青豆と天吾は十歳頃互いに心ひかれ合ったということが明かされている。また、青豆の章で今のところ青豆だけが実在感を持って空に二つの月が出ているのを目にするが、天吾の章の天吾も自分の書いている小説には二つの月がでていると語られる。(註.1)こうして、交互に並行して進んで行く青豆の章と天吾の章という作品世界が、メビウスの輪のようにねじれつつ何らかのつながりをつけていくということが予感される。

(註.1)
 月が空に二個浮かんでいる世界という設定は『空気さなぎ』から運び入れたものだ。天吾はその世界についてもっと長い複雑な物語を―そして彼自身の物語を―書こうとしていた。設定が同じであることは、後日あるいは問題になるかもしれない。しかし天吾は今、月が二個ある世界の物語をどうしても書いてみたかった。あとのことはあとで考えればいい。
 彼女(引用者註.週一で天吾に会いに来る人妻)は言った。「つまり夜になって空を見上げて、そこに月が二個浮かんでいたら、『ああ、ここはここではない世界だな』ってわかるわけね?」
「それがしるしだから」
「その二つは月は重なり合ったりしない」と彼女は尋ねた。
 天吾は首を振った。「何故かはわからないけれど、二つの月のあいだの距離はいつも一定に保たれている」
 (第24章 P550-P551)



 このあと、その「ガールフレンド」から「ねえ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知っている?」と天吾は尋ねられ、この物語作品の流れに「二つの月」とともに「精神に異常」を抱えているということが付加される。

 登場人物の天吾は「何故かはわからないけれど」と言うほかないが、たぶん作者はそのことを知っているはずだ。わたしが読んできた流れから一つ二つ予想をしてみる。当たるかどうかはわからない。BOOK 2では老婦人の依頼によって青豆は、内閉的な宗教組織に変質したコミューン「さきがけ」の「歪んだ魂」の持ち主でありからだに故障を抱えている指導者を、からだのマッサージ等を施術するという名目で近づいて殺すことになる。まだ、その行動以前である。この指導者は、コミューン「さきがけ」の中で行方不明になっているというふかえりの父親ではないかと思う。もうひとつは、この交わることのない病める「二つの月」は、天吾と青豆とその関係を暗喩しているのではないかと思う。