こんばんわ~☆

かづきです♪


4月は、本当に忙しい月ですネ。

毎日が、テンテコ舞いですぅ・・・(汗)


きょうは、詩人の「八木重吉」さんの紹介をしたいと思います。

あたし、彼の詩はとっても好きです。

昭和42年発行の「定本 八木重吉詩集」を持っています。

この方が八木重吉さんです。



ナース・か月の、のほほん日記♪-八木①
兵庫県御影師範学校で英語の教師をしていた頃 

桃子満一歳の誕生日に(大正13年5月26日)

重吉26歳 とみ19歳


●八木重吉さん、プロフィール

早世の詩人。1898(明治31)年29日、東京府南多摩郡堺村相原大戸(現在の東京都町田市相原大戸)に生まれる。 1917(大正6)年、東京高等師範学校に進む。在学中、聖書を耽読し、かつ内村鑑三の著書に感化されキリスト教に受洗する。 1922(大正10)年、卒業後、兵庫県御影師範の英語教師となる。24歳で、17歳の島田とみと結婚。この頃から、詩作と信仰に打ち込みだす。 1925(大正14)年、親戚の作家であった加藤武雄の世話により、第一詩集『秋の瞳』が新潮社より刊行される。以降、佐藤惣之助主宰の『詩の家』の同人となり、草野心平を中心とする『銅鑼』や『日本詩人』『生活者』等、詩誌に作品を寄せる。 1926年、結核と診断され、以後、約1年間絶対安静の闘病生活を続ける。病の床で第二詩集『貧しき信徒』を編纂。 1927(昭和2)年1026日、『貧しき信徒』の刊行を見ぬまま死去。郷里堺村の八木家墓地に葬られる。『貧しき信徒』は翌年、処女詩集と同じく加藤武雄の尽力によって、野菊社より出版された。

『貧しき信徒』について

第二詩集。1928(昭和3)年220日、野菊社刊。103編の作品を収める。この詩集は作者の死後4ヶ月ほどして出版されたもので、作者の自選と解されます。これらの詩が制作された期間は、前集のあとを受けて、1925(大正14)年春頃から、発病して結核を発病して入院する1926年5月頃までの、1年余りと見られます。

『詩稿』について

八木重吉の詩縞の特徴は、そのほとんどがタイトルを付けられた詩群に編まれていることです。2000篇以上の詩が、作者自身によって60余りの詩群として残されました。自分用に編まれたものであり、詩と言うよりは草稿や感想、断片に類するものも多く含まれていますが、単なる下書きやメモ以上のものが多く含まれています。掲載した詩縞は、1925(大正14)年の9月に編まれたものを中心にしています。



八木重吉(やぎじゅうきち)は、町田が生んだ詩人です。純粋で素朴、わかりやすい言葉でその心を詩にしています。生前はたった一冊の詩集しかありません。詩人は2000以上の詩を遺して29歳の若さで亡くなっています。



八木重吉の詩は在世中はそれほど知られませんでした。しかし草野心平が心を許し、高村光太郎が絶賛しています。作家の三浦綾子さんは、いま尊敬できる人に、八木重吉をあげています。八木重吉さんの生家は1961年に火災で焼失しました。その生家の敷地内に記念館があります。重吉を慕う甥の八木藤雄さんが、土蔵を改装して八木重吉記念館を開設しました。小さな記念館ですが、資料と遺品が数多く整理され展示されています。書き込みや線がひかれた愛用の聖書、筆書きの詩の原稿、手紙の数々、桃子ちゃんの習字も保存されています。


ナース・か月の、のほほん日記♪-YAGI

素朴な琴
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴は静かに鳴りいだすだろう




くものある日
くもは かなしい
くもの ない日
そらは さびしい



つまらないから
あかるい陽(ひ)のなかにたってなみだを
ながしていた

赤い寝衣(ねまき)

湯あがりの桃子は赤いねまきを着て
おしゃべりしながら
ふとんのあたりを跳(は)ねまわっていた
まっ赤(か)なからだの上したへ手と足とがとびだして
くるっときりょうのいい顔をのせ
ひょこひょこおどっていたが
もうしずかな障子(しょうじ)のそばへねむっている


悲しみ

かなしみと
わたしと
足をからませて たどたどとゆく