糟目春日神社(愛知県豊田市) | 寺社仏閣のらり旅

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寺社仏閣のらり旅の記録です

糟目春日神社へ行ってまいりました。
愛知県豊田市渡刈町北田62-4

この神社は『延喜式神名帳』の「参河國 碧海郡 糟目神社」の比定社とされているので、延喜式内社を名乗っている格式のあるところです。


手水舎の龍は石造りですが、ここの龍は全身があって一生懸命背伸びをしてるように見えてかわいい。

 


社務所へ伺うと朝10時頃ですが閉まっていて、窓口開設時間 毎週土日の9~12時の横に、本日所用のため閉鎖…の張り紙が。残念。
掲示板にある年間予定表に氏子総会がある旨記してあるので、それでしょうか。

 


狛犬。きもち柔らかいポーズに見えます。

 


拝殿で奉拝後、平坦で広々とした境内を散策。

 

正面の駐車場にある看板によると
本殿には
天宇受賣命(あめのうずめのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
火産霊尊(ほむすびのみこと)の四柱が、

本殿の左手に三軒並ぶ末社の社には右から
津島社 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
秋葉社 迦具土神(かぐつちのかみ)
山神社 大山祇神(おおやまつみのかみ)の三柱が祀られています。

 


社務所前の石碑だと、主祭神にホムスビノミコトの名がなぜかない。
本殿にスサノオノミコト、ホムスビノミコトがいらっしゃるうえに、末社にもスサノオノミコトとカグツチノカミ(ホムスビノミコトと同一とされる)がいらっしゃるのが興味深い。
末社は近代になってから境内に遷座してきたのかな。

 


末社の前の建物が、現在どう利用されているのかわからないですが、看板をみて旧社殿だとわかる。

 

境内の右の方には、神社ビオトープなるものがありました。

地下水をメダカや金魚の池に送ってます。

帰宅後、持統天皇の三河行幸際の鷹狩をきっかけに神社が営まれ、この地域が「鳥狩(とがり)」と呼ばれ、現在の渡刈町の元になったという事が、看板にも石碑にも書いてあったので、『続日本紀』に当たってみた。
大宝二年(702)に持統太政天皇(文武帝に譲位していたので)は三河国に行幸したとの記述はあるのだけど、鷹狩については載っていない。
糟目春日神社から東北東へ800mに鳥狩塚古墳(渡刈町大明神38-1)があり、持統天皇の旧跡であるとの石碑があるので国史以外で何らかの言い伝えがあったのではないか。
あれこれ捜しているうちに見つかったのが『参河國碧海郡誌』碧海郡教育会 編 大正5年刊。
P191に碧海郡の沿革として「渡刈」についての記述がありました。

  (六十三) 渡刈
  肇創年曆詳ならず。古來の傳に、鸞輿嘗て参河に行幸し、本村末の原野にて鷹狩し給ふ。是れにより創め鷹狩村と稱せしを後世轉訛して遂に都賀利、登刈、都刈等と書し、遂に渡刈と書すに至りしなりと。續日本記に曰ふ「文武天皇、大寶二年十月甲辰、大上天皇、幸参河國、令諸国無出今年田租云々、十一月戊子、車駕至自参河、免從駕騎士調」とあり。時正に秋冬の頃にして鷹狩の時なり。傳の如くば車駕三河に行幸し、末の原野に鷹狩し給ふとは即ち持統天皇の事なるべきか。

古い言い伝えに、昔帝が三河の国へ行幸あそばし、この村の末の原野で鷹狩をなさったので、村は鷹狩村…なまって渡刈村になった。『続日本紀』では鷹狩にちょうど良い時期に持統天皇が行幸された記事があるからこれじゃね?ということらしい。

「古傳」の出典がわからないけど、これ以上はネット使いでは難しい。
因みに『参河國碧海郡誌』は国立国会図書館のデジタルコレクションで読めます。→ココ

追記:

3/16(土)に御朱印を頂いてまいりました。神職さんがおられないのか、書置きで頂きました。