青い朝の時間

青い朝の時間

子育てを機に、朝型生活。夜明け前のブルーモーメントに魅了されながら、いろいろ想います。今日はどんな一日になるかな。

Amebaでブログを始めよう!

自分の幼少期を思い出してみると、親から褒められたり、ぎゅっと抱きしめられたりした記憶があんまりないような気がします。もちろん両親や祖父母から愛情いっぱいのもとで育ててもらったし、お出掛け好きな両親は毎週末どこかに連れていってくれて、旅行やキャンプも楽しんできました。にもかかわらず、特に母親から怒られている場面が断片的な記憶として強く鮮明に残っています。このことを心理学に詳しい友人にちょっと話してみました。すると、

 

「子供の頃に親から認めてもらったり、褒められたりした言葉や経験は、子供の脳が成長に使うから忘れちゃうらしいよ。」

 

なんと!!私にとっては目からウロコでした。

 

つまり、何気ない日常を幸せに感じられるような大人になっていれば、その人の幼少期は概ね幸せだったということでは!

 

ある脳科学者の子育てエッセイにも、似たような内容が書かれていました。「幼児は周りの共感や肯定によって脳が同期発火し、何事にもチャレンジできるようになる」。

 

幼少期だけでなく、人は嫌なことされたほうがよく覚えてますよね…?今回の話を聞いて、ある意味それも納得できました。人からうけた愛情や良い対応は、自分の成長や同じようにまた人に返していくエネルギーに使われる、と解釈しました。

 

いま二人の息子を子育て中で、8か月の弟がズリバイでお兄ちゃんのオモチャを舐めに行く・それに対して怒るお兄ちゃんが弟を突き飛ばす、という日常茶飯事。最初は優しく注意するけど、兄が弟を突き飛ばすエスカレートに伴い、私の声も荒くなっていっていきます。今回の脳の仕組みをヒントに、何かポジティブな言葉がけや対応を考えてみようと思います!そして、子育て中にいっぱい愛情をそそぎ、「大好き」という言葉のシャワーと共に、心身すこやかに幸せに育っていきますように。

8か月半の次男を抱っこしながら、戦争のお話を聞いてきました。その一部を書き綴ります。

 

・7名の語り部の方々は戦前・戦争中ご近所や小学校の同級生だったけど、強制疎開や空襲の被害に遭い、その半数以上の方々は戦後から違う場所に住んでいる。

・新橋の闇市には、なんでも売っていた。子どもながらに「戦争中は何にもなかったのに、ここにはなんでもそろっている!こんなものまで売ってるの?!」と驚いたそうです。当時、家の洗濯物でさえ外に干せなかった。なぜなら、外に置くと全て盗まれてしまうから。ある日、遠方から親戚が訪ねてきたとき、お土産の魚を一瞬玄関先に置いただけで、盗まれてしまった。「無くなったものは全て闇市に売られている」と言われるほどだった。闇市では不法行為や人同士の争いが絶えず、また、火事も頻発。バラック小屋なので、火の手がすぐに回ってしまう状況。

昭和23年(戦後3年)、新橋の闇市が火事で消失したそうです。そのとき消火活動にあたったのがアメリカの消防隊。闇市の跡地に現在のSL広場の脇にあるニュー新橋ビルができた。

・戦後は混沌としていて、広がる焼け野原、ちょっとでも住めそうな家には所有者不在の間に見ず知らずの誰かが勝手に住み着いてしまうことが日常化し、行政による土地の管理もできなかった状態。一人の語り部の方は、戦争中よりも戦後のほうが大変だったと言っていました。

・今年97歳を迎えた方は、学徒出陣の経験があります。彼は内地で通信の仕事をしており、実際に敵地に行かなかった・敵軍を初めてみたのは終戦後。その方が、とても印象的なお話をしてくださいました。

 

「入隊したところによって違う。人の思想によって違う。戦争中から戦後の生活によって違う。つまり、10人いれば10人の戦争体験がある。戦争はこうだった!とは決して言い切れない。人それぞれ全く経験が違うので。」

 

それから、

 

「入隊して6カ月間は1日20発くらい殴られた。殴る人は大体同じ人。定期的に東京の実家に帰ったとき、母親が自分の顔を見て、泣いた。殴られて赤くみみずばれになっていたので。軍隊には鏡なんてなかったから、自分の顔がどうゆうふうになっているのか分からなかった。自分に星が一つついた(昇級した)とき、部下を殴ろうとは思わなかった。だけど、一人だけ態度がどうしても悪くて、殴ったことがある。そのとき、やっぱり自分は人を殴るのが嫌いだと確信した。振り返れば、自分は親から殴られたことがない。」

 

私は、「自分は人を殴るのが嫌い。自分は親から殴られたことがない。」という言葉を重くとらえました。なぜなら、戦時中の精神的肉体的にも厳しいはずである軍隊の環境下においても、人として揺るぎない心や行動は親の教育によって形成されると思ったからです。改めて、私は一人ひとりの貴重な経験を聞けていることに感謝の気持ちが沸き上がってきました。同時に、次世代にどのように伝えていくかを考え中です。

昨日、語り部の会に参加してきました。前回は次男がずっと寝てたけど、今回は起きていたので、みんなから「やっぱり赤ちゃんは可愛いね。元気をもらうね」と、7名のおじいちゃんおばあちゃんが温かく迎えてくださいました。

 

一人のおばあちゃんが「戦争中、自分が何歳だったか、どこの地域にいたかによって、全く経験が異なってくる」と、何度もおっしゃっていました。昨日うかがったお話の一部を記します。

 

・小学二年生の自分は学童集団疎開にいかなかったけど、兄は集団疎開した。まずは静岡へ。やがて静岡にも空襲が来るようになり、岩手に移動した。疎開期間は約2年。兄から「お腹減った」という手紙ばかりが届き、母は心配していた。

・小学二年生で那須塩原の旅館に学童疎開した。そこで空襲には遭わなかったけど、疎開先の周りは何もなく、親と別々で、楽しい思い出がない。親に欲しいものや食べたいものを手紙に書いていた。

・学童疎開にいくとき、親から炒った大豆をお手玉に入れてもらった。疎開先で空腹の夜にその大豆を布団の中で食べて過ごした。中には、それによってお腹をこわす子もいた。

・学童疎開中の食べ物は、乾燥芋やサツマイモが入ったご飯。栄養失調で歯ぐきから血が出てきた。

・縁故疎開で茨木へ。東京の親戚がみんな集まり、一軒家に住んでいた。豆や大根を入れたご飯を食べていた。

・戦争中の小学一年生のとき、書初めが「つわもの」だった。「今の時代だったら、こんな文字を書かないでしょう」と言っていた。

・東京の新橋駅の形は戦前から変わってない。今みても、ホッとする。心のよりどころに思う。

・新橋付近に住んでいた人たちは、当時の第一ホテルの地下にある防空壕に避難していた。

・アメリカ大使館は狙われないと考え、空襲警報が鳴ると、大使館周辺に隠れる人も大勢いた。

・小学校によっては校内に防空壕があり、ない小学校は教壇の下にもぐっていた。

・高価な物と食べ物を物々交換しても、警察に見つかると、取り上げられてしまうこともあった。「農家の人は、戦争中は裕福だったのでは。食べ物に困らず、高価な着物と交換できたので」と言っていた。

・子供が物々交換する最初は怖かったけど、交換の相場を覚えると、ちょっと楽しくなった。子供だと少しだけ多く貰えることもあった。

・戦後、米兵が戦利品として日の丸国旗を欲しがり、チョコレートと交換していた。「子供達の中にはチョコレートを貰うことで敵対心が薄れてきたのでは」と。

・戦後、パン屋にお金(加工料)と小麦粉をもって、パンを作ってもらった。ふすま粉も混ざっていたので、茶色い仕上がりになった。銭湯にはお金と薪をもっていくことで入浴できた。修学旅行には米2合ほどを持参し、宿泊する旅館に差し出した。

・日比谷公園には戦争浮浪児も多く、缶を首に下げて、食べ物を乞うていた。

 

以上、一人ひとりの貴重なお話を伺いました。

 

語り部の会の終わり際、「なんで、この語り部の会に興味持ったの?変わってるね」・「私のお嫁さんから、孫たちに戦争の可哀そうな話をしないで、なんて言われちゃったわよ」と、私に二人のおじいちゃんおばあちゃんが話し掛けてきてくれました。私はここ5年くらいの間に祖父母を亡くし、戦争の経験も含めてもっと色んな話を聞いておけばよかったと心残りがあります。あと一人、母方の祖母が生きてますが、病気も患って口数がどんどん少なくなってきています。あんまり会話できないほど…。そして、母方の祖父が幼い頃から大好きで、大好きで。祖父のことを想う気持ちが、この語り部のおじいちゃんおばあちゃんへの尊敬に繋がっているように思います。どんな話でも大切に聞いてみたいです。特に戦争の体験を聞けば聞くほど、今の私たちや子供達がいかに幸せな時代を生きているか。でも、その前には戦争の事実があったことを決して忘れてはいけません。少なくとも、私は実際に体験した方々から面と向かって話を聞けているので、次世代に伝えていく責任を感じてます。

9月中旬、近所で行われている語り部の会に初めて参加してきました。ずっと戦争の語り部に興味あって、色々と調べてみたら、自分の住んでいる区の生涯学習センターの一環で、月二回開催されていました。なんと、自宅から徒歩15分くらいの会場で…灯台もと暗し。

 

語り部のメンバーは、私の祖父母と同世代の80代半ばの方々が中心で、最高齢は97歳のおじいちゃん!この日は、9名のおじいちゃんおばあちゃんが参加していました。私が7か月の次男を連れていったら、温かく迎えてくださいました。そして、「語り部に興味をもってくれて、本当に嬉しい」という言葉も頂きました。私のほかにもう一名新しい参加者がいたので、みんなで自己紹介し、その中でそれぞれの戦争体験もお話してくれました。

・仙台大空襲を宮城野原から見ていたこと

・学徒出陣で、浜松で軍部の通信をしていたこと

・学童疎開で食べ物に困窮し、歯ぐきから血が出ていたこと

・中学生のときに有楽町で爆撃にあって、その破片3つを今年の夏に手術でとったこと等。

 

私は、いま自分の住んでいる地域の戦前・戦争中・戦後がどのような状況だったかを知りたい、そして、子供達に伝えていきたいとお伝えしました。

 

私は子ども時代から戦争に関心を持っていました。図書館から本を借りてきて、はだしのゲン・広島や長崎・ひめゆり学徒隊・学童疎開などの体験記、アンネの日記は何度も読みました。映画は、火垂るの墓。数回、自分が空襲から逃げる夢を見たことがあります。小学校二年生頃、戦争のドキュメンタリーを見て、戦車にものすごく恐怖を抱き、母に「明日もし戦争になったらどうしよう…」と、涙ぐんだ記憶を今でも覚えています。子供だった私は、同じような子供が戦争の犠牲になっている体験記を自ずと手に取っていました。最近では、「ナガサキの郵便配達」・「トンネルの森1945」・「この世界の片隅に」・「戦争めし」を育児の合間に読んで、これからの子供達の成長を願いながら、戦争のない平和な世界にしていきたいと胸に刻みました。

 

昭和59年生まれの私ですが、この年は戦後39年目です。39年ときくと、そんなに遠くに感じません。実際、祖父母が戦争中に子供時代を過ごしていて、「仙台空襲の時は夜なのに真っ昼間のように明るかった」と、自宅の防空壕から見ていたそうです。元号が平和・令和とうつりゆく中、戦争がどんどん遠い昔のようになってきています。戦争が起こった同じ昭和時代に生まれた一人の人間として、子供達に伝えていきたいと思っています。

久しぶりの更新です…!

 

昨日は第一希望の幼稚園説明会に出席してきました。

その園は、園バスがありません。

私の自宅から園までは大人の足で徒歩15分弱、子供と一緒でも30分以内の距離で、そもそも園バスを利用する予定ではなかったから問題ありません。

なぜ園バスがないのかという、幼稚園の先生のお話が心に残ったので、自分の気持ちも含めて記したいと思います。

 

園バスを設けていない理由として、親子が一緒に通園できるのは、人生において幼児期のみだから。

親子で一緒に通園しながら、色々な会話をしたり、四季を感じたりしてほしいと、お話してくれました。送り迎えは大変だけど、これも大事な教育の一環。

 

お話してくださった幼稚園の先生ご自身が、今でも親子で通園していたことを覚えているそうです。

 

私の幼稚園時代は、年少(埼玉県)では自転車に乗せられて、年中・年長(宮城県)では園バスで通園していました。

・・・残念ながら、通園の記憶があんまりありません。母の背中におんぶされている弟の後ろ姿を眺めながら、自転車の後ろに乗っていたこと、園バスを待ってる間に園庭の砂にチューリップを描いていたことだけを断片的に覚えています。

 

今の私は、保育園に下の子をベビーカーに乗せて、上の子と歩いて行っています。

毎朝、家を出て向かい始めるときは色んな質問を上の子にしているけど、途中から今日のスケジュールや夕飯のメニューをどうしようか、今日やる事などを頭で考えます。

帰り道は、「今日は何して遊んだの?お昼ご飯なに食べた?美味しかった?誰と遊んだの?」と、ひと通り聞くと、帰宅から寝かしつけまでの流れをシミュレーションしていたり。。

 

昨日のお話を聞いて、送り迎えは子供との大事な「今」だけの時間と、ハッとさせられました。

もっと色んな話をしたり、通園ルートで子供がどんなことに関心があるのかを見出したり(例えば、道路を走っている車でどんな車種が好きか?虫や植物をよく見つけるかな?など)、公園と同じくらい、通園は遊びの要素が多そうです。

今までは生活の一部、特に悪天候や時間に追い詰められているときは一種の修行のように感じていた送り迎えですが、昨日を機に、親子の立派なコミュニケーションだと改めました!しかも、幼児期限定ときたら、一日一日をもっと大事にしなくちゃ!とすら思えます。

 

毎日の送り迎えを、毎日の楽しい時間に。愛しい子供からの贈り物だと思って。