昨日、語り部の会に参加してきました。前回は次男がずっと寝てたけど、今回は起きていたので、みんなから「やっぱり赤ちゃんは可愛いね。元気をもらうね」と、7名のおじいちゃんおばあちゃんが温かく迎えてくださいました。
一人のおばあちゃんが「戦争中、自分が何歳だったか、どこの地域にいたかによって、全く経験が異なってくる」と、何度もおっしゃっていました。昨日うかがったお話の一部を記します。
・小学二年生の自分は学童集団疎開にいかなかったけど、兄は集団疎開した。まずは静岡へ。やがて静岡にも空襲が来るようになり、岩手に移動した。疎開期間は約2年。兄から「お腹減った」という手紙ばかりが届き、母は心配していた。
・小学二年生で那須塩原の旅館に学童疎開した。そこで空襲には遭わなかったけど、疎開先の周りは何もなく、親と別々で、楽しい思い出がない。親に欲しいものや食べたいものを手紙に書いていた。
・学童疎開にいくとき、親から炒った大豆をお手玉に入れてもらった。疎開先で空腹の夜にその大豆を布団の中で食べて過ごした。中には、それによってお腹をこわす子もいた。
・学童疎開中の食べ物は、乾燥芋やサツマイモが入ったご飯。栄養失調で歯ぐきから血が出てきた。
・縁故疎開で茨木へ。東京の親戚がみんな集まり、一軒家に住んでいた。豆や大根を入れたご飯を食べていた。
・戦争中の小学一年生のとき、書初めが「つわもの」だった。「今の時代だったら、こんな文字を書かないでしょう」と言っていた。
・東京の新橋駅の形は戦前から変わってない。今みても、ホッとする。心のよりどころに思う。
・新橋付近に住んでいた人たちは、当時の第一ホテルの地下にある防空壕に避難していた。
・アメリカ大使館は狙われないと考え、空襲警報が鳴ると、大使館周辺に隠れる人も大勢いた。
・小学校によっては校内に防空壕があり、ない小学校は教壇の下にもぐっていた。
・高価な物と食べ物を物々交換しても、警察に見つかると、取り上げられてしまうこともあった。「農家の人は、戦争中は裕福だったのでは。食べ物に困らず、高価な着物と交換できたので」と言っていた。
・子供が物々交換する最初は怖かったけど、交換の相場を覚えると、ちょっと楽しくなった。子供だと少しだけ多く貰えることもあった。
・戦後、米兵が戦利品として日の丸国旗を欲しがり、チョコレートと交換していた。「子供達の中にはチョコレートを貰うことで敵対心が薄れてきたのでは」と。
・戦後、パン屋にお金(加工料)と小麦粉をもって、パンを作ってもらった。ふすま粉も混ざっていたので、茶色い仕上がりになった。銭湯にはお金と薪をもっていくことで入浴できた。修学旅行には米2合ほどを持参し、宿泊する旅館に差し出した。
・日比谷公園には戦争浮浪児も多く、缶を首に下げて、食べ物を乞うていた。
以上、一人ひとりの貴重なお話を伺いました。
語り部の会の終わり際、「なんで、この語り部の会に興味持ったの?変わってるね」・「私のお嫁さんから、孫たちに戦争の可哀そうな話をしないで、なんて言われちゃったわよ」と、私に二人のおじいちゃんおばあちゃんが話し掛けてきてくれました。私はここ5年くらいの間に祖父母を亡くし、戦争の経験も含めてもっと色んな話を聞いておけばよかったと心残りがあります。あと一人、母方の祖母が生きてますが、病気も患って口数がどんどん少なくなってきています。あんまり会話できないほど…。そして、母方の祖父が幼い頃から大好きで、大好きで。祖父のことを想う気持ちが、この語り部のおじいちゃんおばあちゃんへの尊敬に繋がっているように思います。どんな話でも大切に聞いてみたいです。特に戦争の体験を聞けば聞くほど、今の私たちや子供達がいかに幸せな時代を生きているか。でも、その前には戦争の事実があったことを決して忘れてはいけません。少なくとも、私は実際に体験した方々から面と向かって話を聞けているので、次世代に伝えていく責任を感じてます。