/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◯
  。o○⭐️゚・:,。*:..。o○ ◇

│弥陀仏本願念仏

│邪見憍慢悪衆生

│信楽受持甚以難

│難中之難無過斯

   。o○⭐️゚・:,。*:..。o  ◇
  □_________/

 
  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◯         

│弥陀仏の本願念仏は
│邪見・憍慢の悪衆生

│信楽受持すること
│甚だ以て難し

│難の中の難
│これに過ぎたるは無し

  □_________/


◆「弥陀仏の本願念仏」

        とは


弥  ⇨阿弥陀仏
陀        (本師本仏)

┉┉

┉┉   
本  ⇨誓願

願      お約束

┉┉
念  ⇨阿弥陀如来の誓約

仏      どおりに救われると

          必ず報恩謝徳の念仏

          を称える身になる。



弥陀の本願を知らねば
後の三行も分かりません。


まず、弥陀の本願とは
何かをよく知って
いただきたいと思います。


┌────────┐
│                                ◇
│阿弥陀如来の本願は
│『大無量寿経』に
│漢字三十六文字で
│書かれていますが

│分かりやすく
│一言で言えば

│「すべての人を必ず
│    絶対の幸福に救う」


│というお約束です。
│                                ◇                              
└────────┘


相手を知らずに
約束はできません。


金銭の貸借の約束でも
相手構わずにできません。

重大な約束であればある程
相手をよくよく調査します。


阿弥陀如来は
全人類を
どのようなものと
見て取られて
約束されているのか。



約      十︵              五

束      方す      逆    逆

の  =衆ベ  =        罪

相      生て      謗    ・

手          の              法

              人              謗

              ︶              罪


阿弥陀如来は
すべての人は
逆謗だと仰せです。
 ̄ ̄☑️






逆謗とは
五逆罪・謗法罪を
造り通しの
極悪人ということです。


生き物を殺したり
うそをつくのも罪悪ですが
もっと恐ろしいのが
五逆の罪であり

その最初に
挙げられているのが
親殺しの罪です。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☑️


十六歳の少年が
金属バットで
お母さんを殴り殺したとか
五十代の男が
年老いた母親を刺し殺した
など


大恩ある親を
自ら手で殺すなど
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないか
とさえ思われます。


仏教では

┌─────────┐
│                                    ◇
│親殺しは
│無間地獄へ堕ちる
│恐ろしい無間業である
│                ̄ ̄ ̄☑️    ◇                              
└─────────┘

と教えられています。


ところが親鸞聖人は
手にかけて殺すばかりが
親殺しではないのだよと


  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◯
  。o○⭐️゚・:,。*:..。o○ ◇

│親をそしる者をば
│五逆の者と申すなり

│      (末灯鈔)

   。o○⭐️゚・:,。*:..。o  ◇
  □_________/

と言われています。


親をそしるのも
五逆罪なのです。

「早く死んでしまえ」

などと言うのは無論ですが

「うるさい」
「あっちへ行け」

などと、ののしるのも
親を殺しているのです。

╭  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ╮
   心の罪が
       最も重い
╰ ______ ╯


また、仏教では


🟠殺るよりも
         劣らぬものは
                 思う罪


といわれ

体や口より
最も重いのは
心で殺す罪だと
教えられます。


例えば
一つ屋根の下に
暮らしておりながら
ろくに口もきかず
食事も別々に取り
呼ばれても
聞こえないふりして

親を邪魔もの扱い
しているのは
心で殺しているのです。


親が病気で
寝たきりにでもなると


“邪魔だなあ”
“いい加減に死んでくれたら”


と、とても他人には
言えない心が
出ては来ないでしょうか。


親が元気で
小遣いをくれたり
仕送りしてもらえる間は
ありがたいと生かしておき

肉体が衰え
世話が必要になると
忘恩(ぼうおん)の徒となり

“面倒だ、いい加減に・・・”

と抹殺する。


手にかけて殺しては
いなくても
私たちは心でどれだけ
親を殺しているか
分かりません。


また


“こんなに苦しいのなら
  死んだほうがましだ”


と思ったことのない人が
あるでしょうか。


“生んでさえくれねば
  苦しまなくてもよかったのに”


と親を恨み
のろっている心ですから
心で親を殺している
ことになります。


╭  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ╮
  全人類が救われる
  唯一の道を壊す大罪
╰ _______ ╯


五逆よりも恐ろしいのが
謗法の罪です。


謗法罪とは
真実の仏法をそしったり
非難する罪をいい

これも無間業だと
教えられています。


かの聖徳太子が


🟠四生の終帰
    万国の極宗


と断言されたように
古今東西の全人類が
救われる
たった一本の道が仏教です。


そんな仏教を
誹謗することは

全人類が救われる
唯一の道を
ぶち壊すことであり
幾億兆の人を地獄へ
突き堕とすことに
なりますから

これ以上恐ろしい罪は
ないのです。


しかし
「仏法も鉄砲もあるか」
「仏教なんて迷信だ」
「邪教だ」
とののしる者だけが
謗法の大罪を造っている
のではありませんよ

と親鸞聖人は


  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◯
  。o○⭐️゚・:,。*:..。o○ ◇

│善知識をおろかに思い
│師をそしる者をば
│謗法の者と申すなり

│   (末灯鈔)
   。o○⭐️゚・:,。*:..。o  ◇
  □_________/


と教えられています。

真実の仏法を説かれる
善知識をおろそかに
思うことも
謗法の罪なのです。


居眠り半分で
仏法を聞いているのは
善知識をおろそかに
思っている表れでしょう。

尊く思えば
居眠りなどできるはずが
ないからです。


それだけではありません。


“今日の話は長かった”
“短かった”


と、善知識の教えを
批評しているのも謗法罪です。


なぜなら
先生は
子供の答案の善し悪しが
分かりますが

子供は
先生の答案の善し悪しが
分かりませんから
採点ができません。


善知識の教えを
「ああだ」「こうだ」
と採点しているのは
善知識の上に立ち
おろそかにしていることに
違いありません。


しかも
┌─────────┐
│                                    ◇
│このように
│五逆罪・謗法罪を
│造り通しの悪人だ
│と聞かされても

│罪を罪とも思わず
│悪を悪とも思わず

│地獄と聞いても
│驚かず
│極楽と聞いても
│喜ぶ心がない

│脈のあがった心
│ですから
│                                ◇                              
└────────┘


親鸞聖人は


🟠逆謗の屍
(ぎゃくほうのしかばね)


と言われています。


仏眼からごらんになれば
全人類は例外なく
逆謗の屍なのです。


ところが
私たちはうぬぼれ強く
逆謗の屍が自分だと
思っていません。
だれのことかと
思っています。


これを
憍慢(きょうまん)
といいます。


╭  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ╮
    「憍慢」とは
    どんな心か
╰ _______ ╯


憍慢とは
┌─────────┐
│                                    ◇
│地獄しか行き場のない
│真実の自己が分からず
│己(おのれ)は善人だと
│うぬぼれて

│死んだら極楽
│死んだらお助けと
│寝とぼけている心です。
│                                    ◇                              
└─────────┘


「まさか地獄へは
    堕ちんじゃろ」


「朝晩ちゃんと
    勤行もしているのだから
    悪いところへは行かんだろう」


「このオレが地獄へ
    堕ちるとすれば
    隣のばあさんは
    どこへ行くのか」


「これだけお念仏
    称えているのだから
    いつ死んでも大丈夫だ」


「素直に本願を信じ
    念仏喜んでいるもの
    間違いなかろう」


「他人から
    指さされるような
    悪いことはしておらん

    からよかろう」


挙げればキリがありませんが
このような心の動いている人を
憍慢の悪衆生というのです。


すべての人は逆謗の屍。
その逆謗を
「絶対の幸福」に助けると
約束されているのが
弥陀の本願です。


ところが
いまだ体験したことのない
夢にも見たことのない境地。

そんなことに
なれるはずがないと
私たちは全く受け付けません。
これが邪見です。


╭  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ╮
    「邪見」とは
    どんな心か
╰ _______ ╯


邪見とは
┌─────────┐
│                                    ◇
│阿弥陀如来の本願を
│計らっている心

│仏智の不思議を
│拒否する心
│                                    ◇                              
└─────────┘


「凡夫がそんなにハッキリ
    救われるものではない」


「人間に
    日本晴れの大安心なんて
    なれるはずがない」


「我々のような悪人に
    大満足なんか

    ある道理がない」


「この世で助かった
    ということはありえない」


「生きてよし死んでよし
    なんかに
    なれるものじゃない」


と、本願力の不思議が
体得できず
法の真実を計らっているのを

皆、邪見というのです。


╭  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ╮
    世の中に
    これ以上の難はない
╰ _______ ╯


地獄行きと聞かされても
だれのことじゃ
オレは違うと
うぬぼれている憍慢。


絶対の幸福に救う
と言われても
そんな幸福になれようかと
計らっている邪見。


┌─────────┐
│                                    ◇
│すべての人は
│邪見憍慢の悪衆生
│ですから
│弥陀の本願まことを
│まことと信じること
│(信楽受持)
│は難中の難なのです。
│                                    ◇                              
└─────────┘


弥陀の救いにあうことは
一兆円の財産を築く
ぐらいではありません。


100年や200年求めて
得られる
ちっぽけな幸せとは
ケタが違うぞと
親鸞聖人は


  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◯

│多生にもあい難い
│本願力に
│今あえたり。

│億劫にも獲難き
│真実の信心を
│今獲たり

□_________/


と叫ばれたとおり
多生億劫の目的なのです。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄☑️


🟠一生参学の大事


🟠仏道を求めることは
     大宇宙を持ち上げる
     よりも重いぞ


🟠信心獲得は
     難の中の難
     これ以上の難はない


と言われるのも当然でしょう。


╭  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ╮
    若不生者の
        ちかいゆえ
╰ _______ ╯


そこで阿弥陀如来は


「必ず助ける
    もしできなければ
    命を捨てる」


と誓われるのです。


✨救わずばおかぬの強烈な
✨「阿弥陀如来の本願」と

✨真実聞く耳のない
✨「邪見憍慢の悪衆生」とが
✨一騎打ちをするのです。


命懸けの弥陀のご念力が
生きて働いてますゆえに


    難中之難無過斯
(なんちゅうしなんむかし)


を突破させられ

信楽受持の身に
させていただける時が
必ずあるのです。


  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◯
  。o○⭐️゚・:,。*:..。o○ ◇

│若不生者の

│    ちかいゆえ
│ 信楽まことに
│     ときいたり

│      (浄土和讃)
   。o○⭐️゚・:,。*:..。o  ◇
  □_________/


  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◯


    阿弥陀如来の
     命を懸けた
     お約束があるのだから
     間違いなく
     絶対の幸福の身に
     なれる時がくるのだぞ


  □_________/


そこまで求め抜いてくれよの
親鸞聖人のお言葉です。