岡山の誇る蘭学者 緒方洪庵 | おかやま大好き!(岡山県の観光情報満載!)

岡山の誇る蘭学者 緒方洪庵

ミト・ワークスのゴン太です。

さて、今日ご紹介するのは観光地ではなく人物です。
みなさんは「緒方洪庵(おがたこうあん)」の名前をご存じでしょうか?


では「適々斎塾(適塾)」はどうでしょう。


かなりの方がご存じだと思います。
「種痘」に至ってはほとんどの方が経験済みですよね(笑)。
緒方洪庵は幕末期の蘭学医の第一人者の一人と言っても反論は少ないと思います。

今日はあまり小難しい話にならないように簡単にご紹介します。
緒方洪庵は備中国足守藩士(現在の岡山市足守)の三男として生まれました。
15才の時に大坂蔵屋敷留守居役担った父親と共に大坂にで、蘭学を学ぶようになりました。

その後、江戸・長崎と学び、この頃から緒方洪庵と名乗りはじめたようです。
故郷足守から大坂に出て13年後に大坂に戻り蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きました。
通常、適塾(てきじゅく)呼ばれることが多いので、大抵の方は教科書で読んだ記憶があると思います(失礼)。

緒方洪庵の名声は瞬く間に高くなり、塾生が増えたため塾が手狭になったため現在も大坂市中央区に残っている家(重要文化財)に引っ越しました。
1849年には大坂に「除痘官」を開き、牛痘種痘法による種痘を始めました。
牛痘種痘法はジェンナーの発明なのですが、それをいち早く取り入れ民間人に施すというのは「流石」と言うほかありません。

なにせ、この頃は鳥や魚は普通に食べていたのですが、四つ足(牛や馬)を食べるという習慣がありませんでした。
だから、種痘を受けると「牛になる」なんて言う迷信を信じている人も多くいたのですが、種痘を受けた者は天然痘に罹らない結果がものをいって、すぐに押すな押すなの大盛況になったそうです(私の勝手な誇張(爆))
その翌年には足守藩からの養成で「足守除痘館」を開き種痘をしています。

この頃の適塾には、橋本左内をはじめ、大村益次郎佐野常民杉亨二箕作秋坪大鳥圭介・長与専斎福沢諭吉らのそうそうたるメンバーが住み込みで勉強していました。


この辺りのことは、手塚治虫先生の書かれた「陽だまりの樹」に面白可笑しく書かれています(笑)。
手塚家は代々医師の家系で手塚先生も医学博士ですが、そのご先祖様(日本で始めて軍医になった人)も医師で適塾に学ぶ様子が書かれています。
私はこの漫画が大好きで、もうボロボロになってしまいまた(笑)。

この辺りも「陽だまりの樹」を読んでいただきたいのですが(苦笑)、幕府の度重なる要請を断り切れず奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に出仕する。
のですが、この頃の幕府の奥医師(将軍お付きの医師達)は絶大な権力を持っており、蘭学者はなかなか難しい立場に置かれたようです。

東京に「お玉ヶ池種痘所」が解説されたのは、足守に「足守除痘館」が出来た8年後でした。

手塚 治虫
陽だまりの樹 (1)