和朝乱迷記<カチョウランメイキ>

和朝乱迷記<カチョウランメイキ>

椋の創作小説。

中華風歴史小説系統を目指してちまちまと奮闘中。

ご訪問、ありがとうございます。


当ブログは椋(=うり)による中華歴史風小説<和朝乱迷記>を連載しています。

三国志や十八史略を始め、中国歴史に魅せられ、好きが高じて自分でもそれらきしきものをと思い、書き始めました。


お読みいただくにあたり、下記の点にご留意いただきますよう、お願いします。



■物語は完全フィクションです。

中華風と銘打っていますが、実際の中国史とは何の関係も関連もありません。

国も人物も全てが創作物です。


■物語に年齢制限はありません。

ただ、使用漢字には人物名・地名以外では殆どルビを打ちません。

そのため、読みにくいと感じられる場合があるかもしれません

■物語の内容に関し、不快感を覚えられた方は以降の訪問をお控え下さい。

誤字・脱字の指摘など以外の苦情にはお答え出来ません。


■当ブログは無断転載禁止です。宜しくお願いします。

Amebaでブログを始めよう!

怪我を追って舞い戻った自家の召人を「役立たず」と吐き捨て、問答無用に斬って捨てようとした巌定(ガンテイ)を止めたのは彼の後ろに控えていた男だった。

「お待ち下さい」

と決して低くはないのに、酷く陰気な声音に、巌定は我知らず眉を歪めた。

陳家の宗主で、巌定の異母兄がこの男を重宝していることを、巌定は知っている。

知っているから、手を止めた。

でなければ、十近く年下の若造の差配など、巌定は歯牙にもかけない。

それが声ならば無視するし、腕が差し出されたのならば振り払う。

それをせず、手を止めて振り返ったのは、その幾分若い男に対する敬意ではなく、異母兄で宗主の乱隗(ランカイ)に対する敬意と遠慮だった。

巌定は背後に立つその男が嫌いだった。

物静かと言えば聞こえはいいが、要は陰湿なのだと巌定は思う。

光の無い曇った細い瞳と、常に引き結ばれ、宴席でさえ笑うことのないこの男の薄べったい唇とが特に彼の気性を象徴しているようで、好きになれない。

顔だちの造作は別段不細工には出来ておらず、どちらかといえば整った部類になる筈のその男の顔には、覇気と言う物どころか、生気さえ見受けられない。

「楊殿、何か」

巌定は振り返って問うた。

好きではない男だが、この男の言葉を蔑ろにすると兄が怒る事を巌定は知っている。

知っている以上、己の我を曲げても、この男の言い分を聞く必要があった。

己を制する事や律する事をせずに育った巌定の表情にも、声音にも口調にも、充分すぎる程に不満は露骨に浮かびあがっていたが、背後に佇むように立っていた男、楊 崇允(ヨウ スウイン)はそれを気にする風でもなく、

「少しその男を話がしたいのです」

と、やはり陰の篭った声で言った。

声は小さくないのに陰気に聞こえるのは、声の質の所為なのか、それとも彼の気質がそのまま音となる所為なのかわからない。わからないが、巌定はもう十年近く異母兄に仕える崇允の声に慣れる事が出来ず、やはり無意識に口元を不機嫌に曲げた。

「どうぞ、ご随意に」

御気の済むまでどうぞ、と巌定は乱暴な口調で言い、無造作に身を引いた。

利き手に下げた抜き身を腰に戻さないのは、最終的には彼からすれば「役立たず」な者を斬り捨てるつもりだからであり、それと同時に逃げ出す事を防ぐための威嚇であり、その奥には剣を佩かない崇允に対する威圧の意味もあった。

その奥底の威圧が相手に通じているかどうかは怪しく、崇允は眉一つ動かさず、巌定が譲った場所に進み出た。

足取りにも身形にも所作にも粗野な部分はない。

乱隗が彼を「物静か」と言ったのはあながち間違いではなかった。

大柄な巌定に隠れて崇允にはきちんと見えなかったその召人は蹲って震えていた。

左肩から鎖骨の辺りと左上腕に刀傷を負ったようで、その一帯が真っ赤に染まっている。

ただ、切り傷そのものは浅く、巌定に斬って捨てられなければ命に別状はなさそうだった。

「・・・他の者はどうしました」

抑揚も感情も灯らない、巌定に言わせれば陰気な声で崇允は蹲る男を見下ろし、問い掛けた。

がたがたと音がしそうな程に震えていた男は、その震えを止められないまま、怯えた顔を僅かに上げ、首を左右に振った。

「わからないのですか」

仕草で答えた相手に、崇允で言葉で確認する。

「い、・・・一緒に襲われて・・・、囲まれたから、多分・・・」

細く掠れた声で男は答える。

声よりも、喘ぐような息遣いの方が大きく響く有様に、脇に立っていた巌定が舌打ちした。

その大きな音に、蹲った男がさらに身を縮ませる。

「殺されたと言う事ですか」

崇允は巌定の舌打ちにも、それに怯える男の有様のどちらにも反応は示さず、細い双眸で静かに男を見下ろし、己の問いたい事だけを言葉にする。

「た、たぶ・・・ん・・・」

男は震える声で小さく答え、壊れた人形のようにがくがくと首を縦に振った。


彼は主から「曹 文廉(ソウ ブンレン)の後を追う」ようにと命じられていた。

その命令を受けたのは今朝方で、目標の人物は東宮府に勤める役人の官舎にいると言うことだった。

同じように特定の人物の後をつけるようにと命じられていた仲間と共に、陽が昇るよりより早くにその官舎の前に張り込んだ。

曹 文廉の顔ならば彼も知っている。

彼はこの翠都の王族に連なる青年で、王太子と仲がよい。王太子を囲む彼等が街を出歩く様を何度も見掛けている。

その見知った目標は、これまた見知った顔触れと共に官舎を出、三人揃って市街地へと入っていった。

彼は勿論その後を追い、文廉と一緒に居た侯 淵才(コウ エンサイ)と曹 孝真(ソウ コウシン)を其々追うように命じられていた仲間と一緒に市街地へと入った。

人通りの多い市街地は尾行するに容易く、彼等は文廉達に意識されることなくそれなりに尾行を成功させていた筈だった。

雲行きが怪しくなったのは、賑やかな市街地で彼等に浪人が絡んできた辺りだった。

野次馬にまぎれて情況を眺めながら、彼は三人が浪人の挑発に乗らぬことを願っていた。

文廉を始めとする三人は、昨夜見失った主の王太子 珀蓮(ハクレン)を探す為に街へ出た筈だと彼は思っているし、彼等に尾行を命じた主もそう思っているに違いなかった。

なにしろ、昨夜遅くに彼等を襲ったのは他ならぬ彼の主であり、抹殺する手筈だった王太子を逃した事も勿論、彼等はそれなりに知っている。だからこそ、こんな命令を自分は受けているのだ。

彼の主からの追っ手をなんとか振り払って、文廉達は王太子を東宮に連れ戻したいに違いなく、見失った王太子を彼等より先に見つけ出さなくてはならないに違いないのだ。

こんなところで下らない浪人風情と悶着を起こしている場合ではない筈だ。

しかし、三人の中で一番直情で知られる曹 孝真が愛刀の柄に手を掛け、それを侯 淵才が押し止めたと思った直後、彼等三人は浪人の売った喧嘩を買って、市街地を外れて人気の無い細い路地へと入ってしまった。

願いも虚しく、事態は彼の一番望まぬ方向へと転がってしまったが、与えられた命令を無視することは出来なかった。

人気の無い路地で尾行を敢行すれば、その行為が発覚する可能性はかなり高くなる。

不審に思われれば、当然、文廉達は彼等をまくか、逆に追うかしてくるだろう。

だが、命令不服従は彼等の死を意味した。

彼等の主は召人を人とは思っていない。換えなどいくらでもいる捨て駒だと思っている。

扱いは犬猫の畜生と変らない。

たかがその程度でと思うような容易い事由で切り殺された仲間を何人も見ていた。明日は我が身と思いながら、なるべくならば我が身にならぬようにと必死にやってきたのだ。

ここで怖気づいて引き返せば、待っているのは罵声と死だけだった。

それならば、同じ死ぬならば、彼等に見付かって殺される方が幾分情況はいい。

自らの命が儚くなる運命は変らなくとも、残された家族の運命は多少改善される。命令遂行中に死んだ召人の遺族には、一応手当てが出るし、子があればそれなりに引き立ててもらえる。

任務放棄した物の家族が召人以下の隷人に落とされ、犬や猫以下の扱いを受ける事を思えばそれは雲泥の差だった。

彼は主に与えられた狭い長屋に済む年老いた母と、同じ召人のところへ嫁いだ妹を思った。

数少ない大切な家族の為に、彼は足を踏み出し、死を覚悟の上で尾行を続けた。

一緒に細い路地へと入った仲間も、きっと同じ気持ちだった筈だ。

ところが、目標人物は道中一度も振り返ることをせず、走り出した浪人を追って駆け出した。

彼等を見失うまいと足を速めた直後に、彼等は賊に襲われた。

一瞬、何が起こったのか理解出来ず、気がつけば数人の男に囲まれていた。知った顔は一つもない。

人相も風体も整わないその男達が盗賊の類であることは一目で分かる。

金目のものは持っていない、と声を上げる暇もなかった。

抜き身を掲げた複数の男に無言で襲われ、彼は切り付けられながら、必死に元来た道を帰ろうとした。

死を覚悟していたのにも関わらず、光を弾く切っ先を見た瞬間、恐怖に身体が慄いた。

それと同時に、彼はこの事態を主に伝えなくてはと思った。

誰か一人でいい。この賊の囲みを抜けて主家へ戻り、尾行が失敗したことを主に告げなくてはならない。

それ以外の事は何も考えられなかった。

彼は無我夢中で駆けた。

後方を追ってくる賊の気配が消えても、足は緩めなかった。

我に返ったのは、市街地の喧騒と、己を見たらしい女の悲鳴を聞いたからだった。

左半身が朱色に染まっていた。通行人は悲鳴を上げたり、嫌な物を見る目で彼を見た。

追っ手がないことを確認し、自分以外の誰も戻らぬことを確認し、彼はなるべく人の少ない通りを選び主家へと戻った。

ただ只管、この事態を伝えるためだけに。

その為に引き返し、その為に傷をおして戻った彼を待っていたのは、主家の不満顔だった。

ロクな報告も聞こうとせず、尾行の不首尾を聞いただけで主は腰の刀を抜いた。

彼が一番望まなかった、何よりも忌避したかった結末が我が身に降りかかろうとしていた。


それを止めてくれた男の細い瞳には、特別感情らしきものが映っておらず、顔を僅かに上げて側に立つ男の面差を見上げても、彼は助かったと言う実感さえ抱けずに震え続けていた。

小刻みに震えながら、問われた事に掠れた声でぼそぼそと答える、三十になったかならぬかの年頃の召人を見下ろす崇允の目は始めから変る事無く無機質で冷酷なままだった。

二人の客と頭領達三人を飲み込んだ部屋の扉が開いたのは、彼等が頭領の命令によってその部屋を追い出されてから半刻(約一時間)程経った頃だった。

頭領の命令に不満はないし、疑問も別段ない。

初めて見る顔の若い男を伴った来客は、彼等も一応は見知った顔で、彼が頭領と同郷出身である事やその縁もあって頭領とは馬が合う事も知っている。

徐 紗碩(ジョ シャセキ)と言う名の頭領の友人が盗賊や追い剥ぎの類ではなく、市井に暮す一般的な人間であることも、彼等は知っていた。

市井に暮す人々は基本的に盗賊の類を嫌う。

それは盗賊が力で持って強引に、時には彼等に怪我を負わせ、その命を奪ってまで、彼等の財産を無理矢理攫ってゆくからだ。

自らは汗水流して働く事をせず、ただ膂力や武器を持って他人の上前を撥ねる盗賊が嫌われるのは当然で、それは盗賊として生きる彼等自身が重々承知している事だった。

だが、この紗碩と言う男は彼等が盗賊だと知っても顔色を変える事は無く、まるで役所に勤める人間の役職名を聞いたような風情で「ふぅん」と頷いただけだった。

顔にも言葉にも態度にも、彼は侮蔑も嫌悪も映さなかった。

選んだ職が偶然盗賊だった。その程度の感覚で紗碩は彼等の生業を受け入れた。

くどくどしい説教も、改悛を促す口上も、何一つ口にのぼせることはなく、紗碩は高離と通称される男と彼が率いる盗賊団をあるがままに認めた上で彼等との縁を大切にした。

珍しい男だと彼等は一様に思い、そして、その珍しい男を彼等は一様に好んだ。

その紗碩が伴った若い男は見栄えがよく、相応の気品を備えていた。

盗賊の類でないことは勿論、うらびれた貧困の街が多い翡に住む人間とも思えないような品格の男だった。

どのような用件にしろ、彼等との対話において彼等が室外へと出て行かされたのは、成り行き上当然だった。

彼等が部屋を出るように言われる直前、郭 項嘉(カク コウカ)と名乗ったその若い男は、

「助けていただきたい」

と頭を下げた。

彼等は盗賊に救いを求めてやってきたのだ。

これもまた珍しいことだった。

少なくとも、今、室外でたむろする彼等はコレまでの人生において、他人に某かの助力や協力を求められら事は無く、従って人助けをした事も無かった。

他人の物を奪うのが盗賊の生業なのだ。

その盗賊に人助けを依頼する神経を、彼等はいぶかしんだ。

しかし、部屋の外でたむろし、一向に彼等が解散せずにいるのは、不審や不満と言った感情の為ではなく、つまりは単純な好奇心の為だった。

項嘉と名乗った青年の齎した話が気になる。

盗賊たる彼等に頭を下げ、助力を求めるような事態がどのような物なのか。

頭領がそれを請け負うにしても、断って追い払うにしても、持ち込まれた話の中身に興をそそられる。

盗み聞きのような姑息な真似を仲間内で行う事を、頭領の高離が嫌うので、彼等は誰も扉や壁に耳を押し当てる事はしなかったが、代わりにその場を動くこともせず、その場でまんじりともせずに扉が開くのを待っていたのだ。


扉を開いたのは程徳で、彼は開いた扉の先の光景に苦々しい笑みを浮かべた。

「揃いも揃ってなんだ、オマエ等は」

呆れたように言い、

「そんなに暇か、岱(タイ)」

と居坐る十数の男の中にある、まだ若さのある顔に呼びかけた。

「暇ですよ、兄上」

岱と呼ばれた男はこちらも苦笑でもって、程徳を「兄」と呼んで応えた。

見れば、その場の男達は皆揃って程岱と同じ表情を浮かべて程徳を見ていた。

その有様に、程徳が肩を揺らした。

「カシラ、暇人が存外大勢おります」

「そいつは上々」

部屋の奥を振り返った程徳に、珍しく軽口を叩くような声で彼等の頭領が応える声が小気味よく響いた。

「そんなに多くても反って邪魔になる。適当に選んで連れて行け。人選はオマエ等に任せる」

好きにしろ、とそう言った声は普段の通り、抑揚の少ない無愛想な物だったが、彼等は一番初めに聞いた、ひどく機嫌のよさそうな響きの声音が印象的で、目をぱちぱちさせた。

頭領の声音が弾むのを聞くのは、彼等が高離と呼ばれる漢に拾われて初めてかもしれなかった。

「兄上」

咄嗟に声を放った程岱にしても、兄に対して明確な意見や言い分があったのではなく、持て余すような興奮の一端を声に出しただけのことだった。

程徳に続いて王修が皆を覗くと、暑苦しい幾多もの面構えが、皆頬を紅潮させている。

その理由は程徳にも王修にもわかる。それは別段おかしな光景ではなかった。

「四つか五つにバラすか」

王修が言い、程徳が「そうだな」と頷く。

「本命に使える連中を寄せればいい。この面子なら五、六人で一組にすればいいだろう」

「俺とオマエは別に動こう。程岱を連れてゆくなら、本命はオマエが率いればいい」

「・・・本命を譲るのか。どう見ても一番面白いのは本命だぞ」

にやにやと人の悪い笑みで程徳は王修を見下ろした。

背の高い程徳と、背の低い王修には頭一つ分の背丈の違いあがる。

見下ろされる事に慣れた王修は上からの視線にも頓着せず、見上げる双眸に人の悪い光をちらつかせた。

「興味がないと言えば嘘だな」

「だろうが」

「しかし、一番優先すべきは事の成就だ。オレが程岱や魯藩(ロハン)を連れて歩くけば、連中におかしな目をむけられるかもしれん」

そう言って、王修は不敵な目のまま肩を竦めた。

「それに、本命が本命と知れるのもよくなかろう。連中を引っ掻き回すのも、これはこれで充分面白い」

成程、と程徳は得心いったように頷き、

「なら、他は楊諒(ヨウリョウ)、文会(ブンカイ)、黄益(コウエキ)あたりに任せれば問題はなかろう」

「それでいい。後は適当に振り分けよう」

王修が賛同し、二人は同時にその場に居坐る仲間を見やった。

「一銭の得にもならん話だ。金儲けではないし、見返りも期待出来ん。ただの暇潰しだ」

「ただし、失敗も不手際も許されん暇潰しだ」

王修の言葉に、程徳の声が続く。

「それでも構わぬヤツだけ、ここに残れ。参加を強制はせん」

一際大きな声で程徳が言い放った言葉が終わっても、その場の男達は紅潮した頬の色を消すこともなく、誰一人として立ち上がらなかった。

誰しもが好奇心を目一杯に漲らせて、二人を見ている。


「信頼されておられる」

扉の向こう側の光景に、呟くように言った項嘉に、離遼は口元を髯をなぶりながら、

「どいつもこいつも馬鹿なだけだ」

と愛想の無い声で応え、はっ、と大きく嗤った。

「一番馬鹿なのが頭領やっているんだ、仕方なかろう」

そう付け足した離遼の口元は鮮やかな笑みを刻んでいた。



>~邂逅・十~へ。

離遼と彼が率いる一団の縄張りは「翡」(ヒ)の大半、「翠」(スイ)の西南の街「壺」(コ)、そして壺の北に位置する「碌」の一部になる。

盗賊の縄張りにしてはかなり広いのだが、「翡」の街があまり裕福ではない。

「勺」も「楢」(シュウ)も「翡」に所属する街だが、どちらも貧困街として有名で、「翡」には裕福で知られる街は無いに等しい。

「翡」の中心部「朽」(キュウ)でさえ、裕福とは言いがたい街で、せいぜい中級程度の屋敷が並ぶ程度だった。

それから比べれば、政庁がある「伏」に隣接する「壺」の方がずっと豊かな街だった。

そうして、陳の家が権勢を誇る「碌」はその南端の街でさえ、「翡」の中央とは比ぶべくもない裕福さを誇っている。

離遼一派の実質的な縄張りは「壺」と「碌」の南端になる。

「翡」には拠点となる根城があるという程度だった。

しかし、離遼の根城が「翡」にあると言うことで、「翡」には盗人が入ってこない。

元々が裕福でない街なので、そう盗賊は多くないが、それでも僅かな蓄えや美しい女を狙う者は後を立たないものだ。

彼等が「翡」に入らないのは、離遼の縄張りを荒らす事での報復を恐れているからだった。

かつて「翡」の街「朽」で役所に勤める中級官僚の屋敷が襲われ、家人が数人殺害された上、美人との評判のあった娘が二人攫われる事件が起こった。

盗賊は蔵さえ持たぬささやかな家を襲い、あるだけの家財を奪い、娘欲しさに二親と夫を切り殺し、娘を庇った召人二人と娘の兄夫婦を斬り、さらに助けを求めた召人に重傷を負わせていた。

縄張りを襲われたことより、娘の家族を切り殺した事に離遼は激昂し、部下にその盗賊の行方を追わせ、それを襲撃した。

それは、役人の家が襲われたと知った役所の動きより、遥かに早く的確だった。

二人の娘は賊に汚される前に離遼の部下に救い出され、揃って役所の側まで送り届けられた。

奪われた家財の全てが取り戻されたが、ただ、その一部を離遼は娘二人に「手間賃に頂く」と告げ、持ち去った。

それでも、娘二人の手元には父や夫の残した財産の半分以上が残された。

別の街にすでに別家を構えていた弟が慌てて実家の危難に戻ってきたが、姉の無事に、家財程度が多少減った事はどうでもいいと喜んだと言う。

この時、離遼は襲撃した盗賊さえ一人も殺さなかった。

彼と彼の部下は争った賊に怪我を負わせはしたが、殺しはせず、全員を捕縛して役所の前に放り投げた。

盗賊は役所にて処刑された。

最早逃げることも適わぬ姿で転がされた十人程の賊に、役所は何があったのかを問い糺し、離遼が彼等を襲い、娘を救い出したと知った。

一方、救われた娘達は、如何に離遼と彼の部下が自分達に対して親切で紳士的であったかを人々に語った。

離遼も離遼の部下も、一度として娘には触れず、「お嬢さん」と彼女等を呼び、終始丁寧に扱った上、「手間賃を頂く」と言った離遼に、娘は命を救われ、親と夫の仇を討ってもらった礼も含め、全ての家財を差し出したのに、離遼は「それではあんたらが困るだろう」と言って半分も手をつけずに彼女達の手元に残した。

「己等にはこれだけあれば充分」

そう言って、離遼は部下を従えて去って行った。

この件が「翡」に知れ渡り、「翡」の外にまで吹聴されるようになり、流賊達は「翡」の街に侵入しなくなった。

離遼の剣の腕は相当との噂もあったし、彼の一団はかなり強いと知れている。

勝てない喧嘩を売り、殺されるどころか、生きたまま役所に引き渡されることを賊は忌んだ。

離遼一派の居城は「翡」の西北、「麻」(マ)と言う街郊外の低い山の中にある。

麻浅山(マセキザン)と通称されるその山は山と言うより、丘に近い。

その丘の奥深い場所にその塒は堅牢な石造りの外門と、同じく石を基材んとした小さな城のような建物とが建っていた。

何度か役人の手入れや碌方面の盗賊の襲撃を受けたりしたが、この根城はびくともせず、全てを追い散らした。

尤も、「翡」の街で娘を救った一件から、「翡」の役所は離遼達の根城には近付かなかった。

どのみち、裕福ではない此の街を離遼は殆ど荒らさないし、離遼達がそこに居ることで「翡」は安泰を保っているのだと彼等は知っていた。

役に立たない中央政庁の役人が発布する取り締まりの法規などより、彼等には実質的に彼等を守る盗賊の方が重要で大切だった。遼か遠い麻浅山に向って手を合わせることさあえある彼等だった。

「麻」は翠の南西の街「壺」と隣接しており、麻浅山は丁度麻と壺の境に聳えている。

麻浅山には離遼達が作った抜け道が幾通りも存在し、そのうちの数本が壺に通じている。

彼等はその抜け道から壺に入り、壺で狼藉を働く。

さらに、壺の街の地理にも通暁しており、壺の街の役人にも知られぬ道を抜けて碌へと侵入する。

陳家は自家の封土を荒らす離遼一派を嫌い、何度か手持ちの盗賊に追撃や襲撃を命じたが、一度としてそれは成功せず、離遼の為にかえってそうした持ち駒の一部を生きたまま役所に投げ込まれてからは彼の狼藉に対する表立った報復や襲撃を諦めた。

離遼は碌の南端の街から奥へは侵入してこない。

実施的にはそれほど大きな痛手にはならないと割り切った節が陳家にはある。

南端近郊の役人を多少増やした程度で、陳家は離遼一派には関わらなくなった。

下手に関わって、命の為なら軽々しく口を割るだろう盗人の類を、そうそう生きたままで役所に届けられてはたまらないと言うのが陳家の本音の筈だった。

なにしろ、碌の盗賊の八割は陳家と繋がっている。

こんな事が役所を通じて公になれば、幾ら封土統治に関しては干渉しない翠都王でも、陳家の封土を召し上げる程度の処罰は下すだろう。陳家はそれを見越して無口になった。


「生憎と、勺は縄張りではない」

まず、離遼はそう言った。

離遼の縄張りは「翡」を中心とはしているが、殆どが北方から西方である。

「翡」は南方が尤も貧しく、次に東方が貧しい。

他人の余剰財産を奪うことを生業とする以上、余剰を持たない人間の暮す地域は縄張りとはなり得ない。

「翡」の最南端の街は津(シン)と呼ばれる港町で、洛の街との河川を利用した交易を行ってはいるが、それも特別大きな取引はない。

交易の主だった津は「珊」(サン)の南端の街「淀」津(デンシン)にて行われている。

淀の街からは伏に直接通じる大きな通りがすでに開けており、交易関係で利益を得ている陳家が淀には色々な特権を与えてその交易を支えている。

淀には洛だけではなく、翠都より南方にある全ての国からの交易品が届くようになっている。

比べて、「翡」の津は洛からの品が届く程度でそれは殆ど中央には出回らない。中央に届けるような大型の交易品はやはり淀を経由するからだった。

その為、港町とは言え、「翡」の津は裕福ではない。

離遼の縄張りからそうした街が外れてゆくのは当然だった。

「別段、問題はございません」

済ました顔で項嘉が応える。

「翡の街の中ならば、陳家や彼の抱える手駒より、こちらの方が地理に詳しいのですから、どうとでもなります」

「それもそうだな」

離遼は頷き、顎の鬚を手荒に撫でた。

それは、彼の機嫌がいい時の癖で、頭領のその癖を知っている程徳と王修は顔を見合わせて小さく笑い合った。

彼等の頭領は、持ち込まれた話に乗り気のようだと判断し、同時にこの一件を程徳も王修も面白そうだと感じた。

実は、彼等は揃って陳家が嫌いだったのだ。

その陳家に一泡吹かせられるかもしれないと思うと、自然と口元が綻んだ。

情報を抱え込んで来たのは「碌」(ロク)で羽振りを利かせている盗賊の一人だった。

この男は碌の役所、つまりは陳家のどこかと繋がった、いわば碌を差配している陳家公認の盗賊だった。

封土を差配する人間と繋がった盗賊と言うものもおかしな存在だ。

封土を荒らす盗賊は、普通その領土を差配する立場の人間には嫌われ、追われる立場にある。

この奇妙は盗賊は、翠都に限って言えば、恐らく「碌」にしか存在しない。

彼等は陳家の暗黙の了解を得て裕福な商人や土豪を襲い、その財貨や女を奪う。

そして、その一部を陳家に収めているのだ。

生きた女を献上すれば、盗賊の後ろ盾が陳家、つまり封土の主だと喧伝する事になるので、女は各地で売り捌いて金銭に変えてからの献上になる。

宝玉や宝剣と言った類のものはそのまま献上される。

陳家は自国での略奪を黙認し、それによってさえ利益を得ている事になる。

碌で役人に捕らえられ、容赦なく斬り捨てられる盗人は陳家の了解を得ない他国の者や、貧困に喘ぎ盗人に身を落とすしかなかった者が大半だった。

賑やかな繁華街の裏にはそうした薄汚い繋がりがあり、碌の犯罪発生率は近隣に比べて高い。

碌では金さえ積めば多少の罪は免れることが出来る為、裕福層が引き起こす殺傷沙汰も少なくは無いのが現状だった。

そして、王は封土に関しては差配している豪族に一任しきって干渉しない。

干渉の前例がないと言うことで、王は噂を耳にしているのだとしても、陳家になんら譴責を加えることは無い。

そうした環境で、離遼の知った顔は陳家に充分な金銀や珍宝を捧げることで容認された盗賊を生業として、羽振りを利かせている。

その男が早朝に駆け込んで来た。

息を弾ませ、彼は得意気にその報告を齎した。

曰く。

「勺近郊に翠都の王子を騙る者がある。腰に鈴を下げ、青緑の上衣を着た男だ。王子を騙る不届き者に乱隗様は酷くご立腹でな、その首に賞金をお掛けになった。斬った首を届ければ金五百、腰の鈴を奪えば銀二百、生きたまま捕縛すれは金五百の他に望む宝玉か女が頂ける。高離、そなたの一団も何かと顔が広かろう。見かけたら、ぬかりなく恩賞に預かれ」

吉報と齎したつもりでいるらしい知人に、離遼は「見かけたらな」と素っ気無く返し、それ以上は何も言わなかったし、その王子を騙ると言う不届き者の風体を詳しく詮索する事もしなかった。

男は幾分不満そうな顔をしたが、他にも知らせて回るつもりだろう忙しなさで「よろしくな」とだけ言い残して、さっさと立ち去った。

離遼が率いる盗賊の一団には合計五十を越える人間がいる。

どれもこれも皆、過去に相応の犯罪を犯して役人に追われ逃れて離遼の元に辿り着いた。

離遼は過去に彼等が犯した犯罪については然程に深く詮索はしない。

代わり、離遼の元に留まるのであれば、今後一切の殺人を犯さない事をまず誓約させられる。それが不服であれば出て行けばいい。離遼は彼等を、追いも売りもしない。

そして、万一にも誓約を破れば、その男は仲間内に殺害される。

過去に誓約を破った者は何人か存在し、たった一人さえ逃げおおせた者も隠しおおせた者もなく、皆一様に仲間に斬られて死んだ。

遺体は容赦なく役場の前に捨てられる。

元々が罪人なのである。

役場の前に放棄された死体は即刻役所に回収され、遺体でありながら詮議を受け、犯した罪によっては死体から首を切り離して曝されることになる。

離遼の一団は何があっても人は殺さない。

そう知っているのは彼等の縄張りに住む庶民や役人達で、同じ盗賊を生業としている者達は案外知らずに居る。

己達と同じ立場な離遼の一団を、同じ定規で測る所為だろう。

離遼の元に懸賞金の話を持ち込んだ男も、離遼が殺戮は戒めとしていることを知らない。

だからこそ、その顔を得意気に染めていたのだろう。

その男を見送り、

「どこの阿呆ですか」

と程徳は訊いた。

「碌の金重(キンチョウ)だ」

そう応えたのは王修だった。

離遼は無言で薄い嘲笑を浮かべただけだった。

「ああ、乱隗の飼っている盗人か」

碌の街で暗躍する盗賊と碌の街を差配する豪族の癒着は、盗賊達の間では結構有名な話だった。

「王子を騙る不届き者だとか言っていたな」

程徳は王修に言った。主に問うたところで、答えは返ってこない。

「らしいな。昨夜の陳家の乱痴気騒ぎは棚上げだ」

王修は意地の悪い笑い方をして応えた。

「いやいや、あの乱痴気もその不届き者を捕らえる為だったと、あの阿呆なら真顔で言うさ」

応える程徳の面差も充分に人が悪かった。


離遼をはじめ、この盗賊団の幹部を務める男達は近隣の情報には相応に手配りをして、抜かりなく収集するよう努めている。

生業が盗賊である以上、役人の追跡は免れない。

いつ、どのように役所が動くのか、綿密に知っておく必要がある。そのために整えた情報網には昼夜の区別なく様々な情報が届く。

「浪」(ロウ)の街で夜半に繰り広げられた喧騒も、早々にその情報網に掛かった。

それが盗賊同士の縄張り争いの類ならばそのまま放置されたはずだが、追う側も追われる側も盗賊ではないとの知らせに、離遼は「詳細を調べて来い」と部下に命じた。

盗賊の関わらない騒動はいつ、どのような形で己達に影響を及ぼすか分からない。

離遼は一見自分達には何の関係もないような事件をいつも重要視した。それを知っている程徳と王修はすぐに情報探索に動いた。

彼等二人は一団を支える情報収集の差配を担う幹部だった。

だから、離遼は項嘉と紗碩の前にこの二人を呼んだ。

程徳と王修は、昨夜陳家が珀蓮を追って繰り広げた騒ぎの展開を大半知っている。

襲った側が陳家の私兵である事、追われて逃げたのが翠都の王子珀蓮とその一族の青年である事。

その青年が一人ずつ、命を的にして立ち止まり珀蓮を逃がした事。

最後に側を離れた青年と王子が別れた場所が貧困街「勺」の手前だったという事。

明け方近くまで王子を探し回っていた陳家の私兵も、王子の側の青年達もどちらもが珀蓮を見つけ出すことが出来なかった事。

そして、多分に王子珀蓮が生き延びているはずだと言う事。

少なくともそれだけの情報を程徳と王修は収攬し、その一切を離遼に報告している。

項嘉、紗碩の持つ情報と比べてもそう遜色のないものを基盤に、離遼達は項嘉の言葉を聞いている。

深い詮索のない事で、勿論それを項嘉も紗碩も気付いている。

「王子を騙った不届き者らしいからな。そうそう高い値をつけるワケにもいかんのだろう。まさか、首が本当の珀蓮公だと真っ向告げるワケにもゆくまい」

離遼はおかしそうに苦笑いし、自身に齎された言葉の一端を口に乗せた。

部外者に離遼が得た情報を語る事は珍しい。

程徳と王修はその言葉に、自分達の頭領が目の前の若造を相応に信頼して話を聞いている事に気付いた。

「権勢を誇るとは言え、陳家は豪族に過ぎず、片方はこの国の未来の王だ。天秤に掛ければ、我等のような小賢しい人間がどう出るか、乱隗は知っている」

「王子に陳家の情報を売るとでも」

「それだけなら可愛い話だ。己のように五十を下らぬ部下を持つ奴輩ならば東宮までの護衛を買って出る。王子の身柄を護衛し、東宮に起居せしめるんだ。犯した罪も幾分は軽くなろう。運がよければ、罪そのものを許され、兵士の末端にでも加えられるかもしれん」

「離遼殿は兵士の末端にご興味がお有りですか」

「いや、生憎」

首を振った離遼に、項嘉は笑みを深めてから真顔に戻り、床に手を着き頭を深く下げた。

「恩賞がどうこう申し上げ、利権で離遼殿と話そうとは思いません。わたくしは珀蓮公の家臣ではなく、単に此の度騒ぎで珀蓮公を見知った間柄に過ぎません。わたくしから恩賞の沙汰が出る事は無く、従って、事後どのような利益が約束されるのかをお約束も出来ませんし、致しません」

「だろうな」

「珀蓮公を東宮にお戻しするにあたり、お力添えを願いたい。わたくしは離遼殿の義心に請願する為に参りました」

整った面差に、気品のある所作。

それほど上等でも華美でもない衣装と簡素な腰の飾り。

育ちは決して悪くないし、犯罪を犯したことも過去にないだろうその青年が、盗賊を相手に終始態度と節度を守り、丁寧な言葉で話す。

そこにある相手への敬意と礼儀を見れぬ程、離遼は愚者ではなかった。

「項嘉とやら。まず、顔を上げよ」

不意に厳かになった離遼の声に、程徳と王修は後ろで背筋を伸ばし、紗碩は真顔でその光景を眺めつつ、胸中で小さく深い笑みを浮かべた。

離遼の眼差しの中、項嘉はゆっくりと顔を上げた。

項嘉の対し、二人の男はこれと言った辞儀を見せなかった。

一礼した項嘉を見据え、顔を上げた彼の相貌から目を逸らさず、だが、別段会釈はなかった。

項嘉はそれを気にする風もないまま、涼しい顔をしていたが、隣に座る紗碩は僅かではあったが、眉宇に色をなした。

相手が特別横柄な態度だと言うのではない。

礼を返さず、項嘉を見る眼に遠慮がない。

離遼の後ろから注がれる視線には敵意や殺意こそないものの、見知らぬ顔に対する不審が充分に伺える。

彼等は揃って、それを隠そうとはしていない。

寧ろ、それをはっきりと知らしめる事により、対する相手、つまりは項嘉を暗に威嚇している。

紗碩が気に食わぬのは会釈辞儀の類ではなく、その目の色だった。

だが、相対する項嘉が何も言わぬ以上、紗碩もそれを取り沙汰してどうこう言おうとはしなかった。

自らの眉宇の色を隠す努力はしなかったが、口は閉ざしたまま、紗碩は項嘉と三人の男を見守った。


「昨夜遅く、勺の街に翠都王の嫡子が足を運ばれました」

「逃げおおせたらしいとは、聞いている。オマエさんが拾ったのか」

離遼が笑い、後方の程徳と王修が顔を見合わせた。

「あのしつこい陳の家の追っ手を撒いたとは、この国の王子は随分と健脚、もしくは不思議な術を使うものだと思っていたが、オマエさんに拾われたのなら、然程の不思議はないな」

「王子を救ったのは勺と言う街です。わたくしではございません」

「勺、ねぇ。まさか陳の連中はあんな貧困街に、王の嫡子ともあろう者が踏み込むとは思っていなかったのだろうな」

涼やかに応える項嘉に、離遼が言葉を返す。

その様を、程徳と王修は驚いたように見ている。

紗碩は内心で苦笑した。

離遼は口数が少ない。恐らく、部下の前では必要以外に口を聞かない筈だ。

紗碩と二人きりの時は酒もあるし、そう無口でもないが、部下が側に居れば紗碩と話す時も、離遼は相槌を打つ程度で持論を展開する事はまずない。

腹心と思しき彼等二人にしても、言葉を重ねる離遼を見ることはなかったのだろう。

そして、離遼は自身が言葉を普段以上に重ねる事を察した上で部下を下がらせ、ただ腹心の二人だけをこの場に招いたに違いなかった。

離遼に深い学問はなく博識ではないが、彼は決して馬鹿でも愚物でもなかった。

「おかげで、王子は無事に逃げおおせました」

「運が強い、と言いたいが、それだけでもあるまい。あの王子は国を変える男だ。そうそう天が彼を見放す事も無かろう」

「離遼殿は天をご覧になるのですか」

項嘉が唇を持ち上げ、僅かな笑みを刷いた。

「星などは分からぬし、知ろうとも思わぬ。だが、全ての人間に星はあり、天はそれを見据えているのだろうと、そう思っている」

妻が最後に言ったのだ。

離遼の妻は名門の出ではなかったが、離遼よりも学問、特に天文の学を愛した。

先生について学んだことも無く、妻の学問は独学だった。

彼女は夜になれば空を見上げ、夫に星を語った。

『朗君(あなた)、嘆かないで。そして、怨まないで下さい。これが妾(わたくし)の星だったのです』

掠れた声で妻はそう言った。

『学の浅い妾に見えなかっただけで、天はすでにこの宿命を妾に与えておられたのです。だから、どうか、朗君、誰も怨まないで下さい』

妻は蒼い唇で笑った。

『恵まれた星でした。妾は朗君に逢う事が出来、朗君を愛し、朗君に愛されました。これ程の幸せがあるとは思いません。・・・離遼様、ありがとうございました・・・。妾は先に天帝のお側へと参ります。離遼様の星に幸多からん事を、天から妾も見ております・・・』

最愛の妻は、離遼の腕の中でこときれた。

小柄な妻を抱きかかえ、離遼は慟哭した。

妻の残した最後の言葉を、離遼は守る事が出来なかった。

だから、離遼はせめて、妻の残した言葉の半分、『星の宿命と天の視線』だけは信じる事に決めた。

離遼は星にも天にも昔から興味はなかったし、今でも星を読もうとは思わない。

しかし、人には須らく星があり、星には須らく宿命と言うものがあり、天は宿命を負った人間を須らく見据えているのだと、それだけは意識し、信じている。

愛した妻が唯一残した、それは離遼への形見だった。

「左様ですか」

静かな調子で項嘉は応え、実にささやかな所作で頷いた。

「わたくしも星は読みません。興味がないと申し上げた方がいいでしょう。地に生きる人間の何が天上にある星に分かるのかと、そう思っておりましたので」

「ほう。オマエさんのような人間は皆、星を読み、その宣託を語るものだと思っていた」

「勿論、天文を好み、星を語る者もあります。そちらの方が多いでしょう。わたくしの方が、恐らくは異端なのです」

笑みのまま項嘉は言い、

「星であれ、天であれ、そうではないのだとしても、珀蓮公は勺にて事なきを得られました」

離遼はただ頷いた。

つまり、星や天の動きや定めがどうであれ、今大切なのは珀蓮が生き延びていると言う事実一つに過ぎない。

項嘉の言いたい事を、離遼はきちんと理解した。

「王子は都の東宮に戻らねばなりません。それも、なるべく早急に」

「・・・首に金五百。鈴に銀二百。生きて捕らえれば金五百に宝玉が与えられるそうだ」

「乱隗は吝嗇家とは聞いていませんでしたが、存外安いですね」

淡々と言った項嘉に、離遼が声をたてて笑った。

紗碩は友人の言葉に苦々しく笑う。

離遼の後ろに控えた二人が、はっきりと声を立てて笑う離遼の背中を、驚きを隠せないままに見詰めていた。