怪我を追って舞い戻った自家の召人を「役立たず」と吐き捨て、問答無用に斬って捨てようとした巌定(ガンテイ)を止めたのは彼の後ろに控えていた男だった。
「お待ち下さい」
と決して低くはないのに、酷く陰気な声音に、巌定は我知らず眉を歪めた。
陳家の宗主で、巌定の異母兄がこの男を重宝していることを、巌定は知っている。
知っているから、手を止めた。
でなければ、十近く年下の若造の差配など、巌定は歯牙にもかけない。
それが声ならば無視するし、腕が差し出されたのならば振り払う。
それをせず、手を止めて振り返ったのは、その幾分若い男に対する敬意ではなく、異母兄で宗主の乱隗(ランカイ)に対する敬意と遠慮だった。
巌定は背後に立つその男が嫌いだった。
物静かと言えば聞こえはいいが、要は陰湿なのだと巌定は思う。
光の無い曇った細い瞳と、常に引き結ばれ、宴席でさえ笑うことのないこの男の薄べったい唇とが特に彼の気性を象徴しているようで、好きになれない。
顔だちの造作は別段不細工には出来ておらず、どちらかといえば整った部類になる筈のその男の顔には、覇気と言う物どころか、生気さえ見受けられない。
「楊殿、何か」
巌定は振り返って問うた。
好きではない男だが、この男の言葉を蔑ろにすると兄が怒る事を巌定は知っている。
知っている以上、己の我を曲げても、この男の言い分を聞く必要があった。
己を制する事や律する事をせずに育った巌定の表情にも、声音にも口調にも、充分すぎる程に不満は露骨に浮かびあがっていたが、背後に佇むように立っていた男、楊 崇允(ヨウ スウイン)はそれを気にする風でもなく、
「少しその男を話がしたいのです」
と、やはり陰の篭った声で言った。
声は小さくないのに陰気に聞こえるのは、声の質の所為なのか、それとも彼の気質がそのまま音となる所為なのかわからない。わからないが、巌定はもう十年近く異母兄に仕える崇允の声に慣れる事が出来ず、やはり無意識に口元を不機嫌に曲げた。
「どうぞ、ご随意に」
御気の済むまでどうぞ、と巌定は乱暴な口調で言い、無造作に身を引いた。
利き手に下げた抜き身を腰に戻さないのは、最終的には彼からすれば「役立たず」な者を斬り捨てるつもりだからであり、それと同時に逃げ出す事を防ぐための威嚇であり、その奥には剣を佩かない崇允に対する威圧の意味もあった。
その奥底の威圧が相手に通じているかどうかは怪しく、崇允は眉一つ動かさず、巌定が譲った場所に進み出た。
足取りにも身形にも所作にも粗野な部分はない。
乱隗が彼を「物静か」と言ったのはあながち間違いではなかった。
大柄な巌定に隠れて崇允にはきちんと見えなかったその召人は蹲って震えていた。
左肩から鎖骨の辺りと左上腕に刀傷を負ったようで、その一帯が真っ赤に染まっている。
ただ、切り傷そのものは浅く、巌定に斬って捨てられなければ命に別状はなさそうだった。
「・・・他の者はどうしました」
抑揚も感情も灯らない、巌定に言わせれば陰気な声で崇允は蹲る男を見下ろし、問い掛けた。
がたがたと音がしそうな程に震えていた男は、その震えを止められないまま、怯えた顔を僅かに上げ、首を左右に振った。
「わからないのですか」
仕草で答えた相手に、崇允で言葉で確認する。
「い、・・・一緒に襲われて・・・、囲まれたから、多分・・・」
細く掠れた声で男は答える。
声よりも、喘ぐような息遣いの方が大きく響く有様に、脇に立っていた巌定が舌打ちした。
その大きな音に、蹲った男がさらに身を縮ませる。
「殺されたと言う事ですか」
崇允は巌定の舌打ちにも、それに怯える男の有様のどちらにも反応は示さず、細い双眸で静かに男を見下ろし、己の問いたい事だけを言葉にする。
「た、たぶ・・・ん・・・」
男は震える声で小さく答え、壊れた人形のようにがくがくと首を縦に振った。
彼は主から「曹 文廉(ソウ ブンレン)の後を追う」ようにと命じられていた。
その命令を受けたのは今朝方で、目標の人物は東宮府に勤める役人の官舎にいると言うことだった。
同じように特定の人物の後をつけるようにと命じられていた仲間と共に、陽が昇るよりより早くにその官舎の前に張り込んだ。
曹 文廉の顔ならば彼も知っている。
彼はこの翠都の王族に連なる青年で、王太子と仲がよい。王太子を囲む彼等が街を出歩く様を何度も見掛けている。
その見知った目標は、これまた見知った顔触れと共に官舎を出、三人揃って市街地へと入っていった。
彼は勿論その後を追い、文廉と一緒に居た侯 淵才(コウ エンサイ)と曹 孝真(ソウ コウシン)を其々追うように命じられていた仲間と一緒に市街地へと入った。
人通りの多い市街地は尾行するに容易く、彼等は文廉達に意識されることなくそれなりに尾行を成功させていた筈だった。
雲行きが怪しくなったのは、賑やかな市街地で彼等に浪人が絡んできた辺りだった。
野次馬にまぎれて情況を眺めながら、彼は三人が浪人の挑発に乗らぬことを願っていた。
文廉を始めとする三人は、昨夜見失った主の王太子 珀蓮(ハクレン)を探す為に街へ出た筈だと彼は思っているし、彼等に尾行を命じた主もそう思っているに違いなかった。
なにしろ、昨夜遅くに彼等を襲ったのは他ならぬ彼の主であり、抹殺する手筈だった王太子を逃した事も勿論、彼等はそれなりに知っている。だからこそ、こんな命令を自分は受けているのだ。
彼の主からの追っ手をなんとか振り払って、文廉達は王太子を東宮に連れ戻したいに違いなく、見失った王太子を彼等より先に見つけ出さなくてはならないに違いないのだ。
こんなところで下らない浪人風情と悶着を起こしている場合ではない筈だ。
しかし、三人の中で一番直情で知られる曹 孝真が愛刀の柄に手を掛け、それを侯 淵才が押し止めたと思った直後、彼等三人は浪人の売った喧嘩を買って、市街地を外れて人気の無い細い路地へと入ってしまった。
願いも虚しく、事態は彼の一番望まぬ方向へと転がってしまったが、与えられた命令を無視することは出来なかった。
人気の無い路地で尾行を敢行すれば、その行為が発覚する可能性はかなり高くなる。
不審に思われれば、当然、文廉達は彼等をまくか、逆に追うかしてくるだろう。
だが、命令不服従は彼等の死を意味した。
彼等の主は召人を人とは思っていない。換えなどいくらでもいる捨て駒だと思っている。
扱いは犬猫の畜生と変らない。
たかがその程度でと思うような容易い事由で切り殺された仲間を何人も見ていた。明日は我が身と思いながら、なるべくならば我が身にならぬようにと必死にやってきたのだ。
ここで怖気づいて引き返せば、待っているのは罵声と死だけだった。
それならば、同じ死ぬならば、彼等に見付かって殺される方が幾分情況はいい。
自らの命が儚くなる運命は変らなくとも、残された家族の運命は多少改善される。命令遂行中に死んだ召人の遺族には、一応手当てが出るし、子があればそれなりに引き立ててもらえる。
任務放棄した物の家族が召人以下の隷人に落とされ、犬や猫以下の扱いを受ける事を思えばそれは雲泥の差だった。
彼は主に与えられた狭い長屋に済む年老いた母と、同じ召人のところへ嫁いだ妹を思った。
数少ない大切な家族の為に、彼は足を踏み出し、死を覚悟の上で尾行を続けた。
一緒に細い路地へと入った仲間も、きっと同じ気持ちだった筈だ。
ところが、目標人物は道中一度も振り返ることをせず、走り出した浪人を追って駆け出した。
彼等を見失うまいと足を速めた直後に、彼等は賊に襲われた。
一瞬、何が起こったのか理解出来ず、気がつけば数人の男に囲まれていた。知った顔は一つもない。
人相も風体も整わないその男達が盗賊の類であることは一目で分かる。
金目のものは持っていない、と声を上げる暇もなかった。
抜き身を掲げた複数の男に無言で襲われ、彼は切り付けられながら、必死に元来た道を帰ろうとした。
死を覚悟していたのにも関わらず、光を弾く切っ先を見た瞬間、恐怖に身体が慄いた。
それと同時に、彼はこの事態を主に伝えなくてはと思った。
誰か一人でいい。この賊の囲みを抜けて主家へ戻り、尾行が失敗したことを主に告げなくてはならない。
それ以外の事は何も考えられなかった。
彼は無我夢中で駆けた。
後方を追ってくる賊の気配が消えても、足は緩めなかった。
我に返ったのは、市街地の喧騒と、己を見たらしい女の悲鳴を聞いたからだった。
左半身が朱色に染まっていた。通行人は悲鳴を上げたり、嫌な物を見る目で彼を見た。
追っ手がないことを確認し、自分以外の誰も戻らぬことを確認し、彼はなるべく人の少ない通りを選び主家へと戻った。
ただ只管、この事態を伝えるためだけに。
その為に引き返し、その為に傷をおして戻った彼を待っていたのは、主家の不満顔だった。
ロクな報告も聞こうとせず、尾行の不首尾を聞いただけで主は腰の刀を抜いた。
彼が一番望まなかった、何よりも忌避したかった結末が我が身に降りかかろうとしていた。
それを止めてくれた男の細い瞳には、特別感情らしきものが映っておらず、顔を僅かに上げて側に立つ男の面差を見上げても、彼は助かったと言う実感さえ抱けずに震え続けていた。
小刻みに震えながら、問われた事に掠れた声でぼそぼそと答える、三十になったかならぬかの年頃の召人を見下ろす崇允の目は始めから変る事無く無機質で冷酷なままだった。
