無名道士
ここで一つ、特筆しなければならないことがある。
メジュール道士(または無名道士)についてである。時をさかのぼってしまうが、この人物は、物語を進めていく上で語らなければならないため、ここに書くことにする。
また、この時機に記す理由については、この人物が、西国の長ドウカの死に関して深く関わっているからで、多少の混乱は許容していただきたい。
メジュール道士は、フネルが生まれたのとほぼ同時期、またはハディープで獣による大虐殺が行われた少し後、首都ダノァから遠く離れた片田舎に突然現れた。村の者の話では、誰の子というわけでもなく、突然現れたようである。
歳はまだ若いが、青年でもない。背が高く、紅顔、愁眉、非常に美しい姿であった。また彼はあらゆる学問に通じ、占いも行った。何よりも彼が人々の注目を集めたのは、彼が行う奇跡の数々だった。あるときは、脚が悪く、もう二度と立ち上がれない、と医者に言われていた老婆の脚を治し、再び歩かせ、またあるときは、獣に襲われて瀕死になっていた男を治療し、数日で元気にさせた。
例を上げればきりがないし、中には事実かどうかもわからないような、人々が作り上げた話も混ざっているかもしれないが、要するに、ありもしない話が噂されるくらい、彼の名声はあっという間に広まったのである。
道士はまた、その博識を活かして子どもたちを教える先生をしたり、人並み外れた剣術を人々に教えたり、またある時には、恐怖におののく心を救う、という内容で人々の心を癒やすこともあった。もはや一つの宗教であり、布教活動になっていき、彼の周りには、周辺の村々から人が集まった。
執政サハウルは彼のことを耳にし、一度首都に呼んだ。どれほどの人物なのか、と。その場にはドウカを含め、西国の首脳が多く集まり、各々が道士に質問を投げかけた。
はじめに質問を投げかけたのは、サハウルの次に力を持っていた宿老ジアだった。彼はゆっくりと立ちあがり、長い白ひげを動かしながら話した。
「ついこの間、ハディープが獣によって破壊されたのは知っているだろう。我々は獣に脅かされているが、これをどのようにして防ぐか。」
「ハディープを破壊したとはいえ、所詮は動物です。恐れるには値しません。まずは防壁を高く築き、守りを万全にする必要があります。あとは食べ物などで釣ればよろしい。」
次に立ち上がったのは、当時の、事実上の軍最高司令官、ヒシャムだった。
「我々は、長年、東のタービヤ王国と対立している。これ以上の対立は、双方にとって何も得がない。いかがするか。」
「小さく見れば、しばらくの心配はありません。大きく見れば、滅びるのは必至でしょう。」
ヒシャムは顔を鬼のように赤くして、怒鳴った。
「どういう意味だ!滅びるとは、どういう理由だ!」
「まあ、そう怒らないでください。両王国の成立、歴史を大局的に見るに、天変地異でも起こるか、いずれかの国でよほどの暗君が立たないかぎりは、両国共に、二十年は滅びないでしょう。しかし、この先、どうなるかはまだ分かりません。歴史を動かすのは人でも気候でもなく、人智を超えた、世界の根底に流れる力なのですから。」
「それは、神のことか。」
「ある者はそう呼び、ある者はそう呼びません。」
次に質問をしたのは、天才と呼ばれ、若くしてドウカから信頼を勝ちとり、執政の職についているサハウルだった。
「人とは、何か。何のために生き、何のために戦うのか。」
「人とは、用いるものであり、用いられるもの。なんとも愚かで、裏切りを生業とする、浅ましい生き物。土から生まれ、土に帰る、動物。戦う理由、それは、人間の心に元々備わっている闘争本能から生まれる行動であり、不可避的な衝動。」
サハウルは、あっけにとられたような、あざ笑うかのような、不思議な表情をしながら、席に座った。
次に、西国の長ドウカが質問した。
「では、私からも質問しよう。覇者ビョレンスは何者か。」
「人間の救いであり、邪悪の根源。」
「邪悪の根源とは、いかなる訳か。」
「彼は蛇を倒し、災いを絶ちました。これは救いです。一方、彼が蛇を倒したことによって流された血は大地を覆い、人間に災いをもたらしました。これは邪悪の根源です。」
「それは蛇のせいであって、ビョレンスに非はないのではないか?」
「そうともいえます。」
一通りの問答が終わると、その場に居た全員が、感服したような雰囲気に包まれていた。
何も、道士は国の方針に対して明確な答えを出したわけではなかったが、彼の容姿、醸し出す雰囲気、言葉の美しさ、すべてが、見るものを恍惚とさせ、問答の内容に関係なく、皆が虜になってしまっていたのである。
特に、ドウカの、道士に対する尊敬は非常なものだった。他のものを凌いで、道士はあっという間に国の中枢に深く入り込んでしまった。
彼は一体何者なのか?
不思議なことに、彼の出生は謎に包まれている。出生どころか、どのように育ったかも定かではない。何しろ、突然姿を現した。しかし、それを気にする者は誰もいなかった。瞬く間に、彼の名前は国内全土に広まった。
我々はようやく龍を授かった
人々はそのように言った。かつての預言にある、世界を救う龍は、まさに彼のことであろうと誰もが思った。当の本人はというと、そのような世論を気にせず、国政に身を投じ、懸命に働いていた。そんな姿も、人々を余計に感嘆させた。
数年経っても、道士への信頼は揺るがなかった。ドウカからの信頼はますます強くなり、いよいよ彼は圧倒的な権力を持つようになった。歳を重ね、体が思うように動かなくなってきたドウカは、道士をいつも側において、身の回りの世話をさせるようになった。政務中はもちろん、食事中も、寝る時も、道士はいつもドウカの側にいた。道士は次第に表舞台には顔を出さなくなっていった。
そして、時代を戻そう。アレイミ率いる三万の軍隊が首都ダノァを出発してまもなく、ドウカはついに倒れた。心労か、老衰か、いずれにしても病状は重かった。すぐに医者によって治療が施されたが、その医者も、手の施しようがない、と、汗だらけになった顔を拭きながらつぶやいた。ドウカはメジュール道士を側に呼んだ。道士はドウカの顔に自らの顔を近づけ、一言一句も漏らさないように構えた。
「道士よ、いよいよわしは命が尽きるようじゃ。わしが死んだら、そなたにすべてを任せよう。それで安心じゃ。それと――」
「ドウカ様、どうか安心してください。死ぬときにまで重荷を背負わせることはいたしません。」
この言葉に、ドウカは、言いかけていたことも忘れ、道士に嬉しそうな顔を向けた。そこへ、戦場からバヒラとアレイミが戻ってきたという報せが入ってきた。
少し時を遡って、バヒラとアレイミがダノァに向かっている最中。山中で少し休憩を取るため、二人は馬を木に繋いで側に座った。二人は深刻な表情をしていた。バヒラは、細い目を更に細めて、遠くの空を見つめていた。
「もしここでドウカ様が亡くなられたら、国は深刻な混乱に陥る。ミーヤ様が亡くなられ、直系のご子息はおられないことになっている――」
アレイミは、バヒラの言葉に疑問を覚えて彼の方を見た。
「実は、ミーヤ様にはご子息がおられた。ハディープの戦いの前に残されていたのだ。」
「信じられません。誰なのですか?どうして知っておられるのですか?」
「そなたは知らぬかもしれん。フネルという名前のお方だ。まだ十六歳だ。この間まで学校に通っておられたが、名前を聞いたことはないか?」
「ああ、彼は学校で有名ですよ。誰よりも負けず嫌いで、授業中はいつも先生を質問攻めにして、困らせる生徒です。彼が学校でしたスピーチはよく覚えています。私は何よりも獣を憎みます。将来は必ず、バヒラ様を超える剣士になって、一匹残らず獣を屠ってみせます、というようなことを言っていました。」
「そうか。フネル様がご子息だと知ったのは、ついこの間のことだ。夏のおわり頃だった。日が暮れて家に帰ろうとしているところに、男たちに襲われている母子を見かけた。そこで私は、一瞬、助けるかどうかを迷った。私は引退の身だったし、自分に対して失望していた。だが、ここで救わない理由はない、見捨てれば、人にあって人にあらず、と思い、ついに全て追い払って助けた。」
アレイミは、真剣な眼差しで彼の話を聞いていた。彼自身、自分がその立場にいたらどうするだろう、と考えていた。もちろん助けるだろう。それも、一片の迷いもなく。彼は、一瞬迷ったバヒラに対して少なからず優越感を覚えた。この男は元来正義感の塊のような男であり、彼自身もそんな自分に少々酔っていた。このとき、彼の心のなかで、眠っていた野心がゆっくりと目覚まそうとしていた。このままドウカ様が亡くなれば、中央には私とバヒラ様、サハウル、道士がおる。うまくやれば、私があとを継ぐこともできるかもしれぬ。さて、どうやって他のものを退けるか・・・
実は、彼はドウカのすぐ下の妹の夫であり、事実上、継承権があった。ただ、婿入りした男への継承は、これまで許されてこなかった。そこで問題になるのは、ドウカの弟イフサーンの息子である、アブドゥラシードだった。彼は、今でこそ学校の教師をしているが、本来ならばもっとドウカに近い位置にいてもいいはずであった。これには理由があり、アブドゥラシードの父イフサーンは、大の酒飲みだった。それに加え、常日頃街に出て、賭けをしたり、はたまた喧嘩をしたりしていたから、ついにドウカは彼を宮廷から追放した。彼はその数年後、酒場で殺されてしまっている。そのような経緯があって、周囲からのアブドゥラシードに向けられる目は冷たいものだったが、ドウカの彼に対する愛は変わらなかった。そのようなわけで、ドウカはアブドゥラシードに、フネルの身辺警護を命令したのである。
バヒラは、話せる限り、フネルのことについてアレイミに話をした。気づけば、辺りはすっかり暗くなっていた。アレイミがフネルの血統について信じたかどうかは、彼の後の行動を知れば明らかになるだろう。
彼らが首都に到着したのは、二日目の昼過ぎだった。
二人は大急ぎでドウカの寝所に向かった。
すると、道士がこちらに歩いてきているのが見えた。
「道士、ドウカ様はどんなご様子か?」
道士はぴたと歩くのをやめたが、俯いたままである。
「ドウカ様は・・・、先ほど逝去されました・・・」
道士は涙を流しながら伝えた。
二人は汗を満身に帯び、肩を上下に動かしなら、何も言えず固まってしまった。
バヒラもアレイミも、こんなにも早く、この時がくるとは思っていなかった。
ドウカは静かに横たわっていた。バヒラはその手をとって声を上げて泣いた。アレイミはそのとなりで立ち尽くしていた。
さて。突然の国家元首の死に際して、この国の臣下はどのような行動を起こすのか。ここに彼らの思考と民族性が現れてくるが、果たして。
この国の成り立ちは単純である。
隣国のタービヤ王国から、神の啓示によって導かれたアバンは、自らの国を建てるために西へ逃亡し、そこで国をつくった。大局的に見れば、太古の昔に存在した「汚れを知らない者達」の血はすでにアバン一人になっており、その末裔たる西国の民は、潜在的に忠誠心と美徳心が強い。しかし今、その主人を失い、彼らは路頭に迷うことになってしまった。その強い忠誠心は、いざ主人を失った時にどのように作用するのか全く想像がつかないものである。
アレイミは言った。
「我々は主を持たなければならない。誰がふさわしいか。」
彼は国の大臣、貴族たちを集め、大声で唱えた。そして続けた。
「ドウカ様の一人息子であったミーヤ様はすでに十六年前に亡くなられている。」
これに、執政のサハウルが答えた。
「かねて、ドウカ様は亡きイフサーンの息子アブドゥラシードを愛しておられた。私は彼に後を継いでもらうのが正当だと考えるが、諸君はいかがか?」
誰も答えない。場は、咳の音一つしない。
サハウルは執政として国のトップに立つ男だが、事実上の発言力は案外弱かった。
彼が重用されるようになったのは、彼が三十歳の時で、もともと大商人の家の息子だった。ドウカは、彼の卓越した交渉能力と溢れ出るような知識、そして獅子のごとき熱い心に惹かれ、ついに彼を大蔵大臣補佐に大抜擢した。それから彼はトントン拍子に出世していくが、当然のごとく、他の政治家たちからは影で深く恨まれていた。
それが、この場でこのように露骨に現れている。時の親衛隊長ターヘルは、荒々しく立ち上がり、真っ黒な顔から目を光らせて熊のように叫んだ。
「イタチ閣下、それには同意しかねます。どのような魂胆でそのような発言をされるのか図りかねますが、イフサーンの息子に継がせることに同意する人間は、ここには居ないと存じ上げまする。」
イタチ閣下とは、細身なサハウルを揶揄した呼び名で、飄々と執政になったことに対する恨みも多分に込められている。(ただし、このターヘルはサハウよりも十歳ほど年下である。)
あからさまな悪口を、それも若輩者から言われたサハウルだったが、気丈な性格の彼はそれを一笑に付してさらに述べた。
「今、我々が無用な議論をする余地はないことは明らかです。国内を見れば、多くの民が飢えや悪党に怯えながら暮らしており、外を見ればすぐとなりにタービヤ王国があります。聞けばかの王国は、執政のアーレフによって革命がなされ、国が一変したようです。彼らが何をしてくるか全く予想できません。」
彼は平常と違って肩を震わせながら必至に訴えかけた。一度、十数名が集まった場を眺めてから、さらに続けた。
「さらには、我が国の主力部隊が、いえ、ほぼ全兵力がハーディのもと、獣と一進一退の攻防をしております。今我々がすべきことは、すぐに次なる指導者を立て、その言下に一糸乱れぬ前進を、国をあげて進めていくことではないでしょうか?」
彼は汗をぼとぼとと垂らして、述べ終えた。後世から見れば、彼の全うな意見は、最も歓迎されるべきものであるに違いないが、この場、この時の状況はそのように単純なものではなかった。悲しいかな、彼の善良な国を思う気持ちとは裏腹に、愚かな野心を心に燃やし、自らの大出世を頭に思い描いている人間が多数を占めていた。彼の熱い心は野人たちの耳には届かずあっけなく無にされ、やむなく席に座ってしまった。
ただし、愛国の情に燃えるもう一人の男が居た。バヒラである。彼としては、フネルを推挙することを、彼の良心は必死に訴えていたが、この場の雰囲気と、自らが国の舵を取れば民はそれに従い、皆の心は一つになるのではないか、というかすかな希望に心を揺れ動かされ、思い切った発言ができずにいた。
この国の前に横たわっている悲しい運命は、何によって引き起こされたのか。それは、この国の長い歴史を紐解かなければわからないかもしれない。勇者アバンという英雄の名の下発足したこの国は、九百年という長い時間をかけて、ゆっくりと腐敗していったのかもしれない。その原因は、内部にも、外部にもあるだろう。ただ、この物語においては、その原因を探ることはさして重要ではなく、それよりも、この国の滅亡がフネルと、取り残された民達にどのような影響をもたらしたかを議論するほうが重要である。当時十六歳だったフネル少年には、あまりに大きな事件であったに違いなく、それが彼の思想や心に与えた影響は計り知れない。後に彼が、大帝国の王になる途上において巡りあう様々な困難に対して、決して怯むことなく果敢に立ち向かっていくたくましさを作り上げたのは、この大事件がきっかけだったに違いなかった。
ここで一人の人物を取り上げることにしよう。後に武神として語り継がれるマライカは、この大事件の前後に姿をくらましている。幼少期に両親を獣に殺され、孤独な人生を歩むことになったことはすでに述べた。彼は、鋼のような心を持った偉丈夫と語られるが、事実そうであったのだろうか。どの世にも、何事にも心を動かされず、まっすぐに意思を貫き通し、一生を一つの目標のために捧げられる人間は、ごくわずかしかいない。その”ごくわずか”の人間も、幾多の苦労や努力によって、その人間が形作られる。マライカも、決して終始無敵な男であったわけではなく、血の滲むような、という言葉では足りないような、決死の努力の上で自らを鍛錬し、一つの完成を見たのだろう。フネルがある人に送った手紙の中で、マライカについて書いたことがある。その中で彼は、『獣がもたらした悲劇を知りたいのなら、マライカを見ればよい。話さずとも、彼の表情を見ればわかるではないか。』と語られている。それほどまでに悲愴な人生を送ったマライカは、この時代のことを決して語ろうとはしなかった。どのような心境で毎日を過ごし、どのような生活をしていたのかは、語ろうとも、語ることはできない。
先ほど描写した会議のわずか一ヶ月後、タービヤ王国から十万の大群が押し寄せ、西国は濁流に飲み込まれたがごとく、あっという間に崩壊してしまった。そのわずか数日前に、ハーディはマヌハを奪還し、突然の襲撃に身動きは取れなかった。民に愛された道士は、ドウカの死去以来、ついに姿を現さなかった。
