おすすめの邦画は?

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こんにちは。
アレテーを求めて~
今日もトコトコ( ・ω・)
弁護士の岡本卓大です。
 
【くつろぎパンダ】
今日は、七人の侍の日ですか。
お勧めできるほど、最近、邦画を含めた映画を観ていませんが、
もう一度、じっくり観てみたい邦画は、『北の零年』ですかね( ・ω・)
 

(映画.comホームページより引用)

明治3年。庚午事変により、明治政府から北海道移住を命ぜられた淡路の稲田家主従546名。半月に及ぶ船旅の末、静内へと上陸した先遣隊は、家老・堀部賀兵衛と家臣・小松原英明を中心に、未開の地に自分たちの国を作るべく理想と希望に燃えていた。だが、様々な困難が彼らの前に立ちはだかる。稲はなかなか育たず、第二次移住団を乗せた船は難破、更に廃藩置県によって彼らの土地が明治政府の管轄となってしまったのだ。絶望の中、英明たちは自ら髷を落とし、新政府には頼らない道を選択。そして、英明は妻・志乃と娘・多恵を残し、静内でも育つ稲を求めて札幌の農園へと旅立った。ところが、半年以上が経っても英明は帰らず、人々は深刻な食糧不足に見舞われる。志乃に対する風当たりも冷たい。しかし、夫を信じる彼女は、アイヌと共に暮らす謎の男・アシリカや牧畜指導者のダンらに助けられ、危機を乗り越えていくのだった。5年後、志乃と多恵はダンのアドヴァイスを受けて牧場を経営。かつての家臣たちは、詐欺紛いの手口で権力を手にした元商人の戸長・倉蔵の下、政府の役人となっていた。そんなある日、英明が開拓使の役人として戦の為の馬の徴用にやって来る。5年前、札幌に辿り着いたものの病に倒れた彼は、命を救ってくれた人と再婚し、今は三原と名乗って新しい生活を送っていたのだ。動揺を禁じえない志乃は、しかし英明の立場を思い、馬を差し出す決意をする。とその時、人々が英明の行く手を阻み、箱館戦争の残党であったアシリカこと高津政之が馬を放った。折しも、イナゴの大群の襲来で稲が全滅。この上、馬を召し上げられては生きる術を失ってしまう。農民たちの命懸けの抵抗だ。果たして、その気迫に押された英明は撤退を余儀なくされ、志乃たちは再び希望を胸に自分たちの国作りに挑むのだった。

(引用終わり)

 

ちなみに映画『北の零年』の背景となった庚午事変とは次のような事件です( ・ω・)

 

(洲本市ホームページより引用)

明治3年5月13日の早朝、徳島県知事、稲田九郎兵衛邦植とともに上京の折、蜂須賀家臣ら洲本在住の徳島藩青年武士800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が、洲本下屋敷町の家老稲田邦植の別邸や益習館(稲田家の学問所)、宇山の稲田武山邸や市中の稲田家臣の屋敷を襲い、無抵抗の者を殺傷し、火を放った。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、別 邸や益習館などが焼失と多数に及んだ。この年は庚午の年であったことから、庚午事変とも呼ばれている。

 ことの起こりは、明治維新に伴なう禄制改革で稲田氏の家臣を士族とするか卒族とするかという、武士の身分問題、そして経済問題であった。

 江戸時代の淡路は、阿波の蜂須賀氏の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていた。この稲田氏は単なる家老ではなく、蜂須賀氏との間には次のようないきさつがあったといわれる。蜂須賀氏の祖である小六正勝と稲田氏の祖の植元の間には義兄弟の約束が結ばれ、ともに豊臣秀吉のために戦った。蜂須賀氏が龍野5万3千石の領主になったとき、稲田氏にも河内2万石を与えようという話もあったが、稲田氏は客分として蜂須賀氏にとどまったという。このため蜂須賀氏が、阿波・淡路の領主になると、1万4千5百石という大名並みの知行地をもらい、多数の家来を抱えて、洲本城代や淡路仕置職に度々任じられた。

 稲田氏は、豊かな経済力をもち、また公卿とも縁組みをするなど、その地位 は高かった。幕末には、蜂須賀氏が公武合体派であったのに対し、稲田氏とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。このようなことから稲田氏の家臣は、蜂須賀氏の家臣から陪臣として軽蔑されながらも、一種の誇りをもっていた。

 明治政府は、明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もこの身分に応じて減らすこととした。稲田家当主は、一等士族として最高の千石給与となったが、稲田家家臣は陪臣のため卒族にされることとなった。卒族では藩から僅かな手当てが与えられるだけなので、将来の生活に対する不安は大きかった。また、稲田家との主従関係が断ち切られることに対する不満も強かった。

 稲田家臣は、三田昂馬を中心として、士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこした。

 このような稲田家の動きが、蜂須賀本藩一部の家臣の激しい怒りをかい、平瀬伊右衛門・大村純安・多田禎吾ら洲本在住の一部過激派の決起となったのである。

 阿波でもその日、本藩藩士の不穏な動きがあったので、脇町近辺在住の家臣の中には高松藩領へ逃げ込んだ者も多かった。

 この事件に対する中央政府からの処分は予想以上に厳しく、徳島藩側主謀者10人がうち首(のちに切腹)、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。

 一方、稲田家側は、10月15日、朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返上、現北方領土)への移住開拓が申しされ、翌年日高国静内へと移っていった。今日名馬の産地として有名な静内の丘の上には開拓100年を記念して彼らの苦闘を語る大きい記念碑が建てられている。 


(引用終わり)
 
庚午事変(稲田騒動)は、私の出身地の淡路島が、
徳島県ではなく、兵庫県になった原因でもありました。
地域の歴史を知るのって、とても有意義だと思います( ・ω・)
 
 
おおっ!七人の侍の日でしたね。
 
(雑学ネタ帳から引用)

1954年(昭和29年)のこの日、黒澤明(くろさわ あきら、1910~1998年)監督の映画『七人の侍』が公開された。

 

七人の侍

 

東宝が製作・配給。主演は三船敏郎(みふね としろう、1920~1997年)と志村喬(しむら たかし、1905~1982年)。モノクロ、スタンダード・サイズ、207分。日本の戦国時代が舞台であり、貧しい農村で野武士の略奪に苦しむ農民たちは侍を雇って町を守ろうとする。かくして集められた七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。

撮り直しのきかないスペクタクルシーンを撮るために、黒澤が初めて複数のカメラで同時に撮影する方法(マルチカム方式)を採用し、豪雨の決戦シーンなど迫力のあるアクションシーンを生み出した。さらに脚本、綿密な時代考証、美術などにより、アクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。

1年余りの撮影期間と巨額の製作費をかけて作られた大作は、興行的にも成功し、700万人の観客動員を記録した。また、1954年(昭和29年)のヴェネツィア国際映画祭にて銀獅子賞を受賞した。30本にも及ぶ黒澤監督の作品の中でも、最も評価が高く、人気の高い映画作品である。

(引用終わり)
 
映画の公開日が記念日として扱われているって、
さすがは黒澤明監督の名作『七人の侍』ですねぇ( ・ω・)
 
本文が長くなりましたが、今日の記事紹介。

2【各地の激闘の章】(第71話~第76話)

 

もうすぐゴールデンウィーク。

連休中に昔の映画を観るのも良いかも知れませんね( ・ω・)

読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

 

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