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1673年(延宝元年)のこの日、いんげん豆を中国から日本に伝えたとされる隠元禅師が亡くなった。
隠元禅師(1594~1673)は中国・明の禅僧で、江戸時代前期に来日して日本黄檗宗を開祖した人物。来日後、将軍徳川家綱により厚くもてなされ、中国にいた時と同じ萬福寺というお寺を京都・宇治に創建した。また、いんげん豆を禅の普茶料理(精進料理)の材料として普及させた。
(引用終わり)
インゲン豆を日本に伝えてくれた隠元禅師が亡くなった日なのですね。
もう少し詳しく( ・ω・)
(萬福寺ホームページより引用)
隠元隆琦禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。
禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。
そして行と徳を積まれた禅師は、ご在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。また禅師の将来された文物は、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理等広汎にわたり、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ぼしました。この他、隠元豆(いんげんまめ)・西瓜(すいか)・蓮根(れんこん)・孟宗竹(たけのこ)・木魚なども禅師の請来によるものです。
(引用終わり)
宗教家としてはもちろん、インゲン豆以外にも食の世界や、
いろいろな文化面で存在感のあった方のようですね( ・ω・)
寒天の名付け親も、隠元禅師のようです。
さて、本日の記事紹介。
『進め家康くん( ・ω・)』×『神武征討記( ・ω・)』
神武東征・退魔大戦編!
神の戦士ってなに?
神々の導き
魔王カーリーとの死闘!
スサノオの贈り物
ブログを書くようになってから、なにかあるとけっこうマメに調べているような気がします。
まあ、ネット検索は文献読むより手軽ですしねぇ( ・ω・)
読んでくださり、ありがとうございました。
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