こんにちは。

アレテーを求めて~

今日もトコトコ( ・ω・)

弁護士の岡本卓大です。

 

【ダルマ(頑張れ受験生)】

 

今日は、投稿ネタ

 

#今日の楽しみは

 

におじゃましております( ・ω・)

 

日曜日は、私にとって週に一度のお休みです。

川越の決まったお店にきて、

ペットショップの犬を見たり、

コーヒーを飲みながら本を読むのが

日曜日である今日の楽しみです( ・ω・)

 

さて、神武征討記の制作話に行きましょう。

今回は、直近2話に登場したハヤトヨシヒロをテーマにしたいと思います( ・ω・)

 

第58話「鹿児島の巨人!セゴドンノキチノスケ!」

 

第59話「トサノリョウマの四国統一!そして、海援隊活動開始!」

 

 

さて、ハヤトヨシヒロのモデルとなっているのはこの人です( ・ω・)

 

 

島津義弘

(1535年~1619年)

島津義弘は、戦国時代後期から安土桃山時代にかけての

薩摩(鹿児島県)の戦国武将です。

島津貴久の次男で、島津義久の弟。

兄の後、島津家17代当主となります(※当主だったかは論争あり)。

 

島津家の歴史は古く1185年に始まります。

鎌倉幕府が成立すると、開祖である島津忠久は、

源頼朝から薩摩・大隅・日向の守護に任じられ、

当初から島津家は薩摩(鹿児島県)を本国としていました。

そして、足利尊氏が開いた室町幕府でも島津は薩摩・大隅の守護大名であり続け、

下剋上が当然となり多くの守護大名が没落していく中、実力で戦国大名として生き残りました。

島津義弘の兄である島津義久の時代には、島津家は、

豊後(大分県)の大友宗麟、肥後(佐賀県)の龍造寺隆信らを破り、

九州をほぼ統一します。

島津義弘は兄・義久の軍事面を補佐し、すさまじい武功を上げます。

 

豊臣秀吉による九州征伐を受け、島津義久は秀吉に降伏しますが、

秀吉も、島津を薩摩・大隅から動かすことはできませんでした。

島津義弘は、朝鮮出兵にも従軍し、明軍相手にその強さを発揮し、

「鬼石曼子(おにしまづ)」と恐れられます。

豊臣秀吉政権時代の島津の禄高は、朝鮮の役での加増を含めて、

61万石。

この石高は、五大老である徳川家康(255万石)、

上杉景勝(120万石)、毛利輝元(112万石)、

前田利家(84万石)に次ぐ全国5位の禄高であり、

五大老の宇喜田秀家(57万石)や奥州の伊達政宗(58万石)を超えるもので、

秀吉と戦って降伏した大名としては異例のものでした。

 

関ケ原の戦いでは島津義弘は西軍に属します。

ただ、兄・島津義久は徳川家康よりだったのか、

島津家全体として関ケ原の戦いに参加することはできず、

1000人~3000人程度(※諸説あり)の少数の兵で

関ケ原の戦いに参戦することになりました。

 

関ケ原の戦いの本戦では、石田三成の使者の態度に腹を立て、

戦には参加をしていなかったとも言われる島津義弘ですが、

勝敗が決した後、島津義弘を有名にしたとんでもないことをやらかします。

小早川秀秋の寝返りにより総崩れとなった西軍の中、

わずか300(※1000人という説もあり)まで減ったの少数の兵で、

徳川軍に突撃し、関ケ原からの脱出を図ります。

それに対して、徳川軍の井伊直正、本多忠勝、徳川忠吉らが追撃しますが、

追撃軍の総大将だった徳川の猛将・井伊直正は島津義弘軍の突撃により重傷を負い、

後にこの時の怪我がもとで死亡することになります。

 

 

石田三成や小西行長は斬首。

毛利、上杉といった西軍の大大名が大減封。

宇喜田や長宗我部は改易されるという中、

徳川家康が島津家に対して行った処遇は…

 

薩摩・大隅(鹿児島県)の本領安堵!

 

なんと、あの天下人・徳川家康と関ケ原で戦ったにも関わらず、

何らの処分もなし。これは他に例がありません。

秀吉も、家康も手を出すことができなかった。

それが、薩摩・大隅(鹿児島県)の島津でした( ・ω・)

 

 

江戸時代になると島津家は一つの藩であるにもかかわらず、

琉球王国(現在の沖縄県)に侵攻し、琉球を服属させます。

その石高は、77万石。加賀100万石の前田家に次ぐ、

全国第二位の大大名として江戸時代も存続します。

日本全体が鎖国して長崎でしか明・オランダとの交易が無かった江戸時代。

島津家は、琉球を通じて、別ルートの海外交易も行います。

 

やがて、幕末。第28代・島津斉彬は欧米列強に対抗すべく近代産業を興し、

開明的な政策を取ります。その島津斉彬が見出した人材が、

西郷隆盛

 

やがて、坂本龍馬の仲介により薩長同盟が結ばれ、大政奉還、

戊辰戦争を得て、近代日本・明治という時代が始まります。

 

明治時代となり、藩や武士という制度が無くなった時代。

島津は華族の中の最上位である公爵となります。

皇室との縁戚関係も深く、

第125代の平成の天皇陛下(現在の上皇様)から見て、

祖母が島津家出身、妹が島津家に降嫁されたという関係にあります。

第126代の今上陛下(現在の天皇陛下)からは、

叔母様が島津家に嫁がれたという関係でしょうか。

 

 

なにが言いたいかというと…

 

 

鎌倉時代から、幕末、

明治にいたるまで鹿児島で

続いてきた島津家、

ハンパねぇ( ・ω・)!

 

 

そんな島津家の猛将・島津義弘をモデルにした、

島津義弘の前世武将・ハヤトヨシヒロ。

この先、どのように神武達の前に立ちふさがって来るのか!?

今後も、刮目して読むべし( ・ω・)!

 

 

歴史の糸を紡ぐのは誰だ!?

 

弁護士 岡本卓大の描く

かつて無いスペクタルドラマ!

 

神武征討記

 

アレテーを求めて~

今日もトコトコ( ・ω・)

にて、絶賛連載中!

 

 

今日の楽しみは

 

 

 

 

 

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