こんばんは。

アレテーを求めて~

今日もトコトコ( ・ω・)

弁護士の岡本卓大です。

 

【くつろぎパンダ】

 

今日は、投稿ネタ

 

#今日1日を振り返ろう

 

におじゃましております( ・ω・)

 

 

昨年末から図書館で借りていた田辺聖子さんの

『新源氏物語』を読み終わり、今日、図書館に返却してきました。

今度は、路線を変えて、

吉野作造(山田博雄・訳)の

『憲政の本義、その有終の美』

を借りてきました( ・ω・)

 

吉野作造(1878年~1933年)は、

高校の日本史の教科書にも載っている人で、

『憲政の本義、その有終の美』は、昔からタイトルは知っていました。

ですが、意外と今まで読む機会がありませんでした(^^;)

 

本来の吉野作造さんの著作は、戦前の本なので文語調(古文)で

書かれているはずですが、その現代語訳の本ですね。

2019年初版発行の本なので、比較的、新しいですね。

最近は、文語調の文章も現代語訳されたものが簡単に

文庫本で読めるので、便利になったものです( ・ω・)

 

 

『憲政の本義、その有終の美』の現代語訳の冒頭はこんな小見出しがついています。

 

「立憲」という考え方をだれもが身につけよ

 

吉野作造(の現代語訳)は、巻頭の

憲政の根本的な考え方・大切な精神をすみずみまで徹底させて、

立派な成果をあげるための方法を論ずる

の中で、次のように述べます。

 

 

私はつね日ごろ残念に思っているのである、

すなわち、わが国のいわゆる知識人たちの間で、

「立憲という考え方・意味・その目的に関する理解が、

きわめて不明瞭で不徹底」だということを。

 

「憲政」とは何かを理解していないのは、

なにも一般人の人々ばかりではなく、

知識人といわれる人々の間でもそれは同じなのだ。

げんに「立憲」思想とまったく両立しない「専制」的な論議が

今日しばしば公然と、政治家にも、また民間で政治を論ずる人にも、

行われているのをみるではないか。

 

 

吉野作造が、『憲政の本義、その有終の美』を書いたのは、

戦前、大日本帝国憲法時代の1916年(大正5年)です。

今から108年前ですね。

この吉野作造の当時の世相に対する感想は、

私は、現代の日本にも共通するものを感じます。

 

 

また、同著の「まえがき」は次の文章で始まります。

 

「憲政」すなわち「憲法に基づく政治」がうまく行われるかどうか。

この問題は二つの点に係わる。

一つは「制度」とその「運用」の問題であり、

もう一つは、国民一般の「智徳【知識と道徳】」の問題である。

「憲政」は、国民に十分な知識があり、

人として行うべき行為をよく行い、

善悪の的確な判断力が発達してこそ、

成り立つ政治の仕組みである。

だから、国民一般の智徳の水準が低ければ、

「少数の賢者」つまり「英雄」に政治上の世話を任せるという、

いわゆる「専制政治」または「貴族政治」を受けいれるほかはない。

だから、「立憲政治がいいか」、「貴族政治がいいか」という問題は、

もともと国民の知識と道徳の程度に応じて決まる問題なのである。

かりに国民の智徳の程度がかなり高いにもかかわらず、

「貴族政治」を維持しようとすれば、それは不当である。

逆に、国民の智徳の程度が低いにもかかわらず、あえて

「立憲政治」を行おうと望むのもまた、適当でない。

とはいえ、今日の諸国家においては、むろん二、三、

例外に属する国家はあるにしても、

おおよそ国民の智徳はかなり高くなっていることはいうまでもない。

なかには、それほどでもない国家もあるが、

少なくともその中には、智徳が高度に発達した、

少なくない数の国民が必ず存在する。

 

そのような記述から始まり、

貴族政治がもはや維持できないこと、

日本でも憲政を行っていく必要がある

ということが述べられていきます。

当時のアメリカとメキシコの差異を論じた後、

「まえがき」は最後は次のように述べられます。

 

 

立憲政治が成功するための第一要件は、

「国民が教養を身につけること」にあるのは、いま述べた通りだ。

これは、各分野の知識人、

判断力のすぐれた人びとが一緒になって努力することで、

初めて目的を達することができるはずの問題である。

だから各分野の知識人たちが共同で努力することは、

きわめて重要で、しかも根本的な問題である。

 

けれども、一人の政治評論家としての私が、

特に述べようとするのは、そのことではない。

もちろん「国民の教養」は、私たちもまた国民の一人として、

その一部分を分担し、みんなで一緒になって大いに力を尽くそうと思う。

けれどもここで特に説こうとするのは、

主として直接的に政治に係わる分野についてである。

というのはこういうことだ。

 

すなわち国民文化の発達の程度がかなりの水準に達し、

または実際に国民の教養を育成する事業が、

多くの知識人によって熱心に行われているとしよう。

だがそれだけではまだ足りない。

その上で、さらに「憲政」が十分に満足のいく成功をおさめるためには、

憲政にともなう諸制度にどのような改善を加える必要があり、

また運用の任に当たる政治家はどのような心がけをもつべきであるか。

以下の文章で、私が特に焦点をしぼって述べようとするのはこれである。

ただし、政治に係わる分野を詳しく説明するからといって、

結果として「国民が教養を身につけるのが先決問題だ」

ということの理由が見すごされてしまうのは、

私の本意ではない。

それで本論に入る前にながながと、

なによりもまず

「国民の教養が高い水準に達することが必要なのだ」

ということを説いたわけである。

 

 

吉野作造がいわんとするところは、

私が『宇宙一わかりやすい僕らの憲法のお話( ・ω・)』で

書いていることと共通するように感じますね。

 

 

せっかく手に取って図書館で借りた

吉野作造の『憲政の本義、その有終の美』。

重要な基本の再確認の意味でも、

読み込んでみたいと思います( ・ω・)

 

読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

 

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