【※この記事は、2023年9月6日公開記事を再投稿したものです。】
こんにちは。
アレテーを求めて~
今日もトコトコ( ・ω・)
弁護士の岡本卓大です。
【コウペンちゃんⒸるるてあ】
今日の予定は、当番弁護の待機でございます。
さて、朝っぱらから、今日は、投稿ネタ
#今日の予定は
におじゃましています( ・ω・)
また今日も『神武征討記』の制作秘話です。
最新作
第38話「ヒヨシマルの軍師!ハンベエとカンベエ!」
戦国好きの方は、おわかりですね?
ヒヨシマルは羽柴秀吉(豊臣秀吉)の前世武将。
そして、秀吉の軍師と言えば、
竹中半兵衛と黒田官兵衛です( ・ω・)
竹中半兵衛(重治)(1544年~1579年)は、美濃(岐阜県)の生まれ。
戦国時代に「今孔明」(孔明は三国志の諸葛亮孔明のこと)と呼ばれ、
秀吉が半兵衛に『三顧の礼』を取って軍師として迎えたという逸話もありますが、
これは、おそらく、『三國志』の劉備玄徳による諸葛亮孔明への『三顧の礼』の
話を受けた江戸時代の軍記物の創作ではないかと思います。
織田信長がどうしても攻略できないでいた美濃の稲葉山城(信長が岐阜城に改名)を
計略を用いて、わずか16名で乗っ取り、主君の斎藤龍興をいさめ、その後、隠居してしてしまいますが、
秀吉の勧誘を受け、織田家に仕えます。太閤記などでは、このときに、
「信長には仕えない。秀吉に仕える。」と竹中半兵衛が望み、秀吉の軍師となったとされますが、
実際は明らかでなく、織田家に仕え、秀吉の与力として信長から派遣されていたという説もあります。
軍師のタイプにもいろいろありますが、竹中半兵衛は、戦場での軍略、用兵に長けた
『戦術・采配型の軍師』であったと言われています。
三國志の軍師で言えば、呉の周瑜(シュウユ)に近いタイプでしょうか。
秀吉の播磨(兵庫県)三木城包囲中に陣中で病に倒れ若くして没しました。
黒田官兵衛(孝高・如水)(1546年~1604年)は、播磨(兵庫県)の姫路に生まれました。
秀吉の播磨攻略の際に、織田家につき秀吉の配下となります。
摂津の荒木村重が謀反を起こした際には、荒木村重の説得に行きますが、
村重により幽閉されてしまい、1年半の監禁生活により足が不自由になってしまったようです。
その後、竹中半兵衛と交代するかのように、秀吉の軍師として活躍します。
1582年6月2日本能寺の変により、織田信長が明智光秀により殺されます。
これを嘆き悲しむ秀吉。そこに官兵衛は、「これで天下は殿(秀吉)のものですな」
と言ったと伝えられます。しかし、この秀吉の本心(?)を指摘した官兵衛の知謀は、
かえって秀吉に警戒心を持たせることになってしまいます。
豊臣政権下では、黒田官兵衛は、その功績の割には、12万石の領地しか与えられませんでした。
秀吉は、「やつに100万石を与えたりしたら、天下を奪われる」と黒田官兵衛を警戒していたようです。
結局、黒田家は、官兵衛の息子の黒田長政が関ヶ原の戦いで東軍についたこともあり、
筑前(福岡県)52万3000余石の大大名となります。
関ヶ原の戦いのときに、九州をまとめて天下を狙おうとしたとの見方もあり、
秀吉が官兵衛を警戒していたのは、それ相応の理由があったのだと思われます。
軍師のタイプとしては、竹中半兵衛のような戦場で采配を振るうというよりは、
むしろ、戦場以外で調略、謀略を尽くす『参謀型の軍師』だったと見られます。
三國志の軍師で言えば、曹操に仕えた賈詡(カク)や郭嘉(カクカ)に近いタイプですかね。
大河ドラマの『軍師官兵衛』だと、なんか武闘派な感じがしますが、
演じてたのが岡田准一さんでしたからねぇ( ・ω・)
後に『両兵衛』と並び称されることになる
竹中半兵衛と黒田官兵衛ですが、
実際には、二人が同時に秀吉に仕えた期間は、
秀吉の播磨攻めの短い期間だけ、
しかも、そのうち1年半、黒田官兵衛は
荒木村重に監禁されています。
そのため、史実では、二人の『両兵衛』が、そろって
秀吉の軍師として共闘するということは、ほとんどありませんでした。
現実の史実では存在しなかった二人の天才軍師の共同作戦。
フィクションである神武征討記の世界では、
これからも描いていければと思います。
日本史のタブーに挑む!
弁護士 岡本卓大の描く
かつて無いスペクタルドラマ!
神武征討記
アレテーを求めて~
今日もトコトコ( ・ω・)
にて、絶賛連載中!
読んでくださり、ありがとうございました。