こんにちは。

アレテーを求めて~

今日もトコトコ( ・ω・)

弁護士の岡本卓大です。

 

さて、

『宇宙一わかりやすい僕らの憲法のお話( ・ω・)』

のお時間です。

 

 

1 憲法って、なんだろう?立憲主義のお話

2 民主主義って、多数決のことじゃないの?

3 三権分立 独裁者を生まないためのシステム

4 憲法前文って、なぁに?

5 象徴天皇制とジェンダーのお話

6 「個人の尊厳」と「公共の福祉」って、なんのこと?

7 「人権」とはなにか?

8 税金と民主主義

9 平和主義、その本当の意義

10 表現の自由って、どうして大事?

11 信教の自由って、どういうもの?

13 ほんとに守られてますか?学問の自由

14 昔はあたりまえじゃなかった婚姻の自由

15 生存権・・・教えて、僕らの生きる権利

16 一人の個人として育つために~学習権

17 働く人の権利

18 財産権という人権

19 「平等」って、なに?

20 適正手続~刑事裁判と人権

21 憲法の条文に書いてない人権は認められないの?

22 国会とは?

23 内閣とは?

24 裁判所とは?

25 地方自治って、なんだろう?

26 憲法改正の手続のこと

27 最後に繰り返そう!「憲法」が大切な理由(最終回)

 

 

今回は、第11話。信教の自由って、どういうもの?

です( ・ω・)

 

まずは、日本国憲法の条文を見てみましょう。

 

憲法第20条(信教の自由)

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を

行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを

強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動も

してはならない。

 

 

信教の自由は、個人の内心における信仰の自由を意味するにとどまらず、

宗教的行為を行う自由、さらには同じ信仰を持つ者が結集して宗教的行為を行う自由

(宗教的結社の自由)も含みます。

信教の自由は、反面で、

自己の信仰しない宗教上の行為を強制されない自由を意味します。

 

歴史的には、信教の自由は、近代立憲主義が保障する権利のうちでも中核的な地位を占めます。

宗教改革後、分裂したヨーロッパのキリスト教世界は、相互に対立する宗派を神の敵と見なし、

血なまぐさい弾圧と戦争を繰り返しました。

その結果、対立する宗派の共存は、永続的な戦争状態にまさると考えられるようにいたり、

少数派にも信教の自由を保障すること、政治権力が宗教から距離を置くことについて合意が生まれました。

複数の両立し得ない宗派の対立は、信教の自由を生み出す歴史的前提であったといえます。

 

我が国を見てみると、大日本帝国憲法(明治憲法)も、信教の自由を保障(28条)していましたが、

その限界は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とされ、法律によらなくても

命令によって信教の自由を制限することも許されるという解釈がされていました。

また、日本の戦前(大日本帝国憲法下)では、「神社は宗教にあらず」とされ、神社神道(国家神道)

国教(国から特権を受ける宗教)として扱われ優遇されました。

その反面、他の宗教は冷遇され、キリスト教や大本教などのように弾圧された宗教も少なくありません。

そのため、大日本帝国憲法下での信教の自由は、神社の国教的地位と両立する限度で認められたにすぎず、

その完全な実現は根本的に妨げられていました。

国粋主義の台頭とともに、神社に与えられた国教的地位と

その教義は、国家主義や軍国主義の精神的な支柱とされていきました。

 

現在の日本国憲法では、

個人の信教の自由を厚く保障するとともに、

国家と宗教の分離を明確化しています。

 

 

他者への害悪と宗教的行為

 

宗教的行為を行う自由も、その行為が他者に害悪を加えるものであれば、

その限りで制限を受けることは当然です。

最高裁は、精神障害者の平癒を祈願するため線香護摩を行ったところ、

障害者が心臓麻痺で死亡したいわゆる加持祈祷事件について、

「他人の生命、身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使」によって

「被害者を死に致した」行為を傷害致死罪に該当するものとして処罰する

ことは、憲法20条1項に反しないとしています

(最大判昭和38年5月15日刑集17巻4号302頁)。

 

宗教法人法81条に基づいて宗教法人を解散する決定(解散命令)が、

信者の信仰の自由を侵害するとの主張に対し、最高裁は、解散命令が、

もっぱら宗教法人の世俗的側面を対象とするものであって、宗教法人が

解散命令によって解散しても、信者は法人格を有しない宗教団体を存続させ、

またはあらたに結成することは妨げられるわけではなく、信者の宗教上の行為

を禁止・制限する法的効果のないことを指摘したうえで、解散命令によって

信者の宗教上の行為になんらかの支障が生ずるとしても、それは、

「間接的で事実上のもの」にとどまり、しかも当該宗教法人が大量殺人を

目的として毒ガスの大量生成を計画したうえ、多数の信者を動員し、法人の

資金及び物的施設を用いて計画的・組織的に毒ガスを生成した行為に対処するのに、

この解散命令は「必要でやむをえない法的規制」であるから、憲法20条1項

に反しないとしています(最決平成8年1月30日民集50巻1号199頁

【オウム真理教解散命令決定】)。

 

また判例は、いわゆる宗教的人格権、つまり「静謐な宗教的環境の下で

信仰生活を送るべき利益」は、直ちに法的利益として認めることができないとし、

対立する宗教上の行為が競合する場合でも、相手方の行為が「強制や不利益の付与

を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り」は、相手方の行為

に対して寛容であることが要請されるとしています(最大判昭和63年6月1日

民集42巻5号277頁【自衛官合祀訴訟】)。

 

 

政教分離と目的効果基準

 

憲法20条は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は

政治上の権力を行使してはならない」とし(1項)、また、

「国及びその機関」は、「宗教教育その他いかなる宗教活動も

してはならない」として(3項)、いわゆる政教分離の原則

定めています。

「宗教上の組織若しくは団体」への公金支出を禁ずる憲法89条は、

この原則を財政面から裏付けるものです。

 

日本国憲法が政教分離の規定を定めている背景には、戦前の日本において

神道が事実上国教としての扱いを受け、国民の信教の自由を抑圧した歴史への反省があります。

 

最高裁は、政教分離の規定について、

「国家と宗教との分離を制度として保障し、

もって間接的に信教の自由を確保しようとする規定」

と説明しています(最大判昭和52年7月13日民集31巻4号533頁【津地鎮祭訴訟】)

 

政治と宗教との結びつきを禁ずると言っても、社会生活のあらゆる局面で

政治と宗教とのかかわりを一切許さないというのは現実的ではありません。

 

日本の最高裁は、政府の行為の

「目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する

援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」は、

国家と宗教とのかかわりあいが「相当とされる限度を超える」

こととなり、政教分離原則に反するとしています。【津地鎮祭訴訟】

 

 

ざっと説明してきましたが、以上が、憲法20条の信教の自由のお話です。

 

まとめます( ・ω・)

 

①自分がどの宗教を信仰するか、

そもそも信仰しないかは、

その人「個人の自由」である。

②宗教的行為の自由といっても他者を傷つけることまで

認められるわけではない。

③国は特定の宗教を特別扱いしてはいけない。

 

 

政治と宗教の問題は、いろいろ書きたいご時世ではございますが、

ニュートラルを旨とする、本記事では、この辺にしておきたいと

思います。

読んでくださり、ありがとうございました。