こんにちは。

アレテーを求めて~

今日もトコトコ( ・ω・)

弁護士の岡本卓大です。

 

憲法について、より深く知りたい人のための、

『補講』より深く憲法を知りたい人へ

のお時間です( ・ω・)

 

さて、『宇宙一わかりやすい僕らの憲法のお話( ・ω・)』

で、「個人の尊厳」と「公共の福祉」について、書きました。

 

 

今回は、長谷部恭男教授の基本書「憲法」を参考に、この『公共の福祉』について、

深掘りしてみましょう( ・ω・)

 

「公共の福祉」を実現しようとする国家権力が、

個人の自由の制約を通じて、その目的を達するものである以上、

公共の福祉は、そもそも国家権力ないし国家の権威の正当性根拠を

問題にするものであると長谷部教授は説きます。

 

通説である一元的内在制約説は、この問題に対して、

人々が国家の権威に服従すべき理由は、

相互に衝突する多数の人権の調整にあると答えたことになります。

 

それに対して、長谷部教授は、国家権力の正当性の限界と

個人の人権の限界は自動的には一致せず、

両者はそれぞれ独立に検討されなければならないと説きます。

 

1 なぜ権威に従うのか?

なぜ国家の権威を認めなければならないのか?

なぜ国家の法令にしたがわなければならないのか?

 

典型的な権威である国家に従うべき正当な理由があるとすれば、

それは、国法に従うことによって、人々が本来とるべき行動を

よりよくとることができるという理由です。

 

第一は、国家が私人より優れた知識を有している場合です。

先端技術のリスク評価のように問題の専門性・技術性を理由に

行政機関の判断が尊重される場合が、その例として出されます。

 

もっとも、多くの問題について、国家が私人よりもすぐれた知識・経験を

有しているのかどうかは明らかではありません。

優れた知識を有しているというのであれば、

政府はまずその知識を開示して、

いかにそれが優れているかを主張立証すべきです。

それが示されていないにもかかわらず、抽象的に専門的・技術的知識の存在が

主張されていることを理由に権威を認めることには慎重でなければなりません。

 

近年では、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のために国民に対する行動制限が

なされましたが、本来であれば、政府は、新型コロナウイルス感染症についての正確な

情報・知識、その行動制限の医学的正当性を主張立証すべきでした。

そのような主張立証がされないままされた行動制限に対して、それに従わない国民が

いたことはある意味当然のことだと言えます。

 

2 どれかに決まっていること自体が重要な問題(調整問題)

国家が特に優れた知識を有しているわけではないが、国家が一般人よりも、

問題解決により適切な立場にある場合があります。

 

世の中には、どれでもよいが、

とにかくどれかに決まっていなければ困る事柄がたくさんあります。

 

例えば、車は道の右を通るべきか左を通るべきか、

有効な契約をするためには書面や証人が必要か否か、

燃えるゴミを出す日は月・水・金か火・木・土か、

これらの事柄は、いずれが正しいかよりも、

いずれかに決まっていること自体が、

そして、それに大多数の人々が従うことが肝要な問題です。

 

このような調整問題を解決する場合、

国家は、大部分の私人よりも優れた知識があると主張する必要はありません。

国家は、国家として存在し、実際上大部分の人々に服従されているということ

自体によって、他の一般の個人や団体よりも目立つ存在であり、

そのため調整問題をより効果的に解決しうる立場にあります。

いったん、国家が法令によって特定の選択肢を指定すれば、

大多数の人々は、各自の利益を理由に、その法令に従おうとするはずです。

 

3 公共財の供給

警察、消防、防衛などの公共財は、

通常の私的財と異なり、消費の排除性・競合性が働かないため、

市場においては消費者が自己の選好を誠実に顕示せず、

ただ乗りしようとするため、適切な供給がなされません。

このような社会的協調の困難を解決するには、

国家を通じて公共財を供給することが適切となります。

供給の費用は、すべての人から公平にかつ強制的に徴収され、

供給の範囲や量は、民主的な手続を通じて決定されます。

 

公共財の供給に関しては、私人は、各自が自己の最善の利益を目指して行動するよりも、

国家の指示に従う方が、全体としてはよりよい利益を獲得することができます。

 

4 公共財としての権利

憲法上保障されている権利の中には、

社会の利益を増大させる公共財としての性格を有し、

その性格を有するからこそ保障されている権利があります。

典型例としては、表現の自由です。

表現の自由が広範に認められ、社会に様々な情報が行き渡ることで、

政治を理性的に判断しうる市民が育成され、批判や議論を活発となって

民主政治が活性化し、また多様な人生観、価値観が提供されることで

人々の間に寛容の精神が育つことなど、重要でしかも社会全体に及ぶ

利益が実現されます。

つまり、自由な表現活動の利益は、表現者自身だけでなく、

社会全体に及ぶものであり、大部分の人は、それについて対価を

支払うことなく、その便益を享受していることになります。

同じことは、営業の自由のような経済活動の自由についても

あてはまります。

 

公共財の中には、警察・消防サービスの提供や、

道路・橋の建設など、日常的な生活上の必要や利便にこたえるべく、

時宜に応じて促進され、提供されるべきものと、

社会生活のより根底にあり、社会に生きる人々の生き方や

考え方の基礎をなすようなものとがあります。

 

民主的な政治体制や、その不可欠の構成要素である表現の自由、

マスメディアの報道の自由などは、後者にあたります。

 

そして、そのような価値や利益については、

これを憲法上の価値と認め、その時々の議会多数派による

安易な変更を許さず、政治過程から独立した裁判所に

その擁護を委ねるという制度上の工夫が、立憲主義諸国において

通常とられています。

 

5 国家権力の限界としての公共の福祉

第一に、国家が優れた知識を有するとの理由から権威を要求している場合には、

法令の根拠となる知識が、主張されるような妥当な知識でない限り、

それに従う必要はないこととなります。

 

第二に、法令が調整問題の解決に失敗し、それと異なる解決が自生的慣習によって

もたらされている場合には、人々はむしろ後者に従うべきであり、

国家に従うべき理由は存在しないということになります。

 

第三に、国家が公共財の適切な供給を行っておらず、

かえって社会全体の利益の低下が予想される場合

たとえば、マスメディアの報道の自由を必要以上に

制約している場合にも、その法令に従うべき理由はないということになります。

 

国家は、公共の福祉に従ってのみ正当に行動しうるのであり、そのような

妥当な根拠なしに個人の行動の自由を束縛することは、

個人の人権の侵害である以前に、国家権力の内在的制約を逸脱しています。

 

政府が、財産権や職業選択の自由を法律によって制約しうるのは、

各条項が明示しているようにあくまでそれが

「公共の福祉」にかなっている限りにおいてです。

裁判所は、これらの「人権条項」を国家権力の境界線として用いており、

その境界を守ることが公共の福祉の実現につながるとの判断を示していると

見ることができます。

 

このように、「公共の福祉」というのは、

内容的に社会全体の利益になることであって、

政府が勝手に決めて良いことではないし、

「公共の福祉」に従わない政府の行動には、

国民は、従わなくてもよいということになりますね( ・ω・)

 

 

さて、せっかくなので、おなじみの自由民主党の憲法改正草案

少し紹介してみましょう。

自民党の憲法改正草案については、以下のホームページから

全文を誰でも入手できます。

 

 

自民党憲法改正草案の12条と13条を挙げてみましょう。

 

12条(国民の責務)

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、

保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、

自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に

公益及び公の秩序に反してはならない

 

13条(人としての尊重)

全て国民は、として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する

国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り

立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 

・・・・・・

 

えーと、「公共の福祉」って、言葉が消えて、

「公益及び公の秩序」になってますね( ・ω・)

 

つまり、自由民主党の憲法改正草案のつくりたい憲法の世界には、

この記事で紹介したような国家権力の限界を示す「公共の福祉」

という発想は無いとみてよいのでしょうかね。

 

素直に解釈すると、

(政府が決めた)「公益」や

(政府が決めた)「公の秩序」

の範囲内で、政府に従順に従う人たちには、

彼らの仲間である「人」として、

(自分の人生の主人公である「個人」ではなく)

政府が決めたルールの中での自由をあげますよ。

うれしいでしょ?

と言っているように読めますねぇ。

「人権」より大日本帝国憲法の「臣民の権利」に近いのかな( ・ω・)?

 

 

 

こんな条項案を人権の試験で書いたら、零点です。

『人権』の基本がわかってない

大学1年次の憲法の講義を受け直してきなさい

って、レベルのひどい条文ですね( ・ω・)

 

この自由民主党憲法改正草案が、現在の政権与党である

自民党が、野党時代に作った本音で作りたい憲法改正案

そして、現在でも自民党の正式な憲法改正案です。

 

日本国民は、自ら勝ち取ることなく、

日本国憲法による、基本的人権の保障を受け、

人権を空気のように当たり前に意識することすらない生活を

送っています。

でも、まさに、この人権は、不断の努力によって

現在だけでなく将来の国民に受け継いでいかなければならないものです。

 

最後に日本国憲法の二つの条文を改めて引用します。

 

日本国憲法12条(自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止)

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、

国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

又、国民は、これを濫用してはならないのであって、

常に公共の福祉のためにこれを利用する責務を負う。

 

日本国憲法97条(基本的人権の本質)

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、

人類の多年にわたる自由獲得の成果であって、

これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、

現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない

永久の権利として信託されたものである。

 

読んでくださり、ありがとうございました。