「あたしと仲良しな友達は、イイ人だ」といわれた。


「あたしみたいな」人間と「仲良くできる」友達はイイ人だと。




あたしみたいな傍若無人、自己中で、毒舌で思いやりのない人間と仲良くできるのは、


イイ人だと。




まったく、そのとおりだと思うわ。笑





そういったことにも、適度にそうだね、ハイハイと受け流すことができる友達。



それでいて、一緒に遊んでくれる方々。


そして気遣ってくれる方々。




もしあたしの友人たちがいなかったとしたら。




あたしは、ますますひねくれていたかもしれないわね。



「ひねくれ者」



いや、さらに、孤独。


孤独って、もともと孤独なら、孤独であることって感じなくなってくる。





否、孤独はもっと根深いものなのよ。


感じていなくても、身体は感じているものなのよ。



自分自身の身体の孤独を感じることができるとき、どんなきっかけで。




それは、

そのようなきっかけのひとつは、


何かどこかで保っていた、支えすらも、奪われてしまったとき。



奪われるということは、持っていたということ。


与えられたということ、つくってきたということ。




あるものがなくなってしまったとき。



あたしの深いところで、あたしがそれに向き合いたくなくて隠していたもの。


何を隠していたのか。



孤独や、淋しさ、つらさ、痛さ




誰かがあたしの<そば>にいるということ。それが、なかったということのつらさ。




誰か、


いる



ということ、




まさにあるんだということ。




ある、ということは、あたしにとって大切なことや大切なものがあるということ。




それが、奪われてしまうということ、無くなるということは、まさに、あたし自身があるということも言えなくなってしまうもの。




何が奪うのか。何によって奪われたのか。



問われなきゃいけないのは、次にそのことなのよ。
最近いくつかのイデーがあたしのうちをかけめぐる。


しかし、あたしは怠慢、そう怠慢子なので、それを書き付けることをせず、



忘れてしまう。




忘却!!!




イデーの襲来!!!それを気付かせたのは一体なんであるのか!?







なぜ、それをあたしに気付かせたのか!!




一体何が気付かせたのか!!!




なぜそれがやってきたのか!!!!!





あたし(たち)は脅かされている。


利用され、攻撃され、たたかれる。




苦痛の回避、苦痛を回避することは、人間にとって、動物にとって本能的な反応である。



安心を見出すこと。安らぐことをは必要不可欠なことである。






親切に見えたものが、単なる利用だったのだ。


その動機は、わたしを道具として使うことが目的だったのだ。




結果がどうであれ、動機はそこにあったのだ!!!





そこに信頼は無いのだ!!!!



精神のさもしさよ!!!




すべてを、安心と独立を保持させる力強さを!!!!




あたしがあたしとして生きていく力強さを!!


透明に見透かした自己を!!!!!




そこにある前提をすべて暴くのだ!!!!!世界を知るのだ!!!!!


現れたものを思考し抜くのだ!!!!!!
全然更新してませんでした。

このブログを定期的にご覧になってくだすっている方がいらっしゃったら

そんな稀有で物好きな方がいらっしゃったらドン引きです。



いや、本当に感謝でございます。








そういえば、10日(日)の夜に銭湯に行ったの。久しぶりに。


最初結構混んでたんだけど、僕、長風呂だから顔真っ赤にしながら、ずっと色々お風呂に入ってたら、


だんだんお客さんも少なくなってきて、




ひゃほーーーーなんて





気持ちは浮かれてたの。





で、湯船から出て、また違う湯船に向かおうかななんて思って、




湯船の壁を跨いで、洗い場の床に立とうと思った瞬間





つるり





バランスをとろうと、必死にこらえたけど、







滑って、転んだ。






それも大股開き、V字開脚で尻から落ちた。




漫画のワンシーンのごとくきれいな開脚







尻を打つ瞬間までわずか零コンマの世界



それがスローモーションになって







♪ありの~~~~~~~ままの~~~~~~~~姿見せるのっよ~~~~~~~~~~♪




♪ありの~~~~~~~ままの~~~~~~~~自分になるの~~~~~~~♪







って頭の中でめっちゃ流れてた。







ありのままの姿まぢさらけ出した。



普段は絶対に人に見えない、自分でも見えない部分が




露わになってた。



しどけなく、とかではなく、開けっ広げになってた。




アナ雪とかじゃなくて、穴そのもの。







何人か鏡越しに見て笑ってた。
最近、友人と遊びすぎている。あーーー本を読みたい。読みたいよーーーー


てか「ちゃんと」読みたい。




でも、久しぶりに遊ぶのは楽しいよ!!




昨日は、大学時代の友人(元ビー部部長、ビール部(それはあたし!?)じゃないよ、ラグビー部だよ)とジムで一緒にトレしましたー。




しこたましごかれました(何て美しい日本語なのかしら)




胸痛いよーーーーー!!




でも今日はプールでも行ってこようかしら。



いただいた競パンでも履いて、爆走してこようかしら。





ビートバン使って。バタ足で爆走。




ひどい絵柄だわーーーーー。






って全然読書する気なくねーーーーー







でも、ビー部部長(元ね)に「来週もやるか」って言われたけど、






あんま、やりたくない。汗





もう、かんべんという、ダメなあたし……
最近サッカーが大いに盛り上がりを見せていますが(という陳腐な入りから)、あたしは、端から日本を応援していない。それよりかドイツが気になってしょうがない。それは、あたしの大好きなマヌ(mein lieber Manu)がいるからなのよーーーーーーーーーー


きゃーーーーーーーーーーーかわゆす。かわゆす。こうゆう顔超好き。口角が上がっていて、少し鼻ぺちゃで、日本人にもかなりとっつきやすい顔だと思うーーーー。


こういうとき、ドイツ語をやっていてよかったと思う。

というかドイツ語をやっているから、ドイツを好きなんだろうと思う。

外国語の効用とは、おそらく、世界に対して惹きつけられる、惹きつけられてしまっていることだと思う。


世界に惹きつけられてしまうところに言葉があり、あたしの精神がある。

言葉を学ぶとは自己の精神の拡大そのものよ。

世界から問われることによって、そこに思考が生まれ言葉が生まれる。

問うわたしは問われているわたしでもある。

こうして世界がひとつの輝きとして(als Glanz)あらわれる。
このあらわれは、世界のすべてどころか対象のすべてではなく、常にわたしの淡い期待を裏切る。わたしの提示する意味のつながり、解釈は裏切られてしまう。まさに好き勝手に紡いできてしまったものとして自覚される。

対象の大きさとあたしの認識の卑小さ!!あたしが片づけてしまったものは、文字通り単なる片鱗でしかなく、その全体ではない!!!

こうしてあたしは常に問われ続ける。意味のつながりとしてあたしの精神は拡大する。


これは一つの悦楽である。性に対する悦楽も、言葉に対する悦楽も、悦楽としては同じであるならば、もはやあたしの周りのニュンフォマーニンをバカにすることはできない。


意味への意志こそがあたしの生を突き動かす。そこでは、理性の王国の構築のみが問題になるのではなく、デモーニッシュな人間の生のすべてが問題になるのである。


人間の一つの享楽として自覚しない者を笑い飛ばそうではありませんか。意味のつながりを求めることは単に一つの享楽の内容なのであって、享楽としての形式性には、何の違いもないのよ!!!

排便するときの身体の気持ちよさと、レゴを組み立てるように意味を積み上げてゆく充足感の間に何の違いもない!!

どちらも、あの背中から翼が生えるような感じ。プラトンがパイドロス編で語っているあの表現は、まさに身体性を基盤とし、人間にとって、身体がいかにその生を支えているかも物語っている。いくら身体と魂の分離を説いたところで、魂の充足感自体、魂の考察の基盤自体がまさに身体なのである。

それにしても、ドイツ人のあの身体、生の基盤としてのあの身体の強固さには感嘆してしまうわ。

マヌーーーあたしもボールのように抱きしめて!!!