戦前多くの馬が日本にいたがその数は良く解ってはいないが、概ね180~120万頭ほどいたと思われる。そのうちの80~100万頭ほどの馬が軍に徴発(強制的にとりってること)されている。国は馬を活兵器と呼び、生きた兵器として位置付けていた。軍と言う字であるが、古代中国では輜重(しちょう:軍用品)を車で運んだ名残を留めている。当然馬で引いたのであろうが、大陸の戦いで馬の必要性を国は感じて、徴発していたのである。

徴発された多少の軽種馬もいたであろうが、多くは農耕馬が対象になっている。臣民(国民)は赤紙郵送料1銭5厘で少数されるが、馬は250~300円で徴発された。それ程軍では大切に扱われてはいた。

海を渡った馬は、幾度も負傷しながら生きながらえ帰国した勝山号1頭以外すべて死亡している。勝山号も帰国したのは1940年と戦時中である。この頃国民の7割ほどが農民である。徴発された馬との悲しい馬との別れの歌も数多くある。馬にも出征をさせ「一死報国」をさせたのである。

終戦で生き残った馬は憎き日本の馬と銃殺されること多かったようであるが、詳細は不明であるが帰国した馬はいない。先の戦争(満州・中国・大東亜・太平洋戦争)での、軍関係の死者は310万人とされている。膨大な死者であるが、馬も100万頭ほど死んでいることを、そしてその慰霊も詳細も何もわかってはいないのである。

農耕馬は農家では、現在の愛玩動物、ペットとは全く異なり、共に働く、共に生きるk族のような存在であった。同じ屋根の下で暮らし、同じものを食べてほぼ二十年暮らす家族である。現在のアニマルウエルフェアーの基準を遥かに上回る関係であり存在であったといえる。徴発され金を受け取った時点で、国のもの、軍のものである。彼ら、彼女らには終戦後、何も家族に戻されるものはない。戦争の犠牲になった家畜は、馬の他に犬と鳩もいた。靖国神社に1957年軍馬の慰霊の像が建てられたのを期に、全国で慰霊碑が建てられている。

軍馬の末路が語られることなどほとんどない。