自分が何を見てどう思うかは自由だ。
それと同時に、他人(ひと)が何を見てどう思おうと自由だ。
にもかかわらず、人は色をつけたがる。
「えーっ、そんな風に思うんだ」「そんなの変じゃない」「それおかしいよ」
たしかにどう思おうと自由なのだから、こんな風に思って言うのも自由な感じがする。
ただ、それを言われたその人はどう感じるだろうか。
想像力豊かに、お互い気持ちよく生きたいものだ。
だからこそ、どこに気を向けて生きていくか、それで日々の感情が変わる。
自分が感じた素直な気持ちを大切に育てて、気持ちよく生きることができる。
その思いに賛同してくれる人がいて、共に生きれば人生はさらに豊かなものになる。
反対に、自分が感じた気持ちを嘲笑い、罵る人たちの目を恐れて、小さくなって、こそこそ隠れるように生きることもできる。
それで、自分を惨めに想い、なげきながら生きる人生はどんなにつらいだろう。
それ程極端ではないにしろ、これだけ情報が氾濫した現代社会の中で、人目を全く気にせず生きるのは難しい。
されど、少しでも自分に還る時間をつくり、感じるこころを大切にすることは、情報に晒され続ける肉体・神経を緩める事につながり一石二鳥にも三鳥にも感じる。
ありきたりな事でいいのだ。
例えば、必ず毎日のぼる朝日をみて、太陽に感謝して、おかげで育つ草木花々の実りに想いを馳せて全身で地球全体のエネルギーを感じてみる。
赤い夕陽に今日の無事平穏な一日を想い、色を絵で表現する、音にしてみる、言葉で表してみる。
僕にとっては、自分だけの感覚を大切にして、命の息吹を感じることが、明日を生きる活力につながるのだ。
小さな気づきこそ大切にしたい。
「そんなこと思ったって、どうせ、、、子供みたいでみっともない」などと自分を卑下せず、感じるままにいることが、意外と心に笑顔をまねく結果を生むかもしれない。
ちょっとしたアイディアが浮かんでくることもあるだろう。
それにより、ありきたりの日常が愉快になれば、いいに越したことはない。
仲間がいればなお楽しい。
共有してお互いに分かち合えたら、新しい何かが生まれるかもしれない。
そんな大それたことでなくても、笑って疲れを癒し、楽しく生きようと思えたらそれで大収穫。
わたしはわたしの想いを大切に生きる。
ただ、そう決めて生きる。