道で知人に出会い、寒い中しばらく立ち話。

知人「今から年賀状出しに行くんやわ〜。
まだ間に合うかしゃん?」
ちかぷ「三が日なら、いけるんちゃう?」
知人「ついたちは無理か〜!いっつも後悔するのに、懲りもせず」
ふたり「あはは!」
私も、いつもなら彼女と同じ。
仕事納めのあと「ギリギリ今年中!」の投函。

でも、
今年はとっくに出しました。
だって…喪中ハガキでしたもん。
「11月中に出せるかしら?」と、ヒヤヒヤでしたけれど。笑
一か月早まっただけで、やってること同じですけれど。笑

3月に義父が亡くなったので、今年のお正月準備は、掃除と簡単なおせち程度。
クリスマス。お正月。
家族的イベントの続くこの季節には、亡くなった人の不在を、いちばん実感するように思います。
先日も「よっちゃん(義父の名前)どこへいったんやろな〜?」
なんて、夫と話したりしました。

今年にかぎらず、年末は喪中ハガキが届いたりもして、他の季節より、死について考えることが多いのです。

「今までは   人のことじゃと思うたに   俺が死ぬとは   こいつぁたまらん」

蜀山人の狂歌です。
なんとも正直な、てらいのない歌。
死の瞬間の実感って、こんなもんだろうなぁと思えてきます。

大伯母の最晩年、92歳のときの備忘録に、
「フキちゃんが亡くなった。気の毒に」
と、義妹の死の記述があったことを思い出します。
いくつになっても死は他人事で、
ある日

あれ?
これはただことではないぞ!
え?
死ぬの?
私が?

という感じで、その時を迎えるのが普通でしょう。生き物の宿命!いたしかたない!

でも。欲張りなわたしは。
できたら、そうじゃないふうに終わりたいなぁ  と思うのです。

見るべきことは、見。
やるべきことは、やりきり。
病気や老衰で身体から追い出されるのでなく、
自分で決めた日にスルリと身体を抜け出す。

出産に備えて呼吸法などを練習するように、
死に備える練習もあるはずだと思うのです。

それはやはり呼吸法だと思うし
瞑想も欠かせない。

武道や茶道などの「道」とつくものや、音楽や舞踊や絵画や書なども呼吸が重要。
極めると、ランナーズハイのように、うっとりとした瞑想状態になる境地があるのだろうと思います。
このような身体の使い方によって得る、
ことばにできない「ある感覚」
それは死ぬときの感覚に、近いのではないでしょうか。

つきつめれば、死に備えて、
気功や二胡を練習しているのかもしれません。笑

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ロケットのように
花火のように
アタマのてっぺんから飛び出して
光に向かってうっとりサラスル
ゆるやかなドルフィンキックで

風に乗って  いきたいなぁ。