HSPと「両親の離婚」②〜過酷な試練〜 | おかえり、私!〜HSP のHSPによる HSPのためのブログ〜

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人にばかり優しくしていたら、自分が誰なのかわからなくなってしまった…。
人生のあちこちで 迷子になったままの本当の自分を迎えに行く。そんなブログです。

過酷な試練

 
私が7歳の時、父の不在中
 
父だけを残して家族で引越しをした。
 
 
 
新しい住居となったアパートに
 
母の不在中、今度は父が来て
 
私たち3姉弟を連れ出した
 
カレー事件の後。
 

 

 

 

 
父を除く私たち家族は
 
関西から関東に移り住んだ。
 
 
そこから1年半後に、また転居。
 
短い期間に、転校を繰り返した。
 
 
 
 
小学1年生だった私は
 
1学期2学期3学期
 
それぞれ、別の小学校に通った。
 
 
 
人見知り
 
母親の陰に隠れるような 7歳児だった私に
 
何て過酷な試練を与えてくれたと思う。
 
 
 
友だちとの突然の別れを乗り越えて
 
新しい友だちが出来ても また転校。
 
 
 
こういうところから
 
今の私の「根無草」感はあるのかもしれない。
 
 
 
幼少期の、きっと一番大事な
 
場所思い出から
 
切り離されたままになっている。
 
 
 
予告なく
 
有無を言わせない引越にも 
 
従うしかなかった。
 
 
 
母親は忙しかったので
 
急な新しい環境への変化にも
 
私1人で慣れないといけなかった。
 
 
 
特に関西から関東に引越した時は
 
言葉の違いに戸惑って
 
慣れるまで、しばらく喋らずにいた。
 
 
 

母子家庭 

 
母親は、
 
別の会社で事務の仕事をしていた。
 
朝早く出て、夜遅くに帰ってくる。
 
 
 
仕方のないことだが
 
「お帰りなさい」とか
 
「行ってらっしゃい」とか
 
そういう温もりや安心感はなかった。
 
 
 
そして、疲れているので 
 
いつも機嫌が悪い
 
それも仕方がないのはわかっているが
 
こどもだった私は
 
勝手に連れてきたくせに
 
邪魔にされていると感じた。
 
 
 
「じゃあ、どうして連れてきたんだ
 
という思いが
 
 
口には出さないが、心の奥底にあった。
 
 
 
 
 
うちは母子家庭だったが、
 
感覚として、居ないのは母親の方だった。
 
 
 
いつも疲れて不機嫌な母を見て
 
私は、甘えることを諦めた
 
 
弟も2人居たので、私の優先度は低かった。
 
 
母に何かを優しく教えてもらったり
 
相談に乗ってもらったりした記憶はない。
 
 
 
邪魔にはするのに
 
自分勝手に、心配はしてきた。
 
甲高い声で、変換せず思ったままの言葉で
 
自分の価値観で、私を全否定してくる。
 
 
私が給食に苦労していたことも
 
過敏性腸症候群に悩んでいたことも
 
 
何も知らなかったくせに。
 
 
 
 

こどもの心のケア

 
 
 父親と離れ離れになった時も
 
薄々はわかってたけど 
 
ちゃんと理由を聞きたかった。
 
 
「お父さんが居なくなって
 
 お母さんも大変になるけど
 
 みんなで一緒に頑張ろうね。」

 

「嘘をついてごめんね。
 
 転校させてごめんね。」

 

こういう説明さえしてくれたら
 
それでよかった。
 
 
 

癒えない傷

 
「私が将来、母親になったら
 
 自分のこどもに寂しい思いだけは
 
 絶対にさせない」と心に誓った。
 
 
 
だから、生活が苦しくても
 
仕事をするより、息子を選んだ。
 
自分なりに愛情をかけて向き合った。
 
そこに、後悔はない。
 
 
 
息子に向き合うことで
 
幼い頃の私の感情
 
癒やされた気がしたし
 
昇華されたと思った。
 
 
 

今の時代なら、毒親と呼ぶのか?

 

だからと言って、私は

 
母と付き合いを絶つこともなく
 
毎月、母の住む家に行き

母が手の届かない所の掃除をしたり、
 
マッサージや
 
お風呂上がりには髪を乾かしたりする。
 
 
いろいろあったけど
 
もう、全て過去のことだ。
 
 
 
 …だけど、母親が
 
「あんたは、手がかからなかった。」
 
などと、子育てについて語ると腹が立つ。
 
 
 
こどもの頃
 
聞き分けよく
 
自分が置かれた状況を受け入れた


 
…と同時に
 
私が声に出さなかった
 
「もっと、ちゃんと私を見て!」
 
という深い悲しみが
 
怒りに変わってしまっている。
 
 
 
 
それが、時々、顔を出す。
 
…心の傷は、そう簡単には癒えてくれない汗