京都には叔父の家があり、何度も訪ねていきましたが、京都の盆地の暑さは相当なもので、冬の寒さはともかく、夏の厳しい暑さは尋常ではありません。


それゆえに京都の家は夏向きに工夫して建てられていたようです。昔は衛生的にあまり綺麗なものではなかったようです。


川がしょうちゅう氾濫して、一度洪水が起これば、ばい菌なんかも全部一緒になって流れてきて病気が蔓延したそうです。


だからそういった対策も重ねるとともに、通気の向きを考えた建物になったそうです。

大坂の町人たちは家業の傍ら、自由な姿勢で学問と教育には積極的に取り組んできました。その真骨頂が私塾への支援でした。主な私塾として、適塾・懐徳堂・梅花社・泊園書院などがありましたが、中でも日本の維新に果たした適塾の役割は大きいものでした。


適塾は天保九年(1838)、緒方洪庵が開設した蘭学塾です。彼の人生哲学「自分の心に適するものを適として楽しむ」の意味の「適々」にちなんで、適塾と呼んだそうです。


当時、儒教精神が絶対視されていたので、画期的な発想でした。医師としての心構えは「病者に対して唯、病者を診るべし。貴賎貧富(きせんひんぷ)を顧みることなかれ。一握りの黄金を以て、貧士双眼(ひんしそうがん)の感涙に比するに、その心に得るところ如何ぞや。深くこれを思うべし」と述べています。


彼の人間愛に満ちた医学への熱い思いです。この思いは門下生の福沢諭吉に「天は人の上に人をつくらず」の言葉を語らしめ、江戸に洋学塾を開かせたのです。


もう一人の門下生の大村益次郎は蘭学で医学を学びながらも兵学、造船、新政府総司令官、軍制改革の分野で指導的立場になり、学問のための学問でなく、開国、西洋化の日本の近未来を予測して、それに必要な学問を究め、必ず形にするという実行力は凄いものでした。


この力は洪庵の教育方針「自由な発想」「平等」「幅広く学ぶ」から醸成されたものです。適塾を基に誕生し発展したのが、今日の大阪大学医学部、東京大学医学部、慶応義塾医学部です。適塾が日本を代表する三つの医学部のルーツとなったことは大阪の大いなる誇りです。

大坂の町づくりは天正十一年(1583)六月、豊臣秀吉が大阪城に入った時から始ったといわれています。


それから元和元年(1615)までがいわゆる豊臣時代です。この間に、東横堀川・西横堀川・阿波座堀川・道頓堀川・天満堀川等を開墾して市街を整え運輸の便をはかり、検地をも行った。


諸侯は城下に邸宅を興し、米倉を設け、堺その他の諸国の商人もここに集まって大いに賑わいました。


青物問屋は京橋南詰に軒を列ねて市場を成し、五十五名の川魚商すなわち鮒仲間は京橋北詰に鮒市場を開き、魚商は天満鳴尾町より麹町、天満町に移り、生魚塩魚の区別なく取り扱い、材木商は船場に居り、阿波座・土佐座はその国の商人が集住した。


市内諸川の往来には七村上荷船・新上荷船・茶船があり、鳥羽伏見から京橋付近に至る間、淀川を上下する過書船(許可をもらって航行する船)があり、海路は高麗橋付近を基点とし、木津川・伝法川を経て海に出るという、繁栄ぶりでした。


しかし、その大坂も慶長十九年(1614)、それに続く元和元年1615)の冬の陣、夏の陣によって跡形もなくすっかり焼けてしまった。


その大坂を建て直したのが、夏の陣の後、大阪城主となった徳川家康の養子だった松平忠明です。


市街地を整備し、大坂城の旧三の丸地域を開放して、伏見町人らを移住させ、さらに、市内河川を整備し、寺院や墓地のための地域を設けて統合移転をはかるなど、都市計画を断行した。これによって、大阪は単なる城下町でなく、商業都市として、いわゆる天下の台所としての基礎が固められた。

関西とは関(関所)の西方を意味し、関は交通路におけるチェックポイントです。


日本の古代には、王城の地、広くいって畿内防衛のために、東海道には鈴鹿、東山道(とうさんどう=古代より東海・北陸両道の間に位置し、畿内から東方、山間の諸国を経て奥羽地方に及ぶ行政区域と、その道筋)には不破、北陸道には愛発(あらち=福井・滋賀県境付近にあった古地名)の各関が設置されました。


これらは大化二年(646)に制度化されたものです。ここに今でいうところの関西の原型が認められます。しかしこれら三関の西側に位置する地方は関西とは呼ばれておらず、政治・行政的には畿内であり、文化的には上方でした。


中世、鎌倉時代に入ると、幕府の官職として「関東管領」が設けられました。これは、元々鎌倉公方の補佐役だったが、次第に実力を発揮して、幕府の政務を統括するまでに至ったのです。


明治元年(1868)、首都は平安京から江戸に移って、その地は東京と改称され、翌年には全国の関所が廃止されました。


関西の地域名称が使われるに至ったのは、明治維新以後のことのようです。王城の地は首都の東遷によって、もはや上方ではなくなり、関の西方、すなわち「関西」と呼ばれるに至ったそうです。

私たちの世代は新聞をはじめ本や雑誌等の活字を読むのが生活習慣でした。しかし、今ではIT化に影響を受け、便利さに慣らされて、子どもから大人まで本を読む機会が少なくなっています。


映像文化に影響を受け,話し言葉だけで、他人との良好な関係を築くことは、つまるところ無理なようで、議論もできない一人よがりの人間になり、最近ではコミュニケーションが苦手な暴走する老人やキレやすい老人が多くなっているようです。

 

本は読むと言葉が豊富になり、活字から得た知識が表現力を高め,自分の心の中を正確に伝えることができるようになるそうです。

 


本を何度も読み返し、考える時間を自分に与えることでき、新しい見方に気がついたり、自分の中で何かが変化する発見があり、人間らしさを鍛えることもできます。

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本を読むことによって,私たちは好きな時に,どこにいても広い世界と自由に出会える楽しみがあります。

 


次の世代を担う子どもたちが、どんどん活字文化から遠のくことにブレーキをかけなければならないと思います。子どもたちが本を読まなくなったら,これからどうなるのか行く末が案じられます。

明治維新、東京の中央政府は東京でなく大阪に、オランダ人の化学者ハタラマ、医学者のボードインを高額で雇って、舎密(せいみ)局(理学校)と医学校を創設しました。


大阪城の直前の大手前、今の府庁や知事官舎の南あたりのところです。舎密局とはオランダ語のChemieを日本語化したものだそうです。


どうして大阪がそんな全国最初の学問所に選ばれたのか。東京はまだ政治情勢が不穏であったこともあり、当時の大坂が全国一を誇る学問の町、天文学者や医学者を生んだ都会であったからです。


殊に北船場一帯に学問所が方々あって、そういうオランダ人を招いて学校を建てる受け皿が整っていたこらです。


今も大阪大学の手によって保存維持されている緒方洪庵の適塾があります。その近くには、1724年から140年の歴史を有する町人創設の学校、懐徳堂(かいとくどう)や梅花社等々の私塾がありました。

今年は自らが良書に親しむに相応しい年でありたいと願っています。因みに、厚生労働省が2001年生まれの子どもを対象に、継続して実施している調査によると、1カ月間に絵本や児童書を8冊以上読む子どもの割合は、母親が1冊(文庫・単行本)しか読まない場合は22.3%。


母親が読む冊数が増えれば、子どもの読書量も増加するという結果がでたそうです。父親も同様の傾向のようです。親の読書習慣が子どもの読書量に影響を及ぼすという結果がでています。


教育評論家の説によると、読書や習い事などは、「親が子どもに何かをやらせたいならば、親が工夫すること」が肝心だそうです。


読ませたい本があれば、まず親が読んで、子どもが興味を持てるように、感想や感動を語ることが、いかに大切かを教えられています。


因みに世の中の経済的浮き沈みの傾向は、社会全体の学習習慣から起こり得るという学者もいるそうですが、年寄りも子どもたちも勉強に精進することは大切なことです。

書店に行くと、料理の本や菓子作りの雑誌が並んでいる。テレビや新聞では、おかずの作り方を紹介している。それを見て一〇〇〇万人の主婦が、わが家の料理を工夫している。ところが、その料理やお菓子のアイデアを買いたいという会社が、たくさんある。

 

昭和五一年、日本に、初めて飲食物の特許が許可されるようになった。ボンボンという、チョコレートの中にウイスキーの入った菓子が世界に広まったのは、フランス人が発明して、その案を業者が五〇〇万円で買って、事業化したのが始まりのようである。


「カステラまんじゅう」を考えて大儲けした人や、大福餅の中にアイスクリームを入れた「雪見だいふく」がヒット商品になり、その考案者は一〇〇〇万円も受け取った。

 昔、新製品研究会というのがあって、クボタの副社長はじめ大阪府の企業の開発部門責任者の集まりがあった。


そのメンバーに、「メロディアン」とネーミングしたフレッシュを開発して一躍ヒット商品を出した牛乳屋がいた。

 

牛乳屋の主な得意先は喫茶店、しかし売上が上がらない。そこで悩み喫茶店で苦いコーヒーを飲みながらでたアイデアが、コーヒーにまろやかさをだすフレッシュである。


その雰囲気を上手く醸し出したのが商品名であった。店内に流れる「メロディー」と静かに心やすめる「アン(安)」を結び付けたのである。

私たちの現在は、過去の積み重ねのなかから築き上げられてきました。歴史はロマンであり昔を懐かしく思い出すものではありますが、本来歴史は未来への手引きであります。


明日の夢を語るためには、昨日までの私たちの歩みを振り返えなければなりません。激しく揺れ動く現代社会を、私たちはひたすら走り続けました。


しかし今一度立ち止まって、過去と現在と未来を静かに見つめ直す時間が、今の私たちに必要ではないでしょうか。


私たちはこれまでの歴史の歩みの中で、何を獲得し、同時にまた何を失ってきたのか…。


このことを反問する、静かな時間と心のゆとりが、今の私たちには必要です。歴史と文化を生かした町づくりを進めるには、地域の住民が歴史や文化の知識を共有する必要があります。これは日本の歴史と文化の縮図でもあります。

最近衣更えの時期にこだわりがなくなりつつあります。その理由としては、季節が暦どおりに変化してくれないからです。


いつ暖かくなり、いつ寒くなるかについても、まったく分からなくなってきているからです。地球温暖化などの大きな環境の変化が生じてきて、季節の移り変わりに乱れが見られるようになってきているからです。


異常気象が頻発しているからでしょう。それと、冷暖房が、かなり広範囲に完備されていることです。


建物の中だけでなく、乗り物も含めて、人間に快適な温度を保つ傾向が見られます。そこで、夏服とか冬服とかの区別がそれほどする必要性がなくなってきているからです。