昭和初期の経済恐慌を乗り越え成長を遂げた企業は他にもありました。松下幸之助率いる松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)もその代表例の一つです。
和歌山で生まれた松下幸之助は9歳で大阪の商店に丁稚奉公に出されるなど、苦労したことはよく知られています。その後、15歳から大阪電灯(現・関西電力)に勤めた後、23歳で独立し、大阪府東成区鶴橋町猪飼野(現・大阪市東成区)の自宅で電球ソケットの製造販売を始めました。大正6年(1917年)のことです。
東成区の今里交差点から西へ10分ほど歩いていくと、住宅街の中に伝正院というお寺があり、その前に「松下幸之助起業の地」の石碑が建てられています。

<地元・東成区の顕彰会によって平成16年に建立された「松下幸之助起業の地」の碑(大阪市東成区玉津2丁目)>
当初は、幸之助と妻むめの(当時22歳)、むめのの弟の井植歳男(当時15歳、戦後に三洋電機を創業)の家族3人だけのささやかなスタートでしたが、幸之助が開発した二股ソケットは品質が良く価格も安かったので評判となり、事業はすぐに軌道に乗りました。そのため翌年の大正7年(1918年9年)、現在の大阪市福島区大開に移転し「松下電気器具製作所」を創業しました。

<幸之助の創業時の家があった場所を示すプレート(大阪市福島区大開の大阪府立西野田工科高校横)>


<地元・福島区の大開連合町会など関係者によって平成16年に建立された「松下幸之助創業の地」の記念碑(大阪市福島区大開の大開公園内)。幸之助の言葉が刻まれている>
幸之助はこの地で事業を拡大していきます。大正年間から昭和初期にかけ、主力の二股ソケットをはじめ、ランプ、乾電池、アイロンなどを次々と開発し、事業を拡大させていきました。ランプに「ナショナル」の商標を付けたのもこの頃で、以後「ナショナル」は統一ブランドとなっていきます。

<幸之助が大正9年に開発した二股ソケット(パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館の展示、以下同)>

<昭和2年に開発したナショナルランプ。初めて「ナショナル」の商標をつけた>

<昭和6年開発の乾電池>
事業拡張に伴い、周辺の土地を新たに借りて工場と事務所を増設し、昭和3年には従業員は300人、昭和7年には1200人に増えていました。その頃の日本は、昭和2年に「金融恐慌」、4~7年は米国発の世界大恐慌による「昭和恐慌」というどん底にありました。そのさ中に、松下は急速に成長し続けていたのです。
昭和8年には、本拠地を現在の大阪府門真市に移転し、7万平方メートルを超える広大な敷地に工場を建設しました。2年後の昭和10年には従業員3500人、製造品目も約600種類と、大企業に成長しました。そこで株式会社化し、「松下電器産業」を設立したのでした。
現在、門真市にあるパナソニックミュージアム松下幸之助歴史館には、同社の創業からの歴史と同社の製品が展示されています。
これを見ると、2度の恐慌をものともせず成長を遂げていった原動力が、高品質で低価格の製品を次々と開発した技術力と幸之助のリーダーシップにあったことがよくわかります。
松下電機は昭和14年にいち早くテレビ受像機の試作にも成功しています。これについては次号で詳しく紹介します。
和歌山で生まれた松下幸之助は9歳で大阪の商店に丁稚奉公に出されるなど、苦労したことはよく知られています。その後、15歳から大阪電灯(現・関西電力)に勤めた後、23歳で独立し、大阪府東成区鶴橋町猪飼野(現・大阪市東成区)の自宅で電球ソケットの製造販売を始めました。大正6年(1917年)のことです。
東成区の今里交差点から西へ10分ほど歩いていくと、住宅街の中に伝正院というお寺があり、その前に「松下幸之助起業の地」の石碑が建てられています。

<地元・東成区の顕彰会によって平成16年に建立された「松下幸之助起業の地」の碑(大阪市東成区玉津2丁目)>
当初は、幸之助と妻むめの(当時22歳)、むめのの弟の井植歳男(当時15歳、戦後に三洋電機を創業)の家族3人だけのささやかなスタートでしたが、幸之助が開発した二股ソケットは品質が良く価格も安かったので評判となり、事業はすぐに軌道に乗りました。そのため翌年の大正7年(1918年9年)、現在の大阪市福島区大開に移転し「松下電気器具製作所」を創業しました。

<幸之助の創業時の家があった場所を示すプレート(大阪市福島区大開の大阪府立西野田工科高校横)>


<地元・福島区の大開連合町会など関係者によって平成16年に建立された「松下幸之助創業の地」の記念碑(大阪市福島区大開の大開公園内)。幸之助の言葉が刻まれている>
幸之助はこの地で事業を拡大していきます。大正年間から昭和初期にかけ、主力の二股ソケットをはじめ、ランプ、乾電池、アイロンなどを次々と開発し、事業を拡大させていきました。ランプに「ナショナル」の商標を付けたのもこの頃で、以後「ナショナル」は統一ブランドとなっていきます。

<幸之助が大正9年に開発した二股ソケット(パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館の展示、以下同)>

<昭和2年に開発したナショナルランプ。初めて「ナショナル」の商標をつけた>

<昭和6年開発の乾電池>
事業拡張に伴い、周辺の土地を新たに借りて工場と事務所を増設し、昭和3年には従業員は300人、昭和7年には1200人に増えていました。その頃の日本は、昭和2年に「金融恐慌」、4~7年は米国発の世界大恐慌による「昭和恐慌」というどん底にありました。そのさ中に、松下は急速に成長し続けていたのです。
昭和8年には、本拠地を現在の大阪府門真市に移転し、7万平方メートルを超える広大な敷地に工場を建設しました。2年後の昭和10年には従業員3500人、製造品目も約600種類と、大企業に成長しました。そこで株式会社化し、「松下電器産業」を設立したのでした。
現在、門真市にあるパナソニックミュージアム松下幸之助歴史館には、同社の創業からの歴史と同社の製品が展示されています。
これを見ると、2度の恐慌をものともせず成長を遂げていった原動力が、高品質で低価格の製品を次々と開発した技術力と幸之助のリーダーシップにあったことがよくわかります。
松下電機は昭和14年にいち早くテレビ受像機の試作にも成功しています。これについては次号で詳しく紹介します。