「湯たんぽ」の思い出  

 

 

彼が、上野・池之端七軒町にある下宿に入ったのは、東京に出て二年目であった。池之端といっても、不忍池に直接面しているわけではなく、一筋内に入っていた。町の発展とともに、池の畔から離れたようである。珍しい名前なので、町名の由来を調べると、江戸時代初期、不忍池の西に七軒の民家があったので、命名されたようだ。徳川も三代目、家光の時代となっていたが、その辺りの人家はまだ疎らであったようだ。現在は、池之端二丁目と改名され、約千六百件の世帯数となっている。以来彼が大学院を終え、助手に採用され、さらにアメリカに留学するまで、合計六年以上住んだことになる。

その下宿は、禅宗のお寺の広い境内の一角にあった。入り口の寺門の横に東京都史跡「北村季吟の墓」と刻まれた石碑と墨書された高札があり、寺の由緒、および季吟の事績が書かれてあった。松尾芭蕉の俳諧の師匠であり、「源氏物語湖月抄」の作者である。下宿後暫くして、季吟の墓にお参りした。小さなお墓で、かなり苔むしており、辛うじて碑銘が読みとれた。下宿は各室三畳で十室あり、大半が東大の学生で、十人ほどいた。私の部屋は、お寺の玄関近くの一階であったので、和尚さん夫婦や家族の方とも親しくしていただいた。  

和尚さんには、禅の講話に招いて頂き、白隠禅師の話をお聞きした事がある。

「私の子供の頃、学生時代の久松潜一さんが下宿されていました。後年国語学者として大成した人です。久松さんは、実によく勉強されてましたよ。多くの国語辞典に彼の名前がありますね。万葉集の研究で一家を成した犬養 孝さんは、久松さんの後輩です」。後年知ったことだが、なんと犬養はこの池之端で生まれ、谷中の墓地に埋葬されている。

奥さんは町内の婦人会会長をされていた。「今度町内会の海水浴で、バスを借り切って、湘南海岸に行きます。あなたは、ご近所の子供たちとも仲が良さそうなので、子供たちの監視員ということで、一緒に行かれませんか? あなたも、海を楽しんでいいですよ」

この下宿での懐かしい思い出は、同居人の老女のことである。長与と言う姓で、もう少しで九十歳と言うことであった。連れ合いは勿論、子供そして孫にまで先立たれ、身よりが全くなかった。和尚の奥さんが遠縁に当たるので、ここに引き取られたと聞いた。私の部屋の斜め向いの一室に住んでおられた。ある時、戸が開いている時ちらりと中を覗くと、部屋の隅にた簡素な夜具と僅かな日用品が置いてあるだけであった————。人生も最晩年になると、これだけの物で、生活できるのかと、感動した。彼も毎朝八時過ぎには大学に出掛け、また夜は大抵十時過ぎに帰宅するので、あまりお会いする機会は無かった。日曜日には、廊下や階段を拭いておられたのでご挨拶した。もう腰はほぼ九十度まで曲り、外では杖をつきながら歩いておられた。

ある冬、彼が珍しく風邪を引いて、二日ほど寝込んだ。夜通し咳込んで苦しい思いをしていた。自分では意識しなかったが、彼の咳は下宿中に、響いていたようである。風邪が治り、また大学に通い始めたある日、帰宅すると部屋の入り口にブリキの《湯たんぽ》が置いてあった。その上に、紙片があり『これで暖まって下さい。長与』と書いてあった。翌朝御礼の挨拶をした。

「もっと早く買ってきたかったのですが、近くに無くて、遅れてしまいました。また風邪をひかれないように、お大事にしてください」——と言われた。

確かに、下宿の周辺は住宅街で、金物屋などはない。「この《湯たんぽ》、どの辺で探されたのですかと聞くと、近くの根津神社あたりのお店にはなく、寛永寺近くの谷中まで、買いに行ったと言われた。彼が歩いても二十分以上は掛かりそうなのに、この寒さの中、老女の足でと思うと、風邪を引いて、咳をした事が悔やまれた。

早速本郷の和菓子店で、ちょっとした物を買って御礼をした。それからというもの、毎夜帰宅すると部屋の入り口に小さな薬缶と湯飲み茶腕がおいてあった。お茶はかなり温かであったので、私が帰宅する時間近くまで起きて、お湯を入れてくれたようだ。茶碗はいつも汚れていたが、彼女の視覚が衰えていたせいかもしれない。あの年齢に達しても、同居の一介の学生に対する思いやりの深さには、今考えても胸が一杯になる。《湯たんぽ》は、共同炊事場のお湯を入れて、使用した。ある日、和尚の奥さんが「彼女のここでの生活もいよいよ無理になったので、立川の向こうにある昭島市の老人ホームに入居されました。驚いたことに、ホームの人はキャデラックで迎えに来られました」と言われた。

毎晩のお茶の差し入れがなくなった時、家族の一人と別れた様な侘しい気がした。

それから暫くしたある日曜日、彼は御茶ノ水駅から中央線に乗って、彼女に会いに出かけた。立川駅で降り、駅前の果物屋でミカンを一箱買って肩に担ぎ、バスに乗って、やっと目的地にたどり着いた。かなり大きな老人ホームで、面会を頼んだら、受け付けの人が彼女を玄関まで連れて来てくれた。相変わらず腰は曲がったままであったが、私を見て、驚いておられた。

「まあ、あなた、こんな遠いところまで、良く来てくれましたね。さあどうぞ!どうぞ!」と嬉しそうであった。居室まで案内された。そこは十畳以上あろうかと思われる大部屋で、八人位の女性が同居されていた。私を囲むように半円形に皆さんが座り、紹介された。「この方は、私が前に居たところの学生さんで、帝大に行かれています」。ホームの中での事、巡回の慰問————落語、マジック、民謡————が楽しみなことなど、あれこれ話された。ミカン箱を差し出すと、非常に喜ばれて、「皆さんで、頂戴します」と言われた。かなり高齢のお仲間さんともお話をした。

帰る時になったら、私を玄関まで見送ってくれ、懐から何やら紙包を出して、手に握らせてくれた。堅く断ったが、「もうここではお金は一切要らないから」と、強く押しつけられたのでやむなく受け取った。貧しい学生が、遠くから手土産を持って見舞いに来てくれたことに対する彼女の精一杯の感謝の気持ちだったのであろう。

立川駅に戻り、電車に乗る頃には、宵闇の色が濃くなっていた。車内の明かりで、いただいたものを取り出して見た。懐紙に千円札が三枚丸めてあった。奥さんからでも頂いて、大事にしていた彼女の全財産だったような気がした。あの《湯たんぽ》もきっと僅かな蓄えからの支出であったに違いない。思わず、目頭が熱くなったのを今でも思い出す。

———それから半年位して、奥さんから彼女が亡くなったという知らせを受けた。もう葬儀も済んで、野辺送りも済ませたということであった。「あそこは遠いから、もうあなたは行かなくてもいいですよ」と言われた。

それから、五十年以上の歳月が流れた。彼は、不図した時に彼女のことを思い出す。厳しい寒さの中、杖を片手に、腰を曲げ、《湯たんぽ》を持ったり、道に置いたりしながら、あの谷中から池之端の下宿までの長い道を歩いている老女の姿を思い浮かべる度に胸を衝かれる。谷中から根津までは急な坂道だ。一歩間違えば、彼女の生命に関わる大仕事だったようにも思う。あの《湯たんぽ》は、留学が決まり、下宿を出る時に、後輩に渡したが、今でも誰かが使っているのだろうか。

井上靖の名作「しろばんば」に、主人公の少年を溺愛する「ぬい」という老婆が登場するが、私にとっては、彼女が「おぬい婆さん」だった様な気がするし、忘れ難い人となっている。