先日、友人たちを誘って、京都市左京区仁王門通りにある寂光寺を訪ねた。この寺には既に5度参拝に来ているが、菩提寺ではない。今回は、友人たちにこの寺を有名にした本因坊の事績を紹介するためだ。一人は、碁の愛好家であるので、特に案内したかった。寺の山門脇には「碁道名人第一世本因坊算砂旧跡」と書いた大きな石碑が立っている。

 そう、この寺は、かつて碁の初代家元、本因坊算砂(さんさ)が住んでいた寺である。と言っても、寂光寺は以前、中京区の寺町通竹屋町にあった。聚楽第建設に際して、秀吉の命により、鴨川東側の現在地に移転されたものだ。  

 お墓 
(京都寂光寺、本因坊算砂の墓) 

 本堂前の広い中庭を通り、奥の一角にある墓所で参拝した。すこし苔生していたが、立派な墓があり、僧日海、一般には、本因坊算砂と呼ばれる僧が眠っていた。その後、本堂前の白い砂利石を敷いた庭に出ると、友人たちは寺内のあちこちを興味深く見学していた。私は、本堂脇にある高札の説明文を読んでいた。                   

 その時、何処からともなく、声が聞こえて来た。低い声で、私に話しかけているようで、慌てて、周りを見渡したが、人影はなかった。しわぶきも聞かれたので、高齢者かもしれない。
 
「お宅さん、わしは本因坊算砂じゃよ、わしの墓に何度も参拝してくれるが、ご好意に感謝しているよ。先日は、大学のもと学生という若い女性を3人連れて来られたな。住職が本堂を案内したが、生憎とお宅も、女性たちも碁は出来ないと話された。わしの名前の本因坊に敬意を表しに来たとか。これも何かの縁、時間があったら、碁も習って下さいな」

山門3人さん
(寂光寺山門にて)

「今日は、友人たちを連れて来てくれて、有り難う。お一人は、碁の趣味があるとかで、腕も良いらしいね。一局でも、対局してあげたいものだが、なにしろ、わしは腕も、指もないので、碁石が持てずに、残念じゃ」と言って、フフフと笑った。

 「ところで、最近、お宅たちを含めて、ここに来る人たちの話をそれとなく聞いていると、朝鮮(現在は韓国というようじゃな)の碁の名人と南蛮人の作製した電気仕掛けの「からくり人形」で碁の勝負をしたら、何と、「からくり人形」が4勝1敗で、圧勝したとか。えらい人形が出来たもんじゃて。直接観戦していないので、詳細は不明だが、どういう棋譜であったのか、興味深々じゃよ」

 「わしは織田信長公から、碁の名人という称号を頂いたし、生前の碁の試合では、連戦連勝で、負けたことはない。自慢ではないが、秀吉公主催の試合では、わしは圧倒的な強さで勝ち、公からご褒美を頂いた。家康公からは、江戸に招かれ、碁の家元を拝命し、20石、10人扶持の録を頂いた。あの宮本武蔵が、細川藩に客分として採用された時は、堪忍袋の5人扶持(18石、7人扶持)だったそうだ。どうも、命がけのチャンバラよりも碁石パチりの方が、給料は少し高いことがわかって驚いたよ。とまれ、「からくり人形」如きに負けるはずはないよ。所詮、人の作った人形など、多寡が知れているわ」.

中庭
(寂光寺中庭にて)

 「そりゃ、今世界で一番強いと言われる韓国の名人が4敗したからには、わしも、全勝出来るとはよう言わないが、そう易々とは負けまいて。いずれ、わしの一門で、不世出の天才と言われた道策や秀策が出てきたら、「からくり人形」など一勝も出来んじゃろう。ふたりとからくり人形の対決は見たいもんだて」

「人形というのは、顔に表情が出ないので、相手の心の内が見られないので、韓国の名人も碁石だけで、勝負を進めたのじゃろう。人形の顔に表情が出れば、この名人と人形の試合は面白くなりそうじゃ。碁は、対局者の顔や姿や、間を見ながら、その心理状態を斟酌して、碁石を打たないと、勝てないというのがわしの経験じゃ」

「なにぃ?そのからくり人形は自分で学習して、過去の棋譜を全部暗記して、その上で、さらに、独自の碁を作り出すのか?「深層学習」と言うのか。わしにはさっぱり分からんが、人形が比叡山で、千日修行でもして、悟りを得るようなものかね。その「からくり人形」は夜も寝ないで、学習出来るのか?何ということだ!ウーン、それでは次の試合では、その韓国の名人は1勝も出来なくて、全敗する可能性があるな──」

本堂
(本堂内にて、この場所で本因坊戦が実施された)


「人形が、自ら学習能力をもって、進化するとすれば、ちと恐ろしいことになりそうだな。その学習能力の早さが桁外れとすれば、人間の智力を凌駕するのは時間の問題だろう。となると、我々人間とは全く異なる次元の手を打つ可能性がある」

 「まあ、しかし、今の話は碁の話だ。趣味の話で、勝つても負けても別にどうということではない。わしは、碁の名人で、家元だなどと言われているが、あくまで余技で、本職は寺の僧侶だ。仏の教えを守り、法華教を広めるのが、役目だ。敢えていえば、そんな南蛮製の「からくり人形」を真正面に相手にしないで、別の和製の「からくり人形」を考案して、人形同士で碁を戦わせたらいい。飛騨の高山では、精巧な「からくり人形」を作っているが、あそこに依頼して、碁のできる新しい人形を作ればいいだろう」。お宅も理解できるだろうが、わしと馬がかけっこをして、わしが馬に勝てると思うかね。そんな話じゃないかな」

 「ただ、この噂話を聞いて以来、わしが心配しているのは、この「からくり人形」の頭が、碁ではなく、別なこと、はっきり言って、実戦の場に応用されると、大変なことになると案じているよ。そうだろう、我が国の今までの戦を全部、記憶して、それをもとに、日本全土を碁盤に見立て、新しい戦略を立てられたら、戦の天才と言われる武田信玄や、信長公、秀吉公も、そして家康公も、連戦連敗かもしれない。真田丸なども、鎧触一蹴されるだろう」

 「となると、「からくり人形」を操る人、あるいは「人形」自身が、天下を取ることは大いに可能だ。壬申の乱、源平の戦、応仁の乱、桶狭間の戦い、長篠の戦いなどの実践の詳細と関与した人物の心理などを理解、記憶されたら、その人形を軍帥とした武将は、群雄割拠の時代を終結し、あっと言う間に、天下を統一するだろうな。だれが勝残るかは知らんが、信玄が、その人形を手に入れたら、もっと早く瀬田の唐橋に風林火山の旗が翻っていたかもしれない」

 「信玄には残念ながら、京都へ一足先に上洛してきたのは、信長公であった。征夷大将軍となり、天下に号令を掛けるのは、もう時間の問題であった。公の旗印の「天下布武」が成り立つ寸前であった」。

本能寺
(寺町通りから見た本能寺、寺内には、信長の墓所、蘭丸等本能寺で殺害された部下の墓がある)

 「──信長公といえば、天正10年6月1日、つまり、あの「本能寺の変」が起きる前日の夕刻にわしは公とお会いした。その日の午前中は、宿泊先である本能寺に、信長公は、親交のある殿上人や博多の豪商を招き、書院で茶会を開いた。安土から、多数の名器を持参されて、茶を振る舞われた。後日、本能寺の僧侶に聞いたが、公は上機嫌で、数日後には、中国・四国方面へ戦に出るという緊張感など全くなく、戦ごとの話しも皆無であったとか」

 「わしが21歳の頃、信長公が寂光寺に来られて、碁のお相手を依頼されたことがある。公の手は拙い方ではなかった。わしの碁を打つ手には、ひどく感心しておられた。
その時、信長公が帰宅される時、寺の山門前で、お見送りしたが、広い寂光寺の周辺は、信長公の馬廻り衆や、弓衆などががっちり固めていた。馬廻りの侍は、みな大男で、長い斬馬刀を背負っていた。騎馬の相手が乗っている馬を切る刀でな、普通の人には持てないような大刀であった。そりゃ、猫の子一匹入る隙間もないくらい、厳重な警護であったよ」

 「しかし、あの日昼前に本能寺に呼ばれたが、寺の周囲の護衛が殆どいないのを見て、驚いたものだ。以前とは大違いだった。もっとも、本能寺には、空掘や土塁も築いてあって、防備は確かなので、護衛も軽くされたのかもしれない。それにしてもだ、いまや世間の注目の的となっている信長公の周辺に、護衛兵が少ないのには合点がいかなかった」

信長はか
(本能寺内の織田信長の墓所)

 「ご存知かと思うが、当時信長公の命を狙うものは、各地にごまんといた。武田や浅井、朝倉の残党、石山本願寺の門徒、叡山の焼き討ちを逃れた僧兵、各地の武将達、信長公に僅かな隙でもできたら、命を狙って襲ってくるはずじゃ。信長公は、戦の世の常とはいえ、武将や軍兵だけでなく、無辜の民に至るまで、随分と惨いことをされたのはわしの耳にも入っている。伊勢長島では、2万の人々が焼き殺されている」

 「あの日、わしは本能寺の別室で鹿塩利賢と対局していた。信忠公が宿舎に帰還されたあと、信長公はわしらの対局を観戦された。すこし酒臭い息であったし、また頬は紅潮していた。碁は順調に進んでいたが、なんと三劫が出来て勝負がつかなくなった」

「お宅は碁を打たないということで、劫のことは知らないと思うが、劫とは要するに1子をめぐる石の取り合いのことじゃ。劫が生じたら、囲碁のルールで、すぐに取り返すことはできないので、何処か別のところに打ち(これを劫立てという) 、そこを相手に受けてもらってから取り返すのじゃが、これが3箇所にできると、1子の取り合いが永遠に続き、勝負がつかなくなる。これが「三劫無勝負」と言われるものじゃが、こんなことは滅多に起こるものではない。わしと利賢は不吉だと思ったが、公には黙っていたよ」

 「しかし、わしらの顔に出た不安感と、碁石の動きが止まったのを観て、信長公は、酔いも冷めて、不安そうに、碁盤をじっと観ておられた。わしが、この碁は1子の取り合いが長く続く、と言うと、信長公の顔色は青白くなった」

「公は、その瞬間、我が身と信忠公の置かれている状況に、気が付いたのではなかろうか。常に身の回りを守ってくれている剛力な馬廻り衆や軍兵がいない。今夜は20人くらいの小姓と数名の侍だけだ。馬廻り衆は、知行地に返し、5日に本能寺に集合し、光秀の軍勢の後を追うことになっている。相手が誰にせよ、今囲まれたらおしまいだ。茶会に気をとられ過ぎたことに気がつかれたーと思う」

 「傍にいた小姓に、蘭丸を呼べと大声で言われた。蘭丸が来ると、なにやら小声で話していた。用件を聞くなり、蘭丸はただちに、急ぎ足で外へ出た。信忠に連絡を入れたものと思えるが、時すでに遅すぎたようであった。光秀の軍勢は老の坂に向かっていた」

 「碁は3番打ったが、もう真夜中になっていた。わしと利賢は本能寺を出て、それぞれの家に帰宅した。本堂の入り口にいた宿直の侍達が、数名、門前で見送ってくれた。来た時と同様に、山門近くの松明の明かりの傍に立つ護衛の兵士の姿は疎らであった。寂光寺に着くと、わしはすぐ寝所に入って、横になった。緊張していた所為か、眠れず、微睡んでいた」

 「暫くすると、町で何事かが起きたようで、寄せ貝、陣鉦、押し太鼓の音、大勢の人の喚声が上がり、軍馬のいななきが静かな京の空に響きわたった。回廊に出て外を見ると、先ほどまでいた本能寺と二条御所から、紅蓮の炎が上がっていた」 

 「寺の若僧が出かけて、様子を見てくると、桔梗の紋入りの旗印から、明智光秀の軍勢が、主君信長公に謀反を起こしたことが判明した。信長公の周りに、無敵の馬廻り衆、軍兵がいないことを知っていたのは、諸国の敵よりも、味方の光秀であったのだろう。蘭丸兄弟などの奮戦も空しく、1万3千の大軍に攻撃されて、勝負はすぐついた。信長公は自害し、火を放って、自らの体を焼いた」

 「わしは、前夜の手薄な本能寺の様子を察知したので、信長公に、至急大津へでも退去し、安土に飛脚を飛ばして、応援の兵を待っように進言すればよかった。さすれば、お命は助かった可能性がある。わしは、後悔している。碁をしながら、1子先が読めなく、破れたような気分であった。「からくり人形」にでも問えば、答えは、即座に出て、「信長公は本能寺から脱出せよ」と、出たのではなかろうか。もっとも、わしなど一介の若い僧侶が、信長公に、身の危険を提言するなど笑止千万で、取り合ってもくれなかったであろうがのう。公は敵に襲われるなど、夢にも思っていなかった筈だ」

 「もちろん、信長公は引く事を知っておられる。かつて、娘婿の浅井長政が反旗を翻したとき、朝倉との戦いを止め、ただちに安土に逃げ帰っている」

 「近い将来、新式の強力な火縄銃を駆使できる「からくり人形」が発明されたら、そして、その発明者が世界地図を見ながら、覇権を狙うとすれば、あるいは人形自身が、地球を征服すると仮定すれば、あと20~30年後には、地球の運命は大きく変わるじゃろう。詰まらん話をしたが、春の日の陽炎の言葉とでも思って、忘れておくれ。また碁の好きな友達をここに連れて来て、碁の話しでもいいし、「からくり人形」の話しでもして下さい。待っていますよ」

 「そろそろ行かないか?」という友人の声で、我に返った。白日夢でもいい、本因坊算砂と話しができれば、と思いながら、仲間と一緒に寺を後にした。(終)


備考:本因坊算砂(1559-623、64歳)、織田信長(1534-82、49歳)、宮本武蔵(1584-645、61歳)。碁の知識は、畏友福島宏氏にご教示頂いた。過日、住職大川定信氏に、元学生達と一緒に寂光寺本堂内を案内して頂いた。記して感謝。