「十年一覚揚州夢」                    岡部 進

 

 表記の詩は、晩唐の詩人杜朴(803-853)の「遣懐詩(懐いを遣る詩)」であり、我が身につまされる。私は目下京都シニア大学の学生で、書道部に所属し、展覧会用に表題の杜朴の詩を選び、書を稽古している。

 さて、杜朴であるが、彼は唐の都長安の名門一族(父は裁判所長官)に生まれ、科挙に合格、進士となり官吏となる。つまりエリート官僚。31歳の時、当時の唐王朝一の繁華な都市揚州に赴任。その地の狭斜の巷(遊郭)で遊び惚ける。来る日も来る日も仕事が終わると花街に出て、“酒と女とバラの日々”。名家の子弟に何かあってはという上司の計らいで、30人の衛兵が彼を見張る。もちろん、杜朴は後年それを知るが、その時は全く知らない。だろう、誰だって上司や親の監視付きで遊女と遊んで何が楽しい。彼のあだ名は、“青楼薄悻”、つまり“色街の浮気者”。3年後、彼は長安に戻るが、その時馴染みの妓娼(あいかた)と別れの杯を重ねたーと晩年の詩で当時を回顧。遊び人杜朴も、酒樽を横にいつもの笑顔も冗談もなく、女もただ俯いて哭いているばかり。「蝋燭だけが、心ありてまた別れを惜しみ、人に替わりて涙を垂れて、天明(夜明け)に至る」。遊郭の一室での出来事ではあるが、男が詩人だとこういう風雅な別離となるのだ。凡な私の胸にもジンとくる。彼は長安に戻り、官僚として勤務しながら、揚州での青春の日を回想して、あの日々は夢であったかという表題の詩を詠んだ。私も彼に倣って、「六十年一覚黒髪夢」と青春を回顧して見た。

 

 揚州とは異なり、日本では1957年4月「売春防止法」が発布され、我が国の三大遊郭の一つ“熊本二本木”は閉鎖。つまり、私の入学の前年のことだ。その結果、1年生の時に入った下宿「竜南寮」の経営者は、元“二本木”の遊郭の経営者。さもありなんという感じで、目付きの鋭い強面であった。学生寮の横に自宅を建て、奥様はいつも和服で長火鉢の前に座り、タバコを吸っていた。時代劇に出てくる次郎長のお蝶さんみたい。しかし、下宿人にはいつも笑顔。私も家主の玄関前を通りかかったら「よかったら卵焼きはいかが?」と呼び止められた。ホカホカの卵焼きをご馳走になったが、その時何を話したのか記憶にない。ある時、元の従業員が遊びに来て、寮生の部屋で麻雀を見学していた。工学部4年の先輩寮生の話では、妓楼の一番の売れっ子であったとか。斯様な訳で、私は狭斜の巷の「ろうそくが涙を流してくれるような夢」はなかった。喜ぶべきか、悲しむべきかーよくわらかない。当時、家から月6000円が送られて来て、下宿代に4500円、残り1500円がお小遣い。当時、日本の遊郭の料金は、お遊び15分で500円,お泊まりで1000−2000円が相場らしい。これでは、“二本木”は経済的に無理。ベンジャミン・フランクリンは若い頃いかがわしい女と遊んで子供まで作ったが、出費はかさむし、病気を心配したと自叙伝に告白。同じ高校卒の薬学部の4年生の先輩と会ったら、「お前惜しかったな、“二本木”があれば、俺が連れて行ってやったのにな」と言われた。この先輩の実家は裕福で、一人息子、私の実家のすぐ近くであった。卒後、某製薬会社のプロパーになったとは後日知ったが、その後の消息は知らない。

 

 杜朴の詩で、フェルスターの「アルト・ハイデルベルク」を思い出した。ご存知の方もおられると思う。ドイツの若き皇太子カールが、ハイデルベルグ大学に留学し、ケイティという酒場のウエイターに恋をする。愛は深くなり、ふたりはオーストリアへお泊まり旅行の予定。ところが、運命はガラリと急展開。国許から国王の父親危篤で帰国要請。泣く泣く彼女と別れて、ハイデルベルグを後にする。やがて、国王は亡くなり、カールが後を継ぐ、そしてどこぞの王女と結婚。しかし、彼はハイデルベルグに残してきたケイティのことが忘れられない。衝動的に(若い時はよくある話だが)ハイデルベルグを再訪問。懐かしい彼女と再会。ひしと抱擁の後キス。しかし、逢う瀬は瞬時。再会のキスは別離のキス。ケイティは言う、「美しい青春、とっても短いのねー」。ワイン樽のそばのランプが、むせび泣くような情景(自分でもよくわからない説明だが、聡明な諸氏には理解されると確信!)。カールも杜朴と同じく、曽遊の地を離れ、青春に惜別というお涙頂戴のお話。人様の恋物語ながら、こちらの涙腺も緩みそう。シンデレラや白雪姫とは真逆の結果だが、子供時代とは逆にこちらの話に強く惹かれる。

 

 さて、“二本木”は問題外として、かくいう私にも黒髪の思い出は若干ある。淡〜いという枕詞がつくが。まず、下宿早々、管理人から近所の高1生の化学の指導を依頼された。5、6回下宿に来たので問題を解いた。女子で、素直な子であった。理科の指導が終わった後でも、近くの中学校での仲間とのバレーボールにも誘われた。確かバスケの選手だったと記憶。一度、映画に誘い、光音座に行った。帰途、中華料理店で、“ちゃんぽん”をご馳走した。母子家庭で、母親は生命保険会社に勤務。パチンコが好きであった。ある時、その生徒「お母さんパチンコに行きすぎ?」、母「なんば言いよるとね、お母さんはちゃんと働いて、お前を高校に行かせとるじゃなかとね」。黒髪から大江に移ってからは、会う機会はなかった。もう一つ、1年次、同学年に素敵な人たちが数人いた。いいなと思いながらも、声をかける元気も、挨拶する度胸もなかった。筑豊の田舎出身、女性に声をかけても、それからが続かない。“ちゃんぽん”食べに行くしか手はないのだ。大江に移ってからも、なんとなく素敵だなと思ったままで卒後。同窓会でやっと話し始めて、今日に至っている。これだけが「黒髪之夢」。しかし、思い出せば、懐かしい。女子高生の消息を知りたいと、さる人に問い合わせたが、行方不明。素敵な人たちとは親しくなり、同窓会で会い、時折電話や手紙をいただくが、今でも嬉しく、胸にくる。これが私の「黒髪遣懐詩」であり、ケイティと同じく、「美しい青春、とっても短いのねー」。

 

                       

 私が中学3年生の頃だった。当時、私は福岡県の筑豊地方にある小さな町、桂川町に住んでいた。町の正面には長谷山という300Mの山があり、その麓の平地に稲田と住宅街が広がっていた。町の中央には千手川が流れていた。町といっても、平山炭鉱(明治鉱業)の本社、病院、多目的会館を中心として、その前に住宅街が広がっており、町外れにボタ山が屹立しているだけのなんの変哲もない炭鉱の町だ。飯塚寄りの天道という場所にも同鉱業の炭鉱があった。炭鉱が開発されると、当然のことながら、職員や炭鉱夫の家族が住む場所が必要になる。炭鉱夫の数が千人以上となると、かなりの住居が必要となる。したがって、3〜4軒が1棟の長屋となり、碁盤の目のように広がって炭住街を構成していた。町から筑豊の中心地飯塚までは碓井駅から汽車で20分程度、バスで40分であった。娯楽施設としては映画館、料亭(悪童達の噂では遊郭兼業)、その他アイスキャンデー屋と薬局が1軒。今考えると、かなり寂しい町だった。

 職員住宅は別で、小高い丘の上に所長以下幹部の社宅があり、我が家もその中の1軒。近くには小さな公園があった。そこからは、真向かいにある長谷山や炭住街が俯瞰できた。目立つのは、事務所の並びにある選炭場の高い鉄骨の塔とその横にある貯炭場であった。地下深くから掘り出された石炭をトロッコで地上まで運びあげる。掘り出した石炭は泥土(ボタ)が付着しており、その泥土を除去する場所が必要になる。その場所を選炭場という。ベルトコンベアの上を水洗いされた石炭が流れるために、選炭場は24時間稼働していた。夜には数個所に付けられた灯火で、クリスマスツリーのように輝いていた。夜の閑間をぬって、ガラガラガラと轟音が響く。しかし、町に住む人は私も含めて、慣れっこになっており、気にならない。

 夜9時になると、サイレンが鳴り渡り、時を告げる。時々、このサイレンが真夜中であれ、狂ったようになり続け、町の隅々にまで緊急事態発生を知らせる。町全体が叩き起こされ、父は着替えて、ヘルメットを被り、会社に飛んで行った。落盤事故が起きたのだ。炭鉱で一番怖い事故だ。炭鉱夫が地底に閉じ込められ、救出を待っている。酸素がなくなれば、おしまいだ。貯炭場には国鉄の引込み線が来ており、精錬された石炭が積み込まれる。

 ボタはトロッコでボタ山に運ばれ、頂上から投棄された。つまりボタ山は「捨て石の集積地」である。掘り出した石炭は黒いダイヤとなるか、ボタとして捨てられるかの運命。人の運命にも似ている。しかし、このボタ山のごく一部は石炭で、地熱などでチョロチョロと燃え上がり、山の裾では常に白煙が見られる。しかし、ただの捨て石ではない。数年後にはボタ山を掘ると、捨て石は赤土となり、レンガの素材となる。ボタ山の麓で、10人くらいの中年の女性が、掘り出した土を水と混ぜ、木箱に入れ、上から強く叩いて整形し、固まったものを炉に入れていた。一晩焼くとレンガになり、出荷されて、建物などに再利用される。

 ある日、2年時の担任のN先生と数人の仲間で雑談していた。先生曰く『君たち、炭鉱関係の人はいいな。会社から家庭用燃料の練炭やコークス(石炭ガラ)が配給されているね。我々のように、炭鉱と関係のない人にはコークスの配給なしで、羨ましいね。あれは火力が抜群で、匂いはないし、非常にいい燃料なのだよ』。

 そう言われても、私にはどうにもならない。確かに、石炭ガラは家の燃料置き場にいつも置いてあるし、会社から定期的に馬車で運ばれてきた。

 地下深くから堀り出された石炭、不純なボタを洗い落とし、綺麗な石炭のみになるが、ベルトコンベアの上に運ばれている間に、石炭の一部が壊れて、水とともに流れ落ちる。純良な石炭は、指で押し砕くことができるくらい柔らかい。で、石炭の破片は微細な炭粉になって川に注ぐ。その為、その辺の川底はいつも真っ黒になる。炭鉱関係者の家庭には、おそらく石炭を機械的にすり潰し、貯水槽にため、加工して、石炭ガラに変えていたのだろう。炭住街を流れる川底はいつ見ても黒かった。そのせいか、今住んでいる京都の鴨川の底が透けて見えるのには感動している。

 先生の言葉を聞いて、自分で石炭ガラを作製して、先生の家に届けようと思った。我ながら、殊勝な心がけであった(笑)。その翌日、仲の良いH君(同級生)を1人誘って、選炭場の近くの小川に出かけた。選炭場で使用した水が流れていた。石炭ガラの作り方は友人が父親(炭鉱夫)に聞いてきた。友人の家から大きなスコップと持ってきて、選炭場に近い川底から炭粉層を掘り上げ、河原に積み上げた。次に河原の端の方に、直径約1.5M、深さは約1M程度の穴を掘った。次は、そばに積んだ炭粉を硬く丸めて、団子にする。それを20個程度、穴の中に積み重ねる。隅に材木の木っ端をおいて、火をつける。木材が十分に燃え上がる頃、穴の上に拾ってきたトタン板を載せる。一箇所にほそい鉄管を入れて置く、そこから煙が出る。最後は、トタン板の上に泥をかぶせ、ゴミ捨て場から使い古しの畳を拾ってきて、上に乗せて作業は終了。穴の中は高温になり、石炭は蒸される(乾留)ことになる。そのまま放置して、2人は帰宅。

 翌朝学校の午前中の授業が終了後、2人は急いで河原に出かけ、畳やトタン板を剥がし、穴の中を見た。見事な石炭ガラが出来上がっていた。要するに、石炭を高温で蒸して、石炭のコールタール部分を除去するだけの話。それを1個ずつ掘り出し、友人の家から持ってきた荷物車に載せる。時間がないので、力の強い友人が荷車を引き、私は後から押して、いざ先生の家へ。

 先生の話では、町外れの1本道を内山田の方に少し登ればすぐだと聞いていた。車が通れるくらいの道幅はあった。道沿いにどんどん進んだ。とにかく早く先生の家に着いて、奥様にお渡して、早急に学校へ。ところが先生の言葉と異なり、初めての場所のせいもあってか、行けども行けども、先生の家が見えない。以前、スモモの実を摘みに来た地点をとっくに過ぎている。そこからは上に行ったことがない、時計を見ると、もう1時過ぎ。午後の1時間目の授業は始まっている。気は焦るが、坂道はつづら折りになって、上に向かっている。石炭ガラを山ほど積んで、坂道を上がるのだ。2人とも完全に汗だくで、息切れしていた。

 それから暫く登ると、道沿いで川の横に1軒の家があり、表札に先生の名前が。玄関の扉を叩くと、奥様が出てこられ、2人が荷車に石炭ガラを乗せて来ているので、仰天された。「まあ家に入って、お茶でも1杯飲んで行きなさい」といわれた。お茶を断ると、石炭ガラを家の横の物置に入れるや否や、すぐ帰途についた。背中に「今度はゆっくりおいでくださいね」という言葉。

 荷物を届けた安心感、軽くなった荷車、そして、下りの坂道、炭鉱町に戻り、まず仲間の家に寄り、荷車を置き、一目散で学校へ。学校へ戻った時は、午後の2時間目の最中であった。教室の後ろの扉をそっと開けて、2人ともそろそろと這って室内に入った。先生は黒板に何か書かれていた。2人が自分の席にそろりと座った時は、汗が流れ出たように思う。幸いなことに、先生は気が付かれなかったのか、授業が終わると、さっさと出て行かれた。授業が終わった時、仲間たちにサボった理由を話した。皆笑った。「予想外に遠かったな-」などと呑気に話していると、普段男子生徒にはそっぽを向いている女子学生も笑っている。ちょっと可愛い子がいたので、拙いなとは思ったが・・・。私と友人が2時間目も出てこないので、クラス全員が心配していた。2人ともカバンは机の横のカバン掛けにかけている。帰宅したのではなく、サボっているのは一目瞭然。

 今にして思えば、あのN先生も、まさか2人が石炭ガラを作って、家に届けるなんて夢にも思わないので、すぐ近くだよと軽く言われたのかもしれない。田舎の人は一般に距離が大まかだ。しかし、午後の授業の1時間目と2時間目の担任の先生が、一言も2人の不在を気にしなったのは不可解でもあった。狭い教室、2人がいなければ、すぐ気が付いたはずだ。ひょっとすると先生の奥様が電話で先生に、2人が荷車で石炭ガラを運んできて、今帰ったと報告したのではなかろうか。電話を受けたN先生、午後の2時間目の担当教師に2人の不在を説明して、大目に見てくれと頼んだのではないか。

 とまれ、2人の授業欠席は、表向きには事なきを得た。ばれたらいつものように、1発殴られるか、校長室で1時間ほど立たされる。じっと立っているだけだが、子供ながら結構疲れる。

 ここまでは、先生の家に石炭ガラを届けて、授業に間に合わなかった「マヌケな2人」で済んだはずだ。計画性のある生徒なら、土曜日に炭粉を川底から掘り上げて、土曜夜蒸して、日曜日の午後に出来上がった石炭ガラを掘り出し、鼻歌でも歌いながら荷車を押して、先生の家に行くだろう。お茶やお団子などをご馳走になったかもしれない。子供の頃から、われながら計画性のない性分にはお手上げだ。

 ところが、なんと卒業式も間近になったある日、由々しきことが起きた。それも、希望する高校への進学も決まって、ルンルンの時である。担任の先生がホームルームの時間に、今年度の卒業生の中で、この教室から2人の受賞者が決まったと話をされた。まず、成績優秀・出席皆勤によりY君に<町長賞>が授与される。Y君が前に呼ばれ、先生から賞状を渡された。確かに、Y君はよく出来たし、休んだこともない。全員納得であった。次に、成績優秀・出席精勤者として、岡部君が〈教育委員会委員長賞>に選ばれたと言われた。岡部と呼ばれたので先生の前に出た。心臓が止まるかと思った。なんで私が、こんな賞をもらうのかだ。顔面から火花が出る思いで、賞状を受け取った。自分の席に戻る途中、生徒の1人が「岡部はサボったよなー」と小声で言った。強烈なボディを1発食らった感じで、能天気な私も一瞬ふらりとした。中古ピアノ購入の広告にあるように、まさに、<ソノトーリ!>であった。私のサボりは全員がご存知!卒業式では、教員、卒業生全員の前で、名前を読みあげられ、前に1歩出た。仲間の言葉がなければ、「ヘヘヘ」と悦に入って胸を張っていたかも。以後、その賞を貰ったことには一切触れる事はなかった。

 後日談がある。高校2年の春だったか、中学時代のクラス会が開かれた。桂川町のどこかで会合。仲間と2人で担任の先生の案内役になった。先生は当時隣町の炭住街に住んでおられた。と言っても、先生の2号さんの家であった。「お迎えに来ました」というと、優しい女性で先生に1万円を渡して、持っていくようといった。先生のお供で会場に向かう途中、先生はタバコ屋でタバコを買った。会場で、先生から金一封を頂いたが、中は5千円であった。仲間には減額のことは言わなかった。

 会場までの途次、「君は卒業の時に賞を貰ったが、職員会議では、ある先生が君を押した。『岡部の成績は飛び抜けているわけでない。しかし、彼の将来性に期待して、激励の意味で賞をあげたらどうか』と提案したそうだ。校長及び他の先生も同意され、決まった。筑豊では名門の高校には合格できたが、成績優秀で受賞したのではない、激励賞だった。

 今にして思えば、中学3年の春頃、H先生の自宅で個人指導を受けた。もう1人女子学生がいた。ある秋のこと、その先生宅の柿取りのお手伝いを頼まれた。午後から始めて2本の大きな柿の木に登って、先が2股に避けた竹の棒で全部もぎ取った。竹籠2杯分あった。お礼に柿3個もらって先生の家を辞した時、外はとっぷり暮れていた。柿取りくらいで、「こいつは将来が期待できるぞ」とは思えないが(笑)。我ながら何の取り柄もない平凡な生徒で、時々悪戯して気の短い先生に殴られたものだ。

 自分自身が何とも理解できていない中学時代に、先を案じて推薦してくれた先生がおられたことには感謝に絶えない。以後、高校、大学、大学院に進学し、何かと後押ししていただける先生に出会ったのは僥倖であった。教育委員会から賞をもらったせいか、いつの間にか教師になっていた(笑)。とまれ、私の中学時代は典型的な「筑豊の子供たち」の1人であった。

 

備考:相棒のH(細川擁仁)君は中学を卒業後、飯塚の商業高校に進学、柔道部に入り、部長となり、卒後福岡県警(機動隊)に就職。柔道で全国制覇を成し遂げた。炭鉱の多目的ホールで一緒に始めた柔道であったが頭角を現した。跳ね越しは見事な技であった。福岡市内で彼と歩いていると、パトロール中の警察官は全員彼に敬礼する。警察学校の柔道の先生をしていた。

                           

                                                      

 

 

 

先日熊本に出かけた時、ある女性と40年ぶりに会った。女性と言っても、もう70歳を越えられた方で、家を出る時、お孫さんに、「お婆ちゃんと会いたい人って、どんな人?」と聞かれたとか。以下、そのお婆ちゃんの回想である。

—もう50年くらい前のことだがね、私がお前と同じように、小学校の生徒だった。その当時私は、日曜日には、水道町の教会にでかけ、教会学校で、聖書を習っていた。その時の担任の先生は、大学1年生で、髪も黒々として、若々しい先生だった。教会が終わると、宿題を教えてもらい、クラスの仲間と一緒に金峰山に連れて言ってもらった。峠の茶屋で、一休みして、それから山に登ったものさ。クリスマスがきたら、十字架のついたネックレスを私たち生徒にプレゼントしてくれた。私は、今でも大事に持って、時どき、取り出して眺めているよ。先生は大学を卒業後、東京へ行かれ、大学院生になっていた。それで、私が中学の修学旅行で、東京に行くとハガキを書いたら、「待っている」と返事をもらった。私のお母さんが、学校に面会の許可をお願いした。先生が迎えに来たとき、私は、お風呂に入っていたが、大急ぎで、着替えて、宿の玄関に行くと、先生が待っておられた。担任の先生の許可をもらって、外出した。先生は、私を日劇の「江利チエミショー」に連れて行ってくれた。当時、私は、チエミの大ファンだったので、感激だった。それから、私は高校を卒業して、化粧品会社に勤めて、阿蘇山の麓の町々で、化粧品を販売して回っていた。一度会社の研修で東京に出かけた時、先生に連絡すると、研修施設の近くのレストランで、再会した。先生は、大学の助手になっておられた。それから、私は、結婚して、お前のお母さんを産み、そしてお前が生まれた。先生とは、毎年年賀状を交換していた。この間先生から、ハガキがきて、「熊本に行くので、会いたい」と書いてあったので、すぐ、返事をして、「待っています」と言ったの。

 鶴屋デパートの前で、待ち合わせたが、先生は、髪は真っ白になっておられたが、お元気そうだった。お城の見える料亭を予約されて、ご馳走になった。一緒に写真も撮ったが、お婆ちゃんはとても嬉しかったね。・・・

 この話を聞いて、皆さんの中に、映画「シザーハンド」を思い出した人はいませんか。そうあの映画の冒頭で、雪の降る夜、祖母が、孫娘に、遠い昔の話しを聞かせている場面を。おばあちゃんは若く、素敵な恋人がいた。その人は人間ではなく、手がハサミになっているロボットであった。最後にそのロボットは自分を作った悪い人と戦い、崖から落ちて死んでしまった。 

 筆者である私も熊本を去ってから、幾星霜が経ち、学生時代に会った小学生を思い出し、いつか会いたいと思っていた。手カバンから、取り出された古色蒼然としたネックレス、日劇のチエミショーは、完全に忘れ去っていたが、辛うじて、旅館の玄関で、担当の先生から「よろしくお願いします」と言われたことは思い出すことができた。今回、その人から、熊本特産の見事なスイカが送られてきた。大玉で2個、家族で、毎日食べた。ちなみに、その女性の家も、地震で被害を受け、1階で今家族5人が暮らしていて、2階は取り壊す予定で、順番を待っているとか。

 龍之介の「トロッコ」のように書けば、「筆者は一線を退き、マンションの10階で、パソコンを叩いている。が、どうかすると、全然何の理由もないのに、「峠の茶屋」で休んでいた時の風景を懐かしく思い出すことがある」。・・・

 

 先日、大学時代の友人4人が事務所に来室して、ワインや焼酎を飲みながら、団らんの一時を持った。いつもは、デパートの食品売り場で購入した焼き鳥などを酒の肴にしていた。今回は、焼き肉専用の電気なべを買って来て、ベランダで焼き肉をした。家で、焼き肉をした経験はない。

 

 何をどうすればよいのか不明なので、小学校時代の同級生で、料理家の清水信子さんに、メールで、何か示唆をと頼んだ。すぐ電話がかかって来た。人間、声の調子などは生まれて以来そう変わるものじゃないなと思った。明るく、高く、弾んだ声で、あれこれ教えてくれた。肉の他に、トマト、ニンニクを焼く事も聞いたので、これらの野菜を買ってきて焼いてみた。始めて食べる「焼きトマト」の絶妙な味に、感心した。親しい専門家がいれば、どの分野でも聞くに限る。

 

 彼女と会ったのは、杉並区にある堀之内小学校3年生の頃で、何故か6年まで、組み替えもなく、ずっと一緒であった。学校から毎年あちこちに遠足に行った時の記念写真に、私も彼女も写っている。村山貯水池、江ノ島、鎌倉、高雄山、横浜—戦後間もない頃で、何となく、自分も仲間の着ている服も、今一であった。彼女は両家の子女であったのか、いつも、フランス人形のような服を着ていて可愛かった。

 

 渾名は「お新香」。私が彼女をからかい過ぎて、女性教師から、思い切り一発殴られたのは記憶の底で、まだ生きている。これトラウマに分類される現象ではないかと思うことがある。 

 

 その電話で、彼女が次にテレビに出演する日時を聞いた。宅急便で、番組の内容が載ったNHKテキスト「きょうの料理」が、送られてきた。いつも不思議に思うが、料理関係の雑誌の色鮮やかさには驚く。学会関係の雑誌で、これほどカラフルな物はない。お料理を撮影する時は、特別なレンズでも使用しているのかと思うくらい、綺麗である。もっとも、綺麗でなければ、食欲がわかないのは当然だが、それにしてもである。

 

 今朝、その番組の再放送を見た。昨年夏のクラス会以来で、お顔拝見であった。題は、「一人暮らしに華やぎをー秋の彩り炊き込みご飯」。ご主人を病気で亡くして以来25年間、料理一筋とプロフィルにあった。ひとつひとつのレシピーの作り方を丁寧に話されていた。美味しそうな卵焼きが、目立っていた。料理と話しを聞きながら、この人は、同世代ではあるが、まだ現役で研究していると思って、頭が下がった。もう「お新香」などと渾名で呼べることはできない。

 

 不図、ちあきなおみの「カモメの歌」(ちあき哲也詩)、が脳裏に流れた。「いろんな人が居たし、いろんな人が居なくなった。泣いてくれるのは、かもめと霧笛ばかり・・・あれこれとりとめもなく考えるのがわたしは好きなのさ、かもめよ、かもめよ、風邪等引くな・・・」。 信子先生、風邪などひかずに、さらに研究を進めて、和食の文化を極め、広げてください。きみは偉い!かつての悪僧坊主より。

世界大学ランキング(2016〜2017)を見て
 今年もまた、大学のランキングが発表された。色々な組織が、数種の評価基準で大学のランキングを決めている。基準には、「教育の質・学習環境」、「学生と教員の国際性」、「産学連携による収入」、「研究の質」、「論文被引用数」の5分野がある。今回は、英国のTHE(Times Higher Education)が選んだ大学ランキングについて所感を述べる。

 まず、世界大学ランキングであるが、1位はオクスフォード、2位はカリフォルニア工科、3位はスタンフォード、4位はケンブリッジ、5位はMIT、6位はハーバード、7位はプリンストン、8位はロンドン、9位はスイス連邦工科チューリッヒ校、10位はUCLAバークレイ校、・・・、 39位は東大、91位は京大であった。上位の大学に、歴史と伝統がある大学が多いのは納得であった。

 アジアでの大学ランキングでは、1位はシンガポール、2位は南洋理工(シンガポール)、3位は北京、4位は香港、5位は清華、6位は香港科技、7位は東大、8位は浦項工科(韓国)、9位はソウル、10位は韓国科学技術院であった。11位は京大。20位までに入った日本の大学は2校であった。かつて、東大が3年連続1位であったことを考えると、周辺諸国の実力が急速にアップしていることが分かる。

 歴史の浅い大学ですら、10位以内に入っている。つまり、猛烈に追い上げてきている。サイトマップの著者は、全体的に日本の大学は順位を落としている傾向にあると述べている。同じ著者は、日本の大学の低迷を一言で言うと、「大学の資金が諸外国と比べて少なく、海外との競争や国際化などで新たな価値を創造できていない。大半の大学が順位を落としている。
 
 あるコメンテーターは、日本の大学は他大学(特に海外の意か)とのcollaborationが少ないので、このままで行くと、つまり現状維持だと、どんどん他国の大学の後塵を拝することになるので要注意とあった。薬学に絞れば、collaborationで、研究業績が格段に上がったわが国の大学は寡聞にしてあまり聞かない。英語のハンディがあるので、国際交流がままならぬのかもしれないし、島国の所為かもしれない。あるいは200年に亘る鎖国の影響が深層にあって、トラウマになっているのかもしれない。

 もっとも、その200年で、日本独自の文化が開花したのは周知の事実だ。もちろん、攘夷!と叫んでいた人のDNAはとうの昔に消えている筈だが。言うまでもなく、海外とのcollaborationなくしても(?)、iPS細胞、オートファージー発見のような天才的な学者が出現する。しかし、大学単位でランキングが付けられると、優秀な教員の数が大事となるので、やはり学問業績を考慮すると、コメンテーターの言うように、各研究者がグローバルなcollaboration を実施することは必須であろう。

 自分も含めて、日本人は全部一貫して自分(研究室を含めて)1人で、何か成果を出そうとする傾向があるように感じる。わたしは、大学院生の時は、組織切片の作製に膨大な時間を使った。就職した薬大を退職し、2度目の勤務先のD女子大では、人材派遣会社からプロを雇用して、組織切片の作製は完全に任せた。実に見事な切片ができ、染色されていた。小さな話しだが、これでもcollaborationの大事さを実感した。

 過日の新聞報道にあったが、最近は海外への留学生が減少か、横ばいというデータがあるようだ。ある院生が、海外留学といっても、コネクションがないので、留学できないと発言していた。待てよ、コネクションは留学に必要であろうか。確かに、私が院生の頃、大学では先輩が留学した研究所に出かけるか、医学部の先生のコネで留学した先輩を知っている。専門が違う分野だったので、少し戸惑ったとか。しかし、私の場合は、留学を希望する大学の教授に手紙を書いて、了承してもらい、出かけた。

 別にコネクションがあった訳ではない。私の教授は、「別刷り請求のある人に手紙を書いたらどうかね」と示唆された。もっとも、全体として留学が本当に必要か否かは、私にも結論は出せない。が、私の長い研究生活を振り返れば、3年間の留学はプラスに作用していたことは間違いない。研究の実施方法、技術など、学問上で学ぶことは非常に多かった。国際学会にも、よく参加できた。

 しかし、留学の一番の成果は、沢山の友人、知人ができたことである。時が流れ、友人、知人が国際学会を開催すると、私を招待してくれた。そこでまた新しい友人ができた。定年退職後、アメリカのテキサス大学の教授との共同研究で1ヶ月間留学した。さらに、翌年、ノルウエーの友人との共同研究でトロンハイムに出かけて、1ヶ月間胃ガンマウスモデルを使用して実験できた。これが現役時代ならば、もっと長期に滞在し、研究を深められたと思ったことである。言いたい事は、留学により多くの友人ができ、その友人を通して最先端を行く世界の情勢が理解でき、自分の学問も伸ばす事ができたーという事である。

 「1〜2年間くらい留学したからと言って、大した事はないよ」と考える人には再考をうながしたい。海外の学者は、人を受け入れる時は、慎重だ。その人とcollaboration して研究を進めるのだ.留学生を受け入れる海外の学者は、よく人物をみている。眼鏡にかなえば、以後生涯まともに付き合ってくれるし、大規模なcollaboration にも応じてくれる。

 最近、黒川清先生(東大名誉教授)が、「規制の虜」(講談社)を出版された。その中に、「外から日本を見ることの大切さ」を強調しておられる。特に、〔独立した個人〕の資格で、海外に出ることを勧めておられる。独立した個人として1年でも2年でも外国にいると、自分の国を大きなフレームで感じ取る事ができ、日本のことが良くわかるーと書かれている。先生とは、ペン大への留学時代に知り合い、以来長い御付き合いを頂いている。先生は14年ほどアメリカに滞在され、帰国し、東大の教授になられた。それだけに、留学について発言する場合には、非常に含蓄がある。

 Collaborationに戻るが、確かに重要だと痛感した。外国の一流の研究者は、日常茶飯事のように、どこかとcollaboration をしている例が多い。ポーランドのクラコー大学(since1364)に出かけた時、生理の教授が、隣室の薬理学の教授を紹介してくれた。ヴェイン博士と共同でPGI2を発見した人とかであった。歓談のあと、実験室を案内して頂いた。広い実験室に、ある大きな装置が置いてあったが、スウェーデンの学者とのcollaborationで、彼らの実験方法を真似て製作したとか。

その先生は、週末はベンツに乗って、ヨーロッパ中の研究所の友人を頻繁に訪ねているとか言われていた。クラコーからロンドンまでは、いとも簡単に行けるとか。ドイツのアウトバーンでも使用すれば、どこへでも行けるのかもしれない。国際性の豊かな研究者だと感じて、圧倒された。

 過日、中国の北京で学会があり、参加した。時間があったので、麻黄が喘息に有効である事を発見した学者が所属していた北京協和医科大学へ出かけた。この医科大は、中國でも1、2位を争う名門とか聞いた。戦時中、北京原人を保管していた大学だ。博士の写真なり、銅像がある事を期待した。博士が麻黄の薬効を発見した研究室はまだ保存してあり、見学した。

現在は、学部学生の実習室となっていた。残念ながら、銅像も、当時の写真もなかった。案内して頂いた薬理の教授に、学生の卒業後の事を聞くと、学生は卒業後、全員アメリカに留学すると言われた。ロックフェラーが寄贈した大学なので、何か特別な奨学金でもあるのかもしれないが、この優秀な医学生が、アメリカでさらに研鑽して帰国したら、競争相手としては、お手上げだと思った。因みに、医学系のランキングでは、京大が47位、東大76位、阪大101位であった。この北京協和医科大学は150位以内にはまだ入っていないが、将来、入る可能性が高い。

 これから、日本の大学が海外の大学と勝負して、ランキングを上げるためには、資金の獲得はもちろんであるが、世界有数の大学の研究者とも常にcollaborationは大事だと思う。つまり、国際性を持つことである。最先端の学問を常に身近に置くべきであろう。そうしないと、成長著しい中国や韓国の学者に負けてしまうだろう。
 
 日本は小さな島国、1学徒として、学問レベルではせめてアジアではナンバーワンを狙えればと思う。そうすれば、世界ランキングも上昇するだろうし、アジア内で尊敬の念を持つ国が増え、つまるところ、アジアでの平和に貢献するのではないかと思う。ノルウエーは小さな国だが、国立ノルウエー科学技術大学のふたりの教授に、2年前のノーベル医学生理学賞が授与された。思わず、尊敬の念が湧いたのは私ばかりではなかろう。(2016年10月7日)
イタリア
シンガポール
北京協和医大
きよし
 大分前のことだが、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本が、ベストセラーになった。米国の作家ロバート・フルガム著で、本屋で立ち読みした程度であったが、今にして思うに、最近、思い当たることがあった。この作者は、「人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである」と喝破している。ちなみに、フルガムは大学院では神学を専攻している。

 そうかも知れない。大学院の5年間で人生の知恵などはあまり習った記憶はない。ひたすら与えられた研究テーマに邁進した。当時、人生=研究であった。知恵は科学的知識を発展させ、また磨いていた。

 わたしが保育園や幼稚園に通ったかもしれない1~5歳の時は、太平洋戦争の真最中で、また九州の片田舎であったので、保育園、幼稚園などという名のつく施設など皆無であった。園の待機児童ではなく、朝から晩まで、近くの小川で泥鰌が顔を出すのを待機し、追いかけていた。「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川」がわたしの保育園であり、また幼稚園であった。砂場もあったが、河原の天然の砂場であった。ひと泳ぎした後、甲羅干しするのに格好な場所であった。

したがって、気が付いた時は、いきなり小学校の1年生であった。気が付いたといっても、名前の書かれた鞄を貰って、遠い道のりを歩いている自分に気がついた程度であるが。

大学時代、教養課程で、ドイツ語を学んだが、「キンダーガーデン」という言葉を習った。この語が、幼稚園と意味するとわかって、なぜか、行けなかった幼稚園に憧憬の念を持った。過日、ドイツに出かけたとき、友人が「このごろドイツでは、少子化の影響で、近所の「キンダーガーデン」が閉鎖された」と聞いた。友人は小児科の医師であったので、思うところあったに違いない。友人に日本では閉鎖どころか、待機児童という言葉があると教えたら、驚くだろう。

 さて、初孫が保育園に通っている。1歳3ヶ月で、毎朝娘が三条大橋横の保育園に連れて行き、夕方迎えに行く。一度、娘に付き合って、保育園に出かけた。事務所から歩いて7分くらいで、賀茂川を渡ると直ぐだった。お寺の境内に一階建ての園舎があり、入り口から入ると、柵が設けられ、子供達は30畳ほどの中で、遊んでいた。

鍵をはずし、中に入ると、孫は嬉しそうに寄ってきたが、はいはい姿で、すぐ向こうに行った。中にいた子供が2人寄ってきて、わたしの服を触ったり、持っていた鞄を触ったりしていた。珍しいのだろう。3人の保育士さんの姿がみえた。 

 最近、娘が孫を迎えに行った時のことである。面白いエピソードを聞かせてくれた。娘の顔をみると、孫は柵のところに飛んできて、何やら叫んで、柵の下で泣き出したようだ。母の顔をみて、うれし涙であったのだろう。すると、横から女の子が来て、孫の頭を優しく撫でていたという。その後、娘が孫を抱き上げ、連れて帰ろうとすると、その女の子が、孫の私物を入れたビニール袋をどこからか持ってきて。渡してくれたという。

 娘は非常に驚いたと言った。小学生か、中学生ならばそれくらいはやるだろう。しかし、それをしたのが1歳児なので、仰天したと話した。よちよち歩きで、黙って、私の服を触るような子が、そこまでやるのだ。おもわず、宮沢賢治の詩が脳裏をよぎった。と同時に、この光景を賢治が見たら、きっと彼の詩に、以下のような一節を付け加えたであろう。
 ──泣いている子がいれば、傍に行って泣かなくていいよと頭をなで、 
  荷物を忘れた子がいるならば、取ってきて、はいと差し出す
  わたしはこんな子になりたい──と。
 1歳にして、この気配り。なんという優しい女の子であろうか。

今から20年経って、その子が成人し、女性となったとき、お目にかかりたいものだ。きっと内に優しさを充満した素敵な女性になっているだろう。三つ子の魂百までという言葉がある。2歳繰り上げて、一つ子の魂百までとなれば、その子の一生は、どんなに思いやりに溢れたものになるであろう。その園に砂場があったかどうかは分からぬ。仏教系の保育園なので、それなりのお話はあるだろう。

 私が、大学院に入り、先輩の推薦で千葉県の下総中山に下宿していたことがある。法華経寺の本山の1つの中山寺の前であった。その家主の孫娘が、2~3歳であり、近くの中山寺の幼稚園に通っていた。ある時、家主のところに来ていた孫娘と話していたとき、幼稚園ではどのようなことを教えて貰っているのかを訊いた。

孫は、「み仏様のおしえをまもり、おともだちとなかよくし、・・・」と訥々と話した。まるで、観音様が教えを垂れているような感じがした。もちろん、その幼稚園には、砂場もあるであろう。そこで、泥だらけで遊ぶこともあろう。おとなしそうな子であったが、時にはおてんばすることもあろう。そのとき、わたしは24歳であったが、その子のはなしに胸を打たれたのを憶えている。


 今回話題にした1歳の女の子と、千葉の下宿の孫娘の話しを纏めると、幼稚園には行きたかったと痛感した。1-5歳で学んだことは、終世忘れ得ぬであろうし、ことの善悪なども、先生の教えを受けて、身にしみて憶えたであろう。今の自分よりも、もっと周りの人に優しく、また思いやり深い人間になれたのではなかろうか。

物心がつく遥か前の日々の教えは、柔らかい頭に稀釈をされずにスッーと入って、知恵を形成したに違いない。小学校から大学院までの教育を受けたが、人生の知恵の取得に関しては、我が学歴に幼稚園時代がないことを残念におもうし、自分の精神面に欠けた部分があるような気がして、フルガム先生が羨ましい。ちなみに、その孫娘の父親は中山競馬の騎手で、1度優勝したことがあるとか聞いた。

ようちえん
 先日、友人たちを誘って、京都市左京区仁王門通りにある寂光寺を訪ねた。この寺には既に5度参拝に来ているが、菩提寺ではない。今回は、友人たちにこの寺を有名にした本因坊の事績を紹介するためだ。一人は、碁の愛好家であるので、特に案内したかった。寺の山門脇には「碁道名人第一世本因坊算砂旧跡」と書いた大きな石碑が立っている。

 そう、この寺は、かつて碁の初代家元、本因坊算砂(さんさ)が住んでいた寺である。と言っても、寂光寺は以前、中京区の寺町通竹屋町にあった。聚楽第建設に際して、秀吉の命により、鴨川東側の現在地に移転されたものだ。  

 お墓 
(京都寂光寺、本因坊算砂の墓) 

 本堂前の広い中庭を通り、奥の一角にある墓所で参拝した。すこし苔生していたが、立派な墓があり、僧日海、一般には、本因坊算砂と呼ばれる僧が眠っていた。その後、本堂前の白い砂利石を敷いた庭に出ると、友人たちは寺内のあちこちを興味深く見学していた。私は、本堂脇にある高札の説明文を読んでいた。                   

 その時、何処からともなく、声が聞こえて来た。低い声で、私に話しかけているようで、慌てて、周りを見渡したが、人影はなかった。しわぶきも聞かれたので、高齢者かもしれない。
 
「お宅さん、わしは本因坊算砂じゃよ、わしの墓に何度も参拝してくれるが、ご好意に感謝しているよ。先日は、大学のもと学生という若い女性を3人連れて来られたな。住職が本堂を案内したが、生憎とお宅も、女性たちも碁は出来ないと話された。わしの名前の本因坊に敬意を表しに来たとか。これも何かの縁、時間があったら、碁も習って下さいな」

山門3人さん
(寂光寺山門にて)

「今日は、友人たちを連れて来てくれて、有り難う。お一人は、碁の趣味があるとかで、腕も良いらしいね。一局でも、対局してあげたいものだが、なにしろ、わしは腕も、指もないので、碁石が持てずに、残念じゃ」と言って、フフフと笑った。

 「ところで、最近、お宅たちを含めて、ここに来る人たちの話をそれとなく聞いていると、朝鮮(現在は韓国というようじゃな)の碁の名人と南蛮人の作製した電気仕掛けの「からくり人形」で碁の勝負をしたら、何と、「からくり人形」が4勝1敗で、圧勝したとか。えらい人形が出来たもんじゃて。直接観戦していないので、詳細は不明だが、どういう棋譜であったのか、興味深々じゃよ」

 「わしは織田信長公から、碁の名人という称号を頂いたし、生前の碁の試合では、連戦連勝で、負けたことはない。自慢ではないが、秀吉公主催の試合では、わしは圧倒的な強さで勝ち、公からご褒美を頂いた。家康公からは、江戸に招かれ、碁の家元を拝命し、20石、10人扶持の録を頂いた。あの宮本武蔵が、細川藩に客分として採用された時は、堪忍袋の5人扶持(18石、7人扶持)だったそうだ。どうも、命がけのチャンバラよりも碁石パチりの方が、給料は少し高いことがわかって驚いたよ。とまれ、「からくり人形」如きに負けるはずはないよ。所詮、人の作った人形など、多寡が知れているわ」.

中庭
(寂光寺中庭にて)

 「そりゃ、今世界で一番強いと言われる韓国の名人が4敗したからには、わしも、全勝出来るとはよう言わないが、そう易々とは負けまいて。いずれ、わしの一門で、不世出の天才と言われた道策や秀策が出てきたら、「からくり人形」など一勝も出来んじゃろう。ふたりとからくり人形の対決は見たいもんだて」

「人形というのは、顔に表情が出ないので、相手の心の内が見られないので、韓国の名人も碁石だけで、勝負を進めたのじゃろう。人形の顔に表情が出れば、この名人と人形の試合は面白くなりそうじゃ。碁は、対局者の顔や姿や、間を見ながら、その心理状態を斟酌して、碁石を打たないと、勝てないというのがわしの経験じゃ」

「なにぃ?そのからくり人形は自分で学習して、過去の棋譜を全部暗記して、その上で、さらに、独自の碁を作り出すのか?「深層学習」と言うのか。わしにはさっぱり分からんが、人形が比叡山で、千日修行でもして、悟りを得るようなものかね。その「からくり人形」は夜も寝ないで、学習出来るのか?何ということだ!ウーン、それでは次の試合では、その韓国の名人は1勝も出来なくて、全敗する可能性があるな──」

本堂
(本堂内にて、この場所で本因坊戦が実施された)


「人形が、自ら学習能力をもって、進化するとすれば、ちと恐ろしいことになりそうだな。その学習能力の早さが桁外れとすれば、人間の智力を凌駕するのは時間の問題だろう。となると、我々人間とは全く異なる次元の手を打つ可能性がある」

 「まあ、しかし、今の話は碁の話だ。趣味の話で、勝つても負けても別にどうということではない。わしは、碁の名人で、家元だなどと言われているが、あくまで余技で、本職は寺の僧侶だ。仏の教えを守り、法華教を広めるのが、役目だ。敢えていえば、そんな南蛮製の「からくり人形」を真正面に相手にしないで、別の和製の「からくり人形」を考案して、人形同士で碁を戦わせたらいい。飛騨の高山では、精巧な「からくり人形」を作っているが、あそこに依頼して、碁のできる新しい人形を作ればいいだろう」。お宅も理解できるだろうが、わしと馬がかけっこをして、わしが馬に勝てると思うかね。そんな話じゃないかな」

 「ただ、この噂話を聞いて以来、わしが心配しているのは、この「からくり人形」の頭が、碁ではなく、別なこと、はっきり言って、実戦の場に応用されると、大変なことになると案じているよ。そうだろう、我が国の今までの戦を全部、記憶して、それをもとに、日本全土を碁盤に見立て、新しい戦略を立てられたら、戦の天才と言われる武田信玄や、信長公、秀吉公も、そして家康公も、連戦連敗かもしれない。真田丸なども、鎧触一蹴されるだろう」

 「となると、「からくり人形」を操る人、あるいは「人形」自身が、天下を取ることは大いに可能だ。壬申の乱、源平の戦、応仁の乱、桶狭間の戦い、長篠の戦いなどの実践の詳細と関与した人物の心理などを理解、記憶されたら、その人形を軍帥とした武将は、群雄割拠の時代を終結し、あっと言う間に、天下を統一するだろうな。だれが勝残るかは知らんが、信玄が、その人形を手に入れたら、もっと早く瀬田の唐橋に風林火山の旗が翻っていたかもしれない」

 「信玄には残念ながら、京都へ一足先に上洛してきたのは、信長公であった。征夷大将軍となり、天下に号令を掛けるのは、もう時間の問題であった。公の旗印の「天下布武」が成り立つ寸前であった」。

本能寺
(寺町通りから見た本能寺、寺内には、信長の墓所、蘭丸等本能寺で殺害された部下の墓がある)

 「──信長公といえば、天正10年6月1日、つまり、あの「本能寺の変」が起きる前日の夕刻にわしは公とお会いした。その日の午前中は、宿泊先である本能寺に、信長公は、親交のある殿上人や博多の豪商を招き、書院で茶会を開いた。安土から、多数の名器を持参されて、茶を振る舞われた。後日、本能寺の僧侶に聞いたが、公は上機嫌で、数日後には、中国・四国方面へ戦に出るという緊張感など全くなく、戦ごとの話しも皆無であったとか」

 「わしが21歳の頃、信長公が寂光寺に来られて、碁のお相手を依頼されたことがある。公の手は拙い方ではなかった。わしの碁を打つ手には、ひどく感心しておられた。
その時、信長公が帰宅される時、寺の山門前で、お見送りしたが、広い寂光寺の周辺は、信長公の馬廻り衆や、弓衆などががっちり固めていた。馬廻りの侍は、みな大男で、長い斬馬刀を背負っていた。騎馬の相手が乗っている馬を切る刀でな、普通の人には持てないような大刀であった。そりゃ、猫の子一匹入る隙間もないくらい、厳重な警護であったよ」

 「しかし、あの日昼前に本能寺に呼ばれたが、寺の周囲の護衛が殆どいないのを見て、驚いたものだ。以前とは大違いだった。もっとも、本能寺には、空掘や土塁も築いてあって、防備は確かなので、護衛も軽くされたのかもしれない。それにしてもだ、いまや世間の注目の的となっている信長公の周辺に、護衛兵が少ないのには合点がいかなかった」

信長はか
(本能寺内の織田信長の墓所)

 「ご存知かと思うが、当時信長公の命を狙うものは、各地にごまんといた。武田や浅井、朝倉の残党、石山本願寺の門徒、叡山の焼き討ちを逃れた僧兵、各地の武将達、信長公に僅かな隙でもできたら、命を狙って襲ってくるはずじゃ。信長公は、戦の世の常とはいえ、武将や軍兵だけでなく、無辜の民に至るまで、随分と惨いことをされたのはわしの耳にも入っている。伊勢長島では、2万の人々が焼き殺されている」

 「あの日、わしは本能寺の別室で鹿塩利賢と対局していた。信忠公が宿舎に帰還されたあと、信長公はわしらの対局を観戦された。すこし酒臭い息であったし、また頬は紅潮していた。碁は順調に進んでいたが、なんと三劫が出来て勝負がつかなくなった」

「お宅は碁を打たないということで、劫のことは知らないと思うが、劫とは要するに1子をめぐる石の取り合いのことじゃ。劫が生じたら、囲碁のルールで、すぐに取り返すことはできないので、何処か別のところに打ち(これを劫立てという) 、そこを相手に受けてもらってから取り返すのじゃが、これが3箇所にできると、1子の取り合いが永遠に続き、勝負がつかなくなる。これが「三劫無勝負」と言われるものじゃが、こんなことは滅多に起こるものではない。わしと利賢は不吉だと思ったが、公には黙っていたよ」

 「しかし、わしらの顔に出た不安感と、碁石の動きが止まったのを観て、信長公は、酔いも冷めて、不安そうに、碁盤をじっと観ておられた。わしが、この碁は1子の取り合いが長く続く、と言うと、信長公の顔色は青白くなった」

「公は、その瞬間、我が身と信忠公の置かれている状況に、気が付いたのではなかろうか。常に身の回りを守ってくれている剛力な馬廻り衆や軍兵がいない。今夜は20人くらいの小姓と数名の侍だけだ。馬廻り衆は、知行地に返し、5日に本能寺に集合し、光秀の軍勢の後を追うことになっている。相手が誰にせよ、今囲まれたらおしまいだ。茶会に気をとられ過ぎたことに気がつかれたーと思う」

 「傍にいた小姓に、蘭丸を呼べと大声で言われた。蘭丸が来ると、なにやら小声で話していた。用件を聞くなり、蘭丸はただちに、急ぎ足で外へ出た。信忠に連絡を入れたものと思えるが、時すでに遅すぎたようであった。光秀の軍勢は老の坂に向かっていた」

 「碁は3番打ったが、もう真夜中になっていた。わしと利賢は本能寺を出て、それぞれの家に帰宅した。本堂の入り口にいた宿直の侍達が、数名、門前で見送ってくれた。来た時と同様に、山門近くの松明の明かりの傍に立つ護衛の兵士の姿は疎らであった。寂光寺に着くと、わしはすぐ寝所に入って、横になった。緊張していた所為か、眠れず、微睡んでいた」

 「暫くすると、町で何事かが起きたようで、寄せ貝、陣鉦、押し太鼓の音、大勢の人の喚声が上がり、軍馬のいななきが静かな京の空に響きわたった。回廊に出て外を見ると、先ほどまでいた本能寺と二条御所から、紅蓮の炎が上がっていた」 

 「寺の若僧が出かけて、様子を見てくると、桔梗の紋入りの旗印から、明智光秀の軍勢が、主君信長公に謀反を起こしたことが判明した。信長公の周りに、無敵の馬廻り衆、軍兵がいないことを知っていたのは、諸国の敵よりも、味方の光秀であったのだろう。蘭丸兄弟などの奮戦も空しく、1万3千の大軍に攻撃されて、勝負はすぐついた。信長公は自害し、火を放って、自らの体を焼いた」

 「わしは、前夜の手薄な本能寺の様子を察知したので、信長公に、至急大津へでも退去し、安土に飛脚を飛ばして、応援の兵を待っように進言すればよかった。さすれば、お命は助かった可能性がある。わしは、後悔している。碁をしながら、1子先が読めなく、破れたような気分であった。「からくり人形」にでも問えば、答えは、即座に出て、「信長公は本能寺から脱出せよ」と、出たのではなかろうか。もっとも、わしなど一介の若い僧侶が、信長公に、身の危険を提言するなど笑止千万で、取り合ってもくれなかったであろうがのう。公は敵に襲われるなど、夢にも思っていなかった筈だ」

 「もちろん、信長公は引く事を知っておられる。かつて、娘婿の浅井長政が反旗を翻したとき、朝倉との戦いを止め、ただちに安土に逃げ帰っている」

 「近い将来、新式の強力な火縄銃を駆使できる「からくり人形」が発明されたら、そして、その発明者が世界地図を見ながら、覇権を狙うとすれば、あるいは人形自身が、地球を征服すると仮定すれば、あと20~30年後には、地球の運命は大きく変わるじゃろう。詰まらん話をしたが、春の日の陽炎の言葉とでも思って、忘れておくれ。また碁の好きな友達をここに連れて来て、碁の話しでもいいし、「からくり人形」の話しでもして下さい。待っていますよ」

 「そろそろ行かないか?」という友人の声で、我に返った。白日夢でもいい、本因坊算砂と話しができれば、と思いながら、仲間と一緒に寺を後にした。(終)


備考:本因坊算砂(1559-623、64歳)、織田信長(1534-82、49歳)、宮本武蔵(1584-645、61歳)。碁の知識は、畏友福島宏氏にご教示頂いた。過日、住職大川定信氏に、元学生達と一緒に寂光寺本堂内を案内して頂いた。記して感謝。




昨日(4/4)は、桜見物に出かけた。御池通りをまっすぐ東山に向かって歩くと、事務所から7分ほどで、木屋町に着く。高瀬川に沿って、すこし上ると、見事な桜が咲いていた。毎年、春になるとここにきて、川に係留した高瀬舟と酒樽をみる。

窓の桜

 写真を取ったが、「年々歳々花相い似たり 歳々年々、人同じからず」を想い出した。たしかに、「人同じからず」で、京都は今ものすごい数の異邦人だ。爆買いならぬ、爆訪である。とくに桜の季節沢山の人が来ている。内藤先生が、フェースブックに、「京都に来ないでください。いま外国人で一杯です」と警告を出すくらいだ。
 
 いつぞやは、通りを歩いていると、横の外国人夫妻と子供の会話が聞けた。ドイツ語で話しているので、てっきりドイツ人家族を思い、話かけた。もちろん英語である。ドイツ語は聞けば、ドイツ語と直ぐ判る程度だ。大学の教養で、第2外国語として、ドイツ語を選択して、die, der, dasと憶えたのが、もう半世紀前だ。そのときも、専らシュニッラーの作品などを習ったが、会話はなかった。

ブライスさん

 残念ながら、ドイツからではなく、オーストリア人で、ウィーンから来られたとかであった。夫人の方が、積極的に話してくれた。京都は素晴らしいとのことであった。二回目の観光とかであった。ご主人は若いが、不動産会社の社長とかであった。ホテルではなく、旅館に宿泊しているらしく、高倉通りで、お別れした。

 ウィーンには学会で4回ほど訪ねた。ある時は、専攻分野で、同じ分野の研究をしている人がウィーン大学の外科の教授をしているので、訪ねた。生憎と教授会とかで、暫く研究室で、実験でも観ていて欲しいとのことで、若い研究者が2人を紹介してくれた。どちらも医師で、就職先が見つかるまでは、研究しているとか話していた。

桜1

 驚いたことに、この大学の1学年の学生数は700人と聞いた。日本の約7倍だ、こんなに沢山の学生をどのように教育するのだろうかと首を傾げた。単純に計算しても、700x6=4200人の医学生が在学していることになる。1学年の学生を一度に講義すると、コンサートホールなみの教室がいると思った。

高瀬川

 講義の受講は問題ないが、臨床実習が出来なくて、順番待ちとかであった。医師の数が溢れる筈で、就職が困難なのは判るが、EUとなっているので、ヨーロッパは、希望すれば、どの国でも、医師として、働ける。2~3時間待っている間に、世界最初に胃ガンの手術に成功したテオドール・ビルロートの銅像などを見学した。私の友人の先輩教授である。

 その夜は、教授夫妻の案内で、町の中を見学し、あるレストランで夕食をご馳走になった。多種類のチーズとソーセージが置いてあった。ベートーヴェンがよく来たレストランと聞いた。彼の住居の近くであった。別の機会に、ベートーヴェンのお墓もお参りしてきた。墓の直ぐ後ろにドングリが落ちていたので、拾って、お土産にした。

 今から買い物に出かけるが、100円ショップにも、外国人が来て、購入している。1ドルショップだ。あちらにもあるのだろう。

 折角だから、桜の写真をアップする。高瀬川の傍の桜です。かつては、新撰組の隊士達も、市中見回りに際しては、夜桜を見学したのであろう。

ピザの店



1: ある金曜日の夕方、一日の実験が終了したので、研究室の扉を閉めて、町に出た。久しぶりに、町で飲もうということになった。純大に今から皆で町に飲みに行くが、どうするかと聞くと、一緒に行くという。お母さんにその旨伝えておくように言った。大学のあるマノアからワイキキまでバスで約10分。シェラトンワイキキホテルの一階の奥にある、海とプールの傍にあるバーに向かった。

 テーブルが1つ空いていたので、椅子を集めて、のんびりと雑談した。皆それぞれ好きなカクテルを注文した。私は、ブルーハワイを注文し、純大は、オレンジジュースを注文した。ナッツが置かれたので、それを摘みながら、私は小さな傘のようじの刺さったサクランボ?が乗ったグラスのカクテルを、飲んだ。純大の飲み物にも、傘のようじがオレンジの切れ端に刺さっていた。もちろん、オレンジを絞った本物のジュースだ。

1

 ハワイ独特の見事な色の夕陽が沈み、次第に空が暗くなった。暫くすると、プールも閉められ、人影がなくなった。海からは微風が吹いて、横では生バンドが賑やかに演奏していた。踊っている人たちもいた。みなハワイの夜を満喫していた。

 コールリッジの詩のように、「陽の欠片が落ち、一挙に星が輝き、またたくまに闇がやってきた」であった。1週間の実験の緊張がほぐれて、順大も含めて、皆ほっこりしていた。ウサギの脳の血管を取り出し、装置に固定するまでは、緊張する。途中で血管が切れたら、一日が終わる、というか、一日が無駄になる。

 1時間半ほど、雑談をした後、お開きになった。阪大生3人と私と純大の5人で、ビルには100ドル少しであったので、おおまかに5で割って、1人20ドルの分担で了承された。チップは年長の私が置いた。純大からも20ドル集めた。ウェイターが支払いをレジに届けた後、彼はぽつりと、「ジュース1杯20ドルかぁ」と言った。

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 どきりとした。こういう飲み会の時では、通例会計は割り勘と相場が決まっているので、単純に割ったのだが、純大はオレンジジュースだった。カクテルよりは安い筈だ。普通のお店では、紙コップ入りのジュースは、せいぜい3~5ドルだ。そう言われて、20ドルは拙いなと思ったが、皆は席を立ったので、そのままにしていた。あとで、皆で飲む時は、飲まない人でも、追加注文した人でも、同額を払うのが普通と説明しながらも、忸怩たるものを感じた。

 その時は、2杯目を注文して飲んだ人がいたように記憶する。話の中には、研究室での教授の話、助手の話もあり、純大も、会話に参加していた。つまり、その日のコンパの一員だ。しかし、子供に割り勘の説明が理解できるか否かは、不明で、弱ってしまった。結局20ドルは払って貰ったままであった。それに、こちらも、カクテルを飲んでいい気分。

 単順に考えて、子供心には、1杯20ドルのオレンジは高かったのだろうなと思った。場所代も彼の勘定には入ってはいないだろう。家に帰って、「お母さん、皆さんとホテルのバーに行ったけど、ジュース1杯20ドルだった」と言われたら、どうしょうと冷や汗が出る思いだった。誠に、気が回らぬことであったと今でも、あのオレンジを想い出すと、「すまん」と思うことしきりである。

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 先日の式では、純大は注がれた酒をごくごく飲んでいた。いつの間にやら、酒が飲めるようになったようだ。かなり強いと感じた。いつの日にか、純大に、「無法松の一生」のリメイク版に出演して、あの松五郎を演じてもらいたいと夢見ている。酒を飲んで酩酊するくらいの男でなければ、あの松五郎になるのは、難しいだろう。坂妻の松五郎は、秀逸であった。彼は酒を飲み、祇園で遊びまくっていたと聞く。その人となりが、あの役を見事に演じて、万雷の拍手と涙を勝ち得たのであろう。

2: 彼が大学生のころ、偶々ヒルトンワイキキホテルの中庭にある和食店で会ったことがある。純大は、そのすぐ前には三船敏郎氏とお茶を飲んでいたとかであった。食事の後で、2階のカラオケ店に行き、歌を歌った。S教授夫人、研究生、彼と彼の妹と私、私の娘の計6人で、歌った。私が憶えたばかりの高倉健の「時代遅れの酒場」を歌った後、純大からコメントを貰った。

 「先生の歌は、歌うというより、話している感じですね」。「かもね、じゃ、純大も歌えよ、ビートルズの「イェスタデー」を知ってるか?それと、お父さんのヒット曲、「すきま風」を歌ってよ」。さすがに米国の大学に通っているだけあって、ネイテイブのように、「イエスタデー」を実に綺麗な発音で、歌った。見事であった。

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 他の席には、一人の中年の男性がいて、我々と交互に歌っていた。専ら、「兄弟舟」「兄弟仁義」の類の男っぽい歌であった。なんと「すきま風」も歌っていた。やけ酒でも飲んでいるような調子で歌うので、聞く方がしんどかった。

 純大の妹(真由美さん)の番になった。一般にこういう時は、恥ずかしいとか言って、パスするかと思ったら、なんとマイクを握って、最近の流行歌を颯爽と唄いだした。これまた兄同様に歌が上手いので、唖然とした。遺伝だろうか。

 先日の結婚式で、純大に「イエスタデー」を歌ってくれと電話で頼んだが、歌う人は他にいますからと言っていた。敢えて歌うように頼むと、「そうですね、考えときます」と言った。事実、ある有名な女性歌手が、歌を披露した後、「純大さんも歌は上手なので、いつか聞かせて欲しい」と言っていた。司会者がフォローしなかったので、純大の歌は聞かれなかった。時間もなかったのであろう。自分の息子が歌う「すきま風」を聞いたら、杉氏は、驚くに違いない。

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3:  純大が本「命のビザを繋いだ男」(NHK出版)を出した。一冊贈呈された。表紙裏には、岡部先生へ Jundai Yamadaと署名してあった。一読して、また挿入された数々の写真を観て、かつて一緒に遊んだ少年が、成長して、此の様な優れた本を一冊上梓したことに感銘を受けた。改めて、昔のアルバムを見ていたら、彼と妹さんたちが、S教授の自宅で、先生の奥様の裁縫用のクジラ尺を持って、チャンバラゴッコをした後の写真があった。

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 今太秦に缶詰されて、撮影中のようだが、一息入れたら、また何かよいテーマを見つけて、本を書くと良いが。粗稿が出来たら、大学で心理学を学んだ夫人にも一読して貰って、文章を推敲して頂けるだろう。純大および夫人の今後のご発展を楽しみにしている。

追記: このハワイの研究室で、動物の血管標本を使用に慣れたので、帰国後、秋の学部学生実習では、従来の小腸の摘出標本に加えて、血管標本も使用した。血管を輪状に切って、セルフィン(ステンレス製の極小の洗濯ばさみ)で吊るして、薬物の効果を学生たちに調べて貰った。研究でも、また純大およびご家族と知己となったことでも、この一夏は得るところ非常に大であった。