宮崎正弘の国際ニュース・早読み <<ネパールの左翼政権、いちどキャンセルした中国主導の水力ダムを | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


    ネパールもマオイスト(毛沢東主義派)に握られたようだ?    馬鹿な国民が多過ぎなんだろうな。支那畜の政治体制が何時まで続くか解らないけど、色んな影響を受け続ける事になった。


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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)12月15日(金曜日)弐
        通巻第5549号  
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 ネパールの左翼政権、いちどキャンセルした中国主導の水力ダムを復活か
  インドが激怒するなか、カトマンズ新政権は均衡外交の綱渡りを再開
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 ネパールの総選挙の結果、左翼連合が165議席の113を占め、三分の一以上を確保したため、かなり強硬な政策に打って出る可能性がでてきた。その目玉は「ブディ・ガンダキ」ダムの復活である。
 同ダムは中国の「中国葛州堤集団」が25億ドルで請け負い、着工した時点で、ときのネパール政権はキャンセルした。

中国葛州堤集団は湖北省武漢に本拠を置くゼネコンで、カザフスタンのパイプラインや、パキスタンでの高速道路建設など、国家プロジェクトを得意としており、従業員およそ四万人。ゼネコンでは世界三十三位。
 
 ネパールの左翼連合政権は、マオイスト(極左)と「ネパール・マルクス・レーニン連盟」が連立を組むかたちとなり、中国寄りに外交路線を転換すると主張してきた。
 政権幹部は「われわれは中国のOBOR(一帯一路)に協力することで経済発展をなしとげたい。インドと喧嘩別れする必要もなく、インドと中国はわれわれの隣人であり、今後も両国関係は維持されるだろう。とくに中国に傾き、インドを軽視するという路線を選択することなない」と語っている。

 ネパールはグルカ兵を国連に千名、のこりをブルネイ王室警護などに派遣していることを誇りとしており、「国際平和を維持しているのは(グルカ兵を派遣している)ネパールである」という大看板がカトマンズ空港に掲げられ、外国人観光客の目を引いている。
 そのうえ近年、中国人が「近い、安い、短い」を合い言葉にネパールへの観光客のトップに躍り出て、カトマンズの日本料亭など、中国人で満杯となっている。
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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学徒出陣体験を持つ方々のインタビューをもとに
戦終、社会の混乱の中に放り出された若者達がどうやって生活し、家庭を営んだか

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『学徒出陣とその戦後史』(啓文社書房)
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                           評 玉川博己

 今年は戦後七十一年の年であり、また昭和十八年の学徒出陣から七十三年目に当る。日本人にとってもはや戦争ははるか彼方の遠い昔の出来事となっている。戦後まれの筆者はもちろん戦争体験は何もないが、十九年前に他界した私の父が正にこの学徒出陣組であった関係で、生前の父からよく戦争の話を聞かされたものである。
その意味で私にとって父(そして母の)戦争体験はある意味で幼少の頃から身近な存在であった。戦争で父母や祖父母が如何に苦労したのか、そして戦後の苦難の状況の中で父母達が懸命に生活を支え、子供を育ててきたことが我が家のルーツでもあったと子供の頃から感じていたように思う。
これはまた私達の世代には共通した体験であるかも知れない。

 本書は学徒出陣体験を持つ七名の方々のインタビューをもとに構成されている。いわゆる戦記もの、戦争体験ものはこれまで実に多くの書物が出版されてきているが、本書は単にそうした学徒出陣体験者の戦争経験にとどまらず、それぞれが戦前はどのような学生生活を過ごしてきたのか、また戦争が終わって復員後、戦後の社会の混乱の中に放り出された若者達がどうやって生活し、家庭を営んできたのか、いわば戦後復興において各自がどのように社会の中で奮闘してきたのかを貴重な証言によってまとめている。
言い換えれば本書から戦後復興史の一面が垣間見ることができるのではないだろうか。

 本書に登場する七名の証言者はいずれも筆者が取り組んでいる戦没学徒慰霊追悼活動の中で知り合った方々である。
筆者は八年前の平成二十一年に母校・慶應義塾大学の戦没学徒を慰霊する慶應義塾戦没者追悼会を代表幹事として立ち上げて以来、多くの大学の学徒出陣体験世代のOBとも交流を持ってきた。また学徒出陣七十年に当る平成二十五年から神宮外苑の国立競技場にある「出陣学徒壮行の地」記念碑前での戦没学徒追悼会を毎年十月二十一日に主催している。(尚この記念碑は二〇二〇年東京オリンピック開催決定に伴い、国立競技場が建替えられることになった関係で、平成二十六年から隣接する秩父宮ラグビー場構内に仮移転されている。)そして七名の証言者は年齢的に私の父と同世代であり、皆九十を越えている。これらの貴重な体験談から、私の父と父の世代が戦中、戦後どのような青春を送ってきたかを窺い知ることができて誠に有り難いとも思っている。


 ▼名編集者として三島由紀夫担当となった人もいる

 この証言者の中には、早大出身で戦後講談社の名編集長として活躍された原田裕氏も登場するが、とくに三島由紀夫との思い出も語られているのが大変興味深い。

  学徒出陣の原点は史上初の総力戦として戦われた第一次世界大戦にさかのぼる。それ以前の戦争は正規軍が戦場で雌雄を決する戦争であり、しかも短期決戦であったのに対して

 第一次世界大戦は参戦国の総力をあげて戦う長期消耗戦となった。各国とも徴兵による兵士の大量動員から、下級士官の補充要員としての学生の動員も行った。米国ではROTC,英国ではOTCという学生を対象にした予備役将校制度が十九世紀から存在していたが、第一次世界大戦を契機にその拡充が図られ、米国を例にあげると昭和十六年十二月の日米開戦とともに全米の大学でROTCの大量募集、大量動員が始まったという。
 だから翌年八月の米軍によるガダルカナル反攻の頃には既に学生出身の戦闘機パイロットや小隊長クラスの指揮官が戦場に登場している。日本の学徒出陣は更に翌昭和十八年末だから、米国は日本より、学生の戦争動員において、二年も先んじていたことになる。

 欧州大戦の本格的な総力戦を経験しなかった帝国陸軍は、それでもルーデンドルフが唱えた国家総力戦理論に影響を受けて、大正末から学校における軍事教練を始めるなど、高度国防国家論が力説されるようになっていった。

しかしその軍事教練も歩兵戦闘の初歩的なものであり、真の軍事教育からは程遠いものであった。昭和十年代になると海軍における短現士官、予備学生・予備生徒、陸軍における特別操縦見習士官などの諸制度が実施に移されていった。その他大陸における支那事変の拡大に伴い軍医や獣医の動員も行われていった。

 しかし尚日本においては、大学、高等学校、専門学校に在籍している学生には徴兵猶予の特典が与えられていた。昭和十六年十二月に大東亜戦争が始まっても、これは変わらずであった。当局が本格的な学生の軍隊への動員を決意したのは、戦局の苛烈の度が増してきた昭和十八年夏頃といわれる。

そして昭和十八年十月一日、政府は在学徴集延期臨時特例(昭和十八年年勅令第七五五号)を公布した。これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃するものであった。これがいわゆる学徒出陣である。そして徴兵検査の後陸軍は昭和十八年十二月一日に入営、海軍は同十二月十日の入団となった。

 このように、私の父も含めた多くの学生が学窓から戦地に赴いた学徒出陣であるが、では一体何名の学徒が出陣したのか、数万とも、十万とも、あるいは十三万とも諸説があるものの正確な数は分かっていない。

またその内、何名が戦没したのかも不明である。
あれほど当時の国民に熱狂と鮮烈な印象を与えた学徒出陣であるが、その実体は分からぬままに戦後を迎えたのである。本来なら国家総力戦下、時の政府が命じ、大学が学生を戦争に送り出した学徒出陣であり、その結果多くの学徒が戦没したのであるから、これをしっかりと総括すべき責任があるはずの政府や大学であるが、彼らは戦後全くこれを無視し、放置してきた。むしろ問題はここにあるのではないだろうか。

  私の父の母校である東京大学では、約千五百名が戦没したといわれているが(これは早稲田、慶應義塾に次ぐ数であるが)本郷にも駒場にもキャンパス内には慰霊碑一つなく(学外に有志によって建てられた慰霊碑は除いて)、また大学による慰霊祭も行われていない。
 ハーバード大学をはじめ欧米の歴史ある大学には必ず様々な戦争で戦没したその大学出身者の名を刻んだ追悼施設が存在するのとは大違いである。
古今東西、あるいは宗教の違いを問わず、戦争において国のために散華した戦没者を英霊として敬意を捧げ、その慰霊追悼を行うのは極めて自然な人間の感情に基く行為である。その戦争の歴史的評価とは全く別の問題である。

 戦後間もない頃、東大では卒業生有志によって本郷キャンパス内に戦没学徒の慰霊碑として「わだつみの像」を建立する計画が持ち上がったが、当時の南原繁総長は大学の学門や研究と直接関係のないものを学内に建てることは辞退する、として断ったという。
以来、現在にいたるまで東大キャンパスには戦没学徒を慰霊する施設は何もない状態が続いている。南原総長が慰霊碑の建立を断った理由として考えられるのは、一つは当時の占領軍(GHQ)に対する遠慮があっただろうし、東大をはじめ全国の学園で大きな勢力を誇っていた共産党など左翼勢力を刺激したくない、という気持ちもあったのであろう。
 一方、当時ベストセラーとなったのが戦没学徒の遺稿を集めた『きけわだつみのこえ』であった。
多くの戦没学徒の遺稿は読むものの胸を打ったが、しかしやがてこの遺稿集が、編集者のイデオロギーに沿う形で、あろうことか戦時中の官憲による、あるいは戦後のGHQによる検閲よろしく、戦没者の遺稿を恣意的に改竄して出来上がったものであることが判明し、その政治的思想的偏向が批判されるようになった。
そしてより公平な立場からということで、その後『雲ながるる果てに』や『あゝ同期の桜』など多くの戦没学徒遺稿集が出版されるようになっていった。

 先に戦後の東大について述べたが、最高学府たる東大に代表されるように、戦後の日本における諸大学では、大学として学徒出陣を記録し、戦没学生を慰霊、顕彰するどころか戦没者の調査すらまともに行われてこなかった。およそ戦後日本の大学では戦争について語り、戦没者を慰霊することを忌避敬遠するような空気が存在していたといえる。

 私の知る限り、東京都内で大学キャンパスに戦没学徒の慰霊、追悼の碑や施設が存在し、毎年慰霊祭や追悼会を実施しているのは、早稲田、慶應義塾、一橋、國學院、東洋、拓殖,亜細亜の七大学しかないし、東京以外でキャンパスに慰霊碑があるのは小樽商大、香川大など数えるほどしかない。
これらの大学は卒業生のまとまりが強く、愛校心が強いという共通点がある。

 一方、各大学を横断する戦没学徒慰霊の動きとして、平成五年に、昭和十八年十月にあの学徒出陣壮行会が行われた国立競技場(元神宮外苑競技場)の敷地内に、全国諸大学の学徒出陣世代卒業生有志の寄金によって「出陣学徒壮行の地」記念碑が建立された。

建立された場所はあの壮行会における分列行進のスタート地点であったマラソン・ゲート傍であった。以来、毎年十月二十一日にはこの碑の前で、元出陣学徒たちが集まって献花行事を行ってきた。しかし平成二十五年に二〇二〇年東京オリンピックの開催が決定したことにより、国立競技場が建替えられることになったことに伴い、この記念碑も移転されることになった。
 これに先立って、関係者によって国立競技場を管理する文部科学省当局に記念碑の永久保存を要請してきたが、同年末には閣議決定をもって記念碑の永久保存が決定された。また国立競技場の建替え工事の着工に伴って、平成二十六年には記念碑が秩父宮ラグビー場構内に仮移転されることになった。
秩父宮ラグビー場への仮移転後も、毎年十月二十一日に記念碑前で戦没学徒追悼式典を開催している。また実行委員会も戦後生まれの世代に引き継がれ、私もその代表をつとめている。

 このように戦後すでに七十一年、学徒出陣から七十三年がたつが、学徒出陣を記念し、戦没学徒を慰霊追悼する運動は、学徒出陣世代からその子の世代に引き継がれ、更にその孫の世代も参加しつつあるのは、ある意味自然の流れであろう。

 学徒出陣から七十三年、戦後七十一年という歳月が経過し、もはやあの戦争もそして学徒出陣という歴史的出来事もはるか遠い過去の出来事のように感じられる。
しかし現在は過去の延長線上に位置し、戦後のそして現在の日本は戦前、戦中の日本と全く無縁に存在しているのではない。
私の父も含めてあの戦争に青春を捧げ、血みどろになって戦った世代の若者たちが、戦後の廃墟の中から立ち上がり、引き続き終戦後の苦難の中を必死に生き抜いて日本再建を目指して戦った歴史でもあったのだ。私たちは自分たちの父母を見てそのように実感してきた。本書で語られた学徒出陣体験者の証言は貴重な昭和史であり、青春の記録であり、そして世界をも驚愕させた日本復興史を物語る証言でもある。

また本書に登場した元出陣学徒たちの心には、あの戦争に散った多くの仲間たちの、学問を愛し、家族を愛し、そして祖国を愛する心がそのまま生き続けてきたことを深く感じ取ることができる。
私たちはその心を我が心として受け止め、次の世代に引き継いでゆくことを我らが使命と考えたい。
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 日本の大戦略とは何か? どうやれば中国との戦いに勝てるのか

  闘わずしてチャイナを倒す方法がもしあるとすれば、それは何か

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北野幸伯『中国に勝つ日本の大戦略』(育鵬社)

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 日中戦争はもう始まっている、と著者はいきなり平和にひたるお花畑に冷水を浴びせる。孫子は『闘わずして勝つ』ことを上策とし、本当に武力で衝突して消耗してしまうことを『下策』とした。
 その下策を中国にやらせることが、日本の戦略とすべきだが、現実は国際情勢の複雑な要員をひとつひとつパズルのように解いて、効果的な駒の配置をなし、本当の戦いに備えるべきである。
 だが、そういう戦略を立案する政治家も官僚も日本には存在しないようである。
 これをやっているのは、むしろ中国であると著者は言う。
 「中国は2005年、ロシアと事実上の『反米一極主義同盟』を結んだ。つまり、中国は、事実上の米中同盟を維持しながら、一方でロシアと事実上の『反米中露同盟』をつくり、なおも『アメリカからまったく警戒されない』という奇跡的外交に成功している」
 その中国優位の状況をひっくりかえす政治的なクーデターがトランプの登場であった、トかような筋書きで、本書は、日本人になじみの薄い戦略的思考を駆使して世界情勢を読み解いている。
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1672回】          
――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田10)
  前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

   ▽
 やはり清朝末期から中華民国建国直後になって孔子は「信念と尊敬とを受けら」なくなり、「支那仁義道?の大道」の「命脉を保」つことができなくなったということか。

  たしかに前田の「落胆」は判らないわけではない。だが、それは前田の、いや日本人の「買い被り」というものだ。
「大聖孔子」は一貫して「四億萬民衆の師表」と崇め奉られてきたようにいわれているが、それは社会の極く上層に限られたこと。目に一丁字もない圧倒的多数の老百姓(じんみん)には全く関係がなかった。彼らにとって「支那仁義道?の大道」などは戯言に過ぎなかったはずだ。一年中休みなく田畑を相手にする農民からすれば、『論語』であれ『孟子』であれ腹の足しにすらならない。

  やはり『論語』や『孟子』が老百姓(じんみん)の日々の生活に役に立たなかったと同じように、中国古典は日本人が中国・中国人を知ろうとするうえで障害でしかなく、誤解を誘うに過ぎなかったのではなかろうか。

  いったい歴史上、日本人が理想として描くような「支那仁義道?の大道」などが行われたことがあったのか。大いに疑問だ。
かりに「支那仁義道?の大道」という大層な考えは最初からなかった。それは誤解・曲解に基づいて日本人が勝手に描き出した蜃気楼であったと考えるなら、「命脉を保」つことも当然のようにありえない。
いいかえるなら、四書五経やその他の古典が尤もらしく記すゴ大層なヘリクツをテコにして中国・中国人を解き明かそうとしたこと自体が壮大なる夢物語、いや徒労だったように思えて仕方がない。

  辛亥革命勃発から清朝崩壊を経て中華民国建国に至る状況を、前田は「内治外交紛々として定まらざる今日の時期が一番危險に御座候」とした。
それというのも、これまで国内諸勢力は「滿朝を仆し專制政治より共和政治の民たらんとする目的」を共有していたが、結果として誕生した中華民国は「共和の形骸片ばかり出來其國の礎未だ築き上げられ」ず。統一を欠いた国内は「共和國と稱するも士民共和せず各省互に獨立の如き様相を呈」し、「中央集權の威力甚だ振はず國政紛糾紊亂」するばかり。「老雄袁大總統の怪腕も殆ど施す策」はなかった。

  こういった状況が続けば国土分裂に至ることも考えられるが、「如何なる形式にて分裂すべきか殆ど豫測し難」い。
分裂するにしても「支那自身にて分裂致す」のか。あるいは「列國の手により分裂せらるゝに至る」のか。これまた「豫想致し難く候」。

  であればこそ隣国であり利害関係が極めて錯綜している我が国は、逸早く「適應の準備と覺悟とを今に於てなし置かざれば」、「其時に至りて百年の悔を遺」すことになる。かくて「革命混亂時より今日の支那こそ危險物騒千萬の時期と存候」と“警鐘”を鳴らした。

  こう考えた前田が、かりに21世紀初頭の現在に生きていたとするなら、おそらく毛沢東の時代より「今日の支那こそ危險物騒千萬の時期と存候」と説いたに違いない。
それというのも毛沢東は建国と同時に対外閉鎖をしたからである。
50年代末期の反右派闘争、50年代末から60年代初頭にかけての大躍進政策、66年から10年続いた文化大革命など一連の政策は国内に大混乱をもたらし未曾有の犠牲者をだしはしたが、飽くまでも国内政治でしかなかった。
反右派闘争の犠牲者が理不尽な仕打ちを受けようが、大躍進で多くの国民が飢餓地獄に苦しもうが、文革が凄惨な殺し合いを全国規模でもたらそうが、所詮は「竹のカーテン」で仕切られた内側で繰り広げられたコップの中の嵐に過ぎないものだった。 

  たしかに『コップ』が巨大すぎる嫌いはあるものの、それでも「山よりデカいイノシシはいない」の譬えの通り、中国というコップは地球よりも遥かに小さかった。
であればこそ、「竹のカーテン」が地球全体を包むことなどできはしなかったということだ。
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)ネットで経済評論家の三橋貴明氏が安倍首相と会ったことが大きな話題となっています。なにしろアベノミクスを痛切に批判している論客を安部さんが寛大にも会って話を聞いたというのですから、ひょっとして財務省を敵視する姿勢に切り替わるかと期待する人もいます。
 宮崎さんは三橋さんとお親しいようですが、この案件はいかに?
   (HG生、神戸)


(宮崎正弘のコメント)桜チャンネルの経済討論番組で何回か同席していますが、基本的に小生と同じ意見が多く、食い違いはほとんどない人と思います。しかし氏の本を克明に読んだことがないので、これ以上のコメントは差し控えます。
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    日本と支那大陸との正式な国交は遣唐使廃止で絶たれたことを忘れている日本人が多く過ぎる。って言うか、学校で教えてこなかった。だから、文物による知識でかの大陸を見てしまった。文盲が充満している事に気付けなかった。

    文字の裏側は単なる虚妄で有る事すら推し量れなかった。それが明治期から現代まで続く支那大陸の捉え方に影響している。見誤る考え方が何時までも続いている。支那大陸と日本とは一衣帯水なんて事は無かったし、ずっと文盲たちの国であったのだ。現代の人民も又、共産主義と言うイデオロギーに洗脳されている事を忘れてはいけないのだ。

    共産主義と言う思想は文明を退化させずにはいられない。ソ連のアイロンが数十年、同一のものだったとか、自動車も燃費と言う概念を持たずに何時までもガソリンを無駄遣いして来た。

    その最高潮が現代の支那大陸に現出している。自然保護なんて何?だろう。無闇矢鱈に何処にでも造ったダムの決壊は後を絶たず、世界最大の「三峡ダム」の決壊さえ、世上に噂されている。もう経済崩壊した後は長く低迷の世が続くものと思われる。