「400万の護衛がついている!」ヒトラーに決して屈しなかった国王 国を守るとはどういうことか | Hideoutのブログ

Hideoutのブログ

ブログの説明を入力します。

 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。


    他国に侵略されるとはどういう事なのかを日本人全てが一度真剣に考えてみる必要が有るのでは?

    支那畜軍が日本を支配するなんて話は虫唾が走るが。現在進行形でモンゴル(内蒙古)、チベット、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)。密かに満州族の故地(東北三省)。


現代ジャーナル
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53247
✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯

 「400万の護衛がついている!」ヒトラーに決して屈しなかった国王 国を守るとはどういうことか

君塚 直隆


おとぎの国の一徹王
2017年10月8日からの1週間、デンマークのフレゼリク皇太子とメアリ妃の夫妻が、日本を公式に訪れた。今年が日本とデンマークの外交関係樹立150周年にあたり、その記念事業を進めるデンマーク側の名誉総裁がフレゼリク皇太子なのである。

日本側で名誉総裁を務めるのは徳仁皇太子。フレゼリク皇太子夫妻の来日とともに、徳仁皇太子夫妻がお二人を歓待し、各種行事をご一緒されるとともに、東宮での夕食会も催した。

フレゼリク皇太子の母マルグレーテ2世女王は、在位45年を超え、国民からも絶大な信頼を集めている。しかし、彼女が生まれた当時のデンマークは、20世紀最大の国難のまっただ中にあったのだ。

1940年4月9日の早朝5時。

この国を10年以上にわたって首相として率いてきたトールヴァルト・スタウニングが、コペンハーゲンにたたずむアマリエンボー宮殿の窓をたたく大きな音が響いた。

首相は緊急に国王に会見を申し込んだ。たたき起こされたのは、これまたこの国に四半世紀以上も君臨するクリスチャン10世(在位1912~47年)。

当時69歳の老国王は、いつも冷静な首相の様子にただならぬ気配を感じ取った。ナチス・ドイツ軍がデンマークに急襲をしかけてきたのである。

宮殿の周りはすでにドイツ兵に取り囲まれていた。近衛兵が応戦したが、かなう相手ではなかった。16人の死者と23人の負傷者を出し、国王は閣僚、軍高官との相談の結果、午前6時には「降伏」を余儀なくされた。

大戦中はドイツがデンマークに各種の保護を与え、ドイツ軍も内政に干渉しないとの条件に基づく決定であった。形式的には政府もそのまま継続され、ナチス以外の政党活動もそのまま許可された。

ナチスとしては、デンマークを「モデル保護国」にし、北欧や西欧の他の国々に見せつけようとしていたのである。

クリスチャン10世の孫にあたるマルグレーテ現女王が生まれたのは、それからちょうど1週間後の4月16日のことだった。

ドイツの占領下にあった当初は合法的な抵抗運動が見られる程度にとどまっていたデンマークでも、ナチスによる締め付けが厳しくなった1943年夏から抵抗が激しさを増す。

全国に散らばっていたレジスタンスやサボタージュグループが「自由評議会」を結成し、各地でドイツ軍に反旗を翻した。サボタージュ参加者がドイツ軍によって処刑されるや、庶民はいっせいに職場を放棄した。

これにドイツ側は電気・ガス・水道をすべて遮断する対抗措置に出た。それでも市民は耐えぬいた。

「抵抗の象徴」としての老国王
デンマーク国民にとって「ナチスへの抵抗」の象徴となっていたのが、ほかならぬ老国王クリスチャン10世であった。国王は占領の翌日から、コペンハーゲンの町を毎朝馬で散策した。

乗馬はそれまでの日課でもあったが、ドイツ軍の兵士たちが見守るなか、護衛もつけずにたった1人で愛馬と散策する国王の姿は、ドイツに対する無言の抵抗と国民の目には映っていた。

事実、ドイツ兵が彼に敬礼しても国王はいっさい無視し、普通に挨拶してくる一般市民にはいつものとおり優しく言葉をかけるのであった。

クリスチャン10世〔PHOTO〕gettyimages
1942年9月には大事件も起こった。

国王の72歳の誕生日を祝って、ベルリンからアドルフ・ヒトラー総統直々の電報が届いたのである。これに対する国王の返礼は「お言葉に感謝する。クリスチャン国王」という素っ気ない返信電報だけであった。

激怒した総統はコペンハーゲン駐在の大使をより強硬な親衛隊(SS)の高官にすげ替えただけではなく、政権の交代まで要求してきた。

しかしそれからわずか1ヵ月後の10月19日、国王はいつもの乗馬のさなかに落馬した。負傷した左膝は終生治ることはなく、これ以後は車椅子の生活を余儀なくされた。それでも国王の気骨はへこまなかった。

デンマーク在住のユダヤ人に「ダビデの星」をつけるようにとの要求にも断固反対した。国王は「デンマーク国民であるユダヤ人」にはナチスに指一本触れさせなかった。

こうした国王の態度と自由評議会などの支援もあって、ドイツ占領下にあった諸国のなかでデンマークのユダヤ人たちは98%がホロコーストを逃れることができたとされる。オランダ(27%)、ベルギー(60%)、ノルウェー(60%)と比べてもその数字は格段に高い。

ついに1945年5月にデンマークは連合軍によって解放された。5月9日、クリスチャン10世はアレクサンドリーネ王妃とともに馬車でコペンハーゲンの大通りを行進した。新たに召集した議会の開会式に向かうためである。沿道では、数え切れないほどの人々が拍手喝采しながら、この老国王に手を振り続けた。

こうしてデンマーク国民は、ナチス・ドイツの占領下にあった5年間を、まさに国王とともに乗り切り、戦後の新しい時代を迎えることになったのである。

「すべてをノルウェーのために」
ナチス・ドイツによる侵攻に頑強に抵抗したもうひとりの国王が、クリスチャンの2歳年下の弟にしてノルウェー国王、ホーコン7世(在位1905~57年)であった。

1940年4月9日の早朝、ドイツ軍はコペンハーゲン襲撃と時を同じくして、ノルウェーの首都オスロや西海岸6ヵ所を同時に急襲した。知らせを聞いたホーコン国王の初動も早かった。

兄クリスチャン10世は、短時間でコペンハーゲンを包囲され、国民の安全のために侵攻から1時間で降伏せざるを得なかったが、その兄とは異なり、ホーコンは果敢に抵抗を試みた。

オスロはドイツから少し距離があり、何よりもフィヨルドで入り組んだ長い沿岸線と山がちの地形を持つことがホーコンに幸いした。さらにオスロの要塞を守る将兵たちの活躍もあり、ドイツ海軍の巡洋艦を沈めることにも成功を収めていた。


こののち国王とオーラヴ皇太子(のちの国王オーラヴ5世 : 在位1957~91年)は、政府閣僚とともに北部に逃れた。マッタ皇太子妃はまだ幼かったラグンヒル(10歳)、アストリッド(8歳)、ハーラル(3歳 : ハーラル5世現国王)という3人の子どもたちを連れてアメリカ合衆国へ亡命する。

ノルウェー軍による徹底抗戦は各地で続いた。しかしドイツ軍による猛攻に耐えられず、2ヵ月後の6月7日には国王は皇太子、政府閣僚らとともに国外への脱出を決定した。


6月10日にホーコンとオーラヴはロンドンのユーストン駅に降り立った。駅頭には、ウィンストン・チャーチル首相が出迎えに来ており、2人を連れてすぐさまバッキンガム宮殿に案内した。

ホーコン国王の亡き妻は、イギリス国王ジョージ6世の叔母(父ジョージ5世の妹モード王女)にあたった。それからの5年間にわたりホーコンはイギリスでの亡命生活に入る。

ロンドンに借りた事務所では、毎日のように皇太子や閣僚たちと協議を行い、連合軍から得た情報をもとに祖国の解放に尽力した。

また国王は、BBC(英国放送協会)のラジオを通じて、ノルウェーの国民に希望を捨てないように訴え続けた。ロンドンでは「自由ノルウェー」を立ち上げ、「すべてをノルウェーのために(All for Norway)」を標語(モットー)に、国王は寝る間も惜しんで活動を続けた。

そしてついに待望の時が訪れた。1945年5月8日にドイツが降伏した。その5日後、先遣隊としてオーラヴ皇太子がまずはオスロに入った。さらに亡命からちょうど5周年にあたる6月7日に、72歳の老国王ホーコンが祖国の土を踏んだ。

アメリカから戻ってきたマッタ皇太子妃や孫たちにも再会し、宮殿へと向かう国王の乗る馬車を、歓喜する大勢の国民が取り囲んだ。宮殿前には13万人以上の市民が集まり、ここにノルウェーは解放されたのである。

ドイツ軍による占領後も、祖国デンマークにとどまって抵抗の意志を貫いた兄クリスチャンと同様に、亡命後もラジオを通じて国民に語り続けたホーコンは、ノルウェー国民にとって「ナチへの抵抗と祖国解放の希望」の象徴となり続けていた。

なお、ドイツ軍侵攻から徹底抗戦の決定に至るホーコン国王の動向については、2016年に制作のノルウェー映画『ヒトラーに屈しなかった国王(原題はKongens nei)』で詳細に描かれた。



アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされたこの作品は、封切りと同時にノルウェー全土で空前の大ヒットとなり、国民の7人に1人は鑑賞したとされている。日本でも2017年12月から全国で公開される予定である。

「400万の護衛がついている!」
ドイツ出身でその後アメリカで活躍した憲法学者のカール・レーヴェンシュタインは、名著『君主制』(1952年刊)のなかで次のように述べている。

君主が長年の生活経験をもち、政党政治にたずさわる人物を充分に知りつくし、あらゆる国内政治の動揺を乗り越えて、つねに一貫せる対外政策につとめたということ、また君主が私生活を市民的水準に適応させ、それによって社会的統率を失うことなく、人望を集めることを心得ているということ、これらのことを考えるならば、なぜ西欧および北欧の国民が、彼らが信用する君主制に固執し、君主制を共和制と交代しようとは考えていないのか、ということが理解されるだろう。
北欧では、王室の生活も質素であり、上層中産階級のそれと変わらない日常生活を送っている。それがまた、王室が国民から深い信頼を得るとともに、強い親近感を抱かれている要因のひとつなのであろう。

第二次世界大戦を父王ホーコン7世とともに乗り越え、戦後のノルウェーを国民と一緒に支えたオーラヴ5世国王は、よくお供も付けずに宮殿の外を散歩し、街角の肉屋や魚屋、雑貨屋などに気さくに声をかけることで有名だった。

声をかけられる市民のほうも「いやあ王様!」と、国王を大歓迎し、世間話に花を咲かせたものである。

あるとき、宮廷警備の責任者から「用心のため、せめて護衛を1人はお付けください」と国王は進言された。

すると普段は陽気で気さくな国王が大声を張り上げてこう言った。

「私には400万人の護衛がついているんだ!」

当時のノルウェーの全人口のことである。この警備の責任者は二度と同じ進言を繰り返すことはなかった。

北欧の次代を担う、デンマークのフレゼリク皇太子(1968年生まれ)もノルウェーのホーコン皇太子(1973年生まれ)も、こうした王たちの背中を見つめながら、これからも家族や国民とともに国を支えていくことになるのであろう。
✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯✯


    偶に樺太の「真岡郵便局」の事件を書くけど、支那畜の場合よりまだマシなのかもしれない。


    支那畜が現在進行形で行っている事は、、「民族浄化」そのもの。男性は根こそぎ抹殺。女性は強姦して子を産ませる。只それだけ。


    我々日本民族の祖である縄文人。幾ら遺跡をひっくり返しても戦闘の痕跡すら見付からない。又大型動物を狩るための石器も見付からない。これは何を意味してる?     

    DNA研究の結果縄文人はY染色体ハプログループD2に所属。近親種族はチベットにインド洋アンダマン諸島のみに残っているだけ。(アンダマン諸島は実会のままのようだ。だからインド領でありながら何も手をつけてはいないようだ)

    アフリカを出た新生人類は何故か東を目指した。多分勝ってな想像だが、太陽の登る場所に行きたかったのでは。東進の理由が他には見当たらない。

   そしてこれも多分勝ってな想像だが、ユーラシア大陸の東にはハプログループDの遺伝子を持った人類がそこかしこに住んでいたのでは。縄文人の様に戦わず殺し合いもせず。

    そんな平和な場所に後から分岐した民族がやって来てそれこそ根絶やしにされた。結果、日本列島・チベット高原・アンダマン諸島に追いやられた。だからシナ大陸や朝鮮半島にはハプログループDの遺伝子を持った人種が居ないのだろうと僕の下手な推理。


    デンマークは日本に取っては、貴重な親日国だ。南京の真実を訴えてもくれた。果して、日本人がデンマークの例の様に行動出来るだろうか?


    まぁ無責任に書いてしまうが、僕より若い世代の課題だから、知ったこっちゃねぇーと言ってしまえばそれ迄だが。


    今日も朝一の妄想絡み。