上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第44回 1333年 新田義貞

元弘三(1333)年五月、新田義貞ら一行が、鎌倉攻めの際に八幡八幡宮に立ち寄り戦勝祈願した。

 八幡荘の歴史をまとめたものはこの世に存在せず、このやうに残された記述資料から八幡荘を考えていくものです。

新田義貞

【挙兵】

 元弘三(1333)年五月八日、東の空が白みかけた卯の刻。新田小太郎義貞は世良田の館を出発し反町城で勢ぞろいし市之井の生品神社へ向かった。生品神社の御前にて護良親王からの令旨を披き三度これを拝して奉読。社前に魚鱗と鶴翼の陣を構え、「天諌(ちゅう)」と叫んで一斉に鎌倉の方角に矢を放ち、北条高時伐滅を誓った。兵力わずかに百五十騎。

【冠掛の松】

 木崎の宝広山大通寺で小休止をした折、義貞は冠を解いて境内の一本の老松の枝に掛け、将卒とともに木陰で涼んだ。「冠掛の松」として現在も太田市の名所となっている。

【八幡八幡宮に到着】

 五月九日八幡八幡宮に到着し戦勝祈願。夕刻、砂けむりをたて二千余騎が見え「すわ敵ぞ!」と身構えたが、信濃武士、市村王石丸代後藤弥四郎たちであり力強い味方となった。烏川を渡り武蔵国へ入り、紀五左衛門、足利高氏の子息千寿王丸たち二百余騎、常陸鹿島社の神官一族の塙政茂たちも馳参じ強力な軍となり、五月十一・十二日の入間小手指原合戦、五月十五日の府中分倍河原の合戦と連勝、遂に鎌倉を討ったのである。

by新田おじさん