上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第25回  八幡八幡宮 その16

長野業盛の墓

 弘治元(1555)年、武田信玄は川中島の合戦で勝利し、西上州一体に力を及ぼし、長野信濃守業政の居城、箕輪城を攻めてきた。
 永禄4(1561)年、
業政が病で亡くなり、後を継いだのが業政の次男、業盛。 武田軍は上州に攻め込んできて、松井田城を攻め落とし、安中城、国峰城を攻略。鼻高少林山裏南の一本松(現在の慈雲山福泉寺)に陣をはり、遥かに箕輪城を眺め機を伺った。
 武田軍と長野軍は若田ヶ原にて交戦。長野軍は疲れてしまい箕輪城へと兵を引き上げた。武田の兵達が城内に押し入って来たのを見て、業盛は持仏堂にこもると父親の、位牌の前に座ると、「春風に氷雨も桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の里かな」という辞世の句を残し自刃して果て、箕輪城は落城してしまう、時に永禄9(1566)年9月25日の事でありました。

長野業盛のお墓を確認しに行きましょう!

                byおじさん