上野国(こうずけのくに)

八幡荘(やわたのしょう)

市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう

第24回  八幡八幡宮 その15

若田が原の合戦

若田が原の合戦 永禄6年(1566)

 弘治元(1555)年、川中島の合戦で上杉謙信との雌雄を決した武田信玄は上杉方の武将で西上州一体に力を及ぼし、長野信濃守業政の居城、箕輪城を攻めようとしていた。
 永禄4(1561)年、
業政が病で亡くなり、後を継いだのが業政の次男、業盛。彼も中々の豪傑でしたが、なにせ17歳の若者、人生経験浅くまして戦の経験も浅い、これを知った信玄は,時は来たりと上州めがけて兵を屈りだしてきた。
 武田軍は長野の11の出城、50の砦を総なめにして、いよいよ上州に攻め込んできた、まずは安中忠政の居城松井田城を攻め落とし、忠政の息子忠成の安中城、業政の娘たちの嫁ぎ先の小幡の国峰城を攻略。鼻高少林山裏南の一本松(現在の慈雲山福泉寺)に陣をはり、遥かに箕輪城を眺め機を伺った。


福泉寺
 長野軍は中間地点の若田が原を武田軍に抑えられては、箕輪城が危うしと軍議のすえ、先に若田が原を抑えようと、軍を繰り出し途中、今の沖町にあった住吉城で小休止すると、隊列を組み大島坂を上り若田が原を目指した。


八幡八幡宮
 武田軍はされば迎え撃たんと、一気に碓井川を渡り八幡八幡宮に先勝祈願し、東隣の大聖護国寺に陣を張り、ここから若田が原に兵を繰り出し、長野軍と若田ヶ原にて交戦。兵達の矢叫びの声は天にも届き、騎馬武者のひずめの音は地軸迄届くかと思わんばかりの、物凄い大合戦が繰り広げられた。


 大聖護国寺
 武田軍の猛攻の前に長野軍は疲れてしまい若田が原をあきらめて、箕輪城えと兵を引き上げた。武田軍は一旦兵を安中迄引くと隊列を組みなおし時を移さず兵を進め、ぐるりと箕輪城の包囲の陣をはった。業盛は家来達を叱咤激励すると自ら得意とする大薙刀を小脇に抱えると大手口より突出すると敵陣めがけて切りかかっていった。若干22歳とはいえさすがの豪傑、武田の武者28人を切り倒すなど奮迅したが残念、力及ばず城内に押し戻されてしまう。
 武田の兵達がどっと城内に押し入って来たのを見て、最早これまでと只一人、持仏堂にこもると父親の、位牌の前に座ると、「春風に梅も桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里」という辞世の句を残し自刃して果て、箕輪城は落城してしまう、時に永禄9(1566)年9月25日の事でありました。

明日は、長野業盛のお墓を確認しに行きましょう!

             by業政おじさん