えーっと…
変わらず毎日過ごしております
コロナ禍で
葬儀の現場にも、まだかろうじて関わっておりまして、細々と日々を繋いでおります
コロナ禍
家族葬
ほぼ10名さん前後の参列で、葬儀が行われております
参列したくとも、離れて暮らす孫さんなど、参列できないかわりに、リモートだったり、オリジナル文の弔電が送られてくることが多くなりました
読みながらも、想いが伝わってきて、送った方のありがとうの気持ちや、故人様のありがとうの言葉も聞こえてくるようで、悲しみの中にも、あったかなものを感じさせてもらえます
そのなかで読んでいいのか?と疑問に思った言葉が、
大往生
この言葉、発する方によっては、使わない方が良いのでは?と私は思うんです
よく使う使い方とすると、
母は、大きな病気を患うことなく眠るように息をひきとりました
私たちは大往生だと思いたいです
と、喪主さまの挨拶などでお話しなさるには、よい言葉かと…
でも先日預かった弔電には、
何度もの大病を克服しての大往生
と姪御さんらしき方の言葉でした
喪主さまから預かった時には、何も気にされた話はなかったのですが、マイクを通して伝える私としては、とても抵抗がありました
疑問に思っていない喪主さまにあえて伝えるべきか?
送られた方の気持ちだから、そのまま読むべきか?
悩みました…
若い社員さんには私が悩む意味が理解できないらしいです
たとえ、90歳過ぎた故人様だとしても、
もっとそばにいて欲しかった
せめて、もうすぐ生まれてくるひ孫を見るまで…
とか
こうしてあげたかったのに
最期に好きな物を食べさせてあげたかったのに…
そんな気持ちは尽きないものだと思うんです
それを
大往生だったねー
と言われると辛くないですか?
あーそうか大往生だもんな
って思えない方もいるはずです
でね、悩んだあげく、長男である喪主さまには言えず奥様に相談しました
そこに喪主さまが通りかかってしまって、結局お伝えしたところ
気にはなってた
と
大往生をご生涯と読みかえ、何度も の言葉は、独断で省きました
正解はわかりませんが、そんなこんなも覚書として、ここに残しておこうかと思ったのでした
20年近い仕事も日々悩みの連続です