昨日の会津の母(2)が 前後混同して居たので、昨日
会津の母(2)を読んで頂いた皆様には、心からお詫び
致します!ご免なさい! 其の上で改めて 会津の母(2)
を書き直しましたので、何卒 昨日の「会津の母(2)」
に懲りず、お見捨て無く、「改めて 会津の母(2)」を
読んで頂けましたら 心から感謝致します!
私が 入院中 尚体調を崩し、他の病院に検査転院し
た時に、私は春枝さんに手紙で知らせただけでしたが
峰子さんから「とても心配して居ます!元気に成って
退院されたら、桜の木の下で朋子をだっこして下さい
ネ!」と久し振りに手紙を貰いました」。会津の峰子
さんのお母さんから、坂下の実家が傾いて 婚期を
のがして 此処に後妻に来た事、自分の産んだ子供は
峰子一人で、後の三人の子供は自分の子供では無い事
、働かないでは居られない私は 峰子を家から見える
丸山の社の近くに、籠に入れて置いて来て働いたが、
籠に入れられて自分が去っても、母を慮ってか、峰子
は泣かなかったとも話して呉れて、峰子の名前は 会
津の磐梯山の様に大きく強く育って欲しいと願って
「峰子」と名付けたと聞きました!私が退院出来た時
に、私が峰子さんの名前の由来から、磐梯山に登る確
かな意志を知って居る物の、長い入院生活で費用が無
いのを察して、二泊の宿泊代と交通費に登山費用を含
めた金額を、今迄の感謝の気持ちでしょうか?これで
行かれる範囲の好きな所に、気晴らしに行って下さい
!と送って頂きました!其の日は快晴で 磐梯山頂か
らでも大きな猪苗代湖が鮮明に青く見え、山頂からな
のに、大きすぎて、広すぎて、カメラに入り切れませ
んでした!私が退院して 学業に戻ってから 三度目
に会津に行った時に 峰子さんのお母さんに会いまし
た!峰子さんの実家では無く、前隣りの本家筋の同年
代の奥さんが一人でお暮しの家に 訳を話してあるか
らと 其のお宅で会いました! 後日、とても後悔さ
れ「あの日は誰も居なく留守だったのに!家に来て貰
って、温かいお茶を飲んで貰って、峰子のアルバムを
見て貰えば良かったのに!と何度も泣きながら話して
居られました!どうやって若松市内迄来たか忘れまし
たが、市内を歩いて「此処が峰子の・・・・の所」「
此処が峰子の勤務して居た病院」とみねこさんに関わ
る場所を案内して頂きました。そう言う話をする相手
は居なかったのだと思います!駅前のベンチで電車の
時間を待つ時に、女系三代で生きると固い決意で実家
に夢を持って帰った峰子さん母娘を、夫達男どもに乗
り込まれ、朋子(娘)を何故奪われたのか?と、聞きなが
ら話しました!そんな私を、峰子が好きだったと一層
思い込ませてしまい、一層私を不憫にお母さんは思わ
れた、其の後の様子でした!峰子さんのお母さんはと
ても小柄で足は速いけれど、年配でした。其れは、既
に文通で話された事ですが、婚期を逃して前妻の子が
三人も居る家に後妻に入ったので、峰子を産んだ時は
三十代後半(記憶が定かで無いけれど36~38歳)だ
ったと聞いて居たので当然なのです!次回、会った時
に本郷スカイラインを有名な山城跡の下迄ハイキング
に誘われ、私の好きな物ばかりで作って呉れたお弁当
を頂きました。一番忘れないのは、其の時初めて「こ
ごみ」を頂き、其の美味しさを忘れられません。話を
進めます。私が卒論の調査で芦ノ牧温泉の国民宿舎あ
いづ荘に滞在した時に、支配人の高橋さんと知り合い
ましたが、高橋さんと峰子さんのお母さんが、会津文
人会の仲間で、且つ隣部落で親しく、会うと私の話に
成ると手紙に書いて有りました。元県会議長で元衆議
院議員とも親しく、頼みごともする中で、本を出す郷
土史家とも親しく 会津に人脈が有る事は聞いて居ま
したが、具体的に知る事になりました!


