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日本の現状を憂いて政治に関して思う事、子供の頃から大好きな日本史(特に幕末から大東亜戦争)、軍事関係で戦跡、史跡巡りをした時の写真などUPしていきます。

宇佐海軍航空隊跡①では滑走路跡、城井1号掩体壕、誘導路跡まで紹介しました。
写真枚数が多いので分けて紹介します。

今回は、航空隊敷地との境界線だった水路、唯一残る爆弾池、電信室跡、レンガ建物、無線受信室跡、エンジン調整室跡、忠魂碑まで。
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航空隊敷地との境界線だった水路。現在も農業用水として現役です。右側が航空隊敷地。
YOSSYのブログ-水路

同じ場所から反対側を望む。左側が航空隊敷地。
YOSSYのブログ-水路

畑の中にポッカリ空いた爆弾池。他の爆弾跡が整備事業で次々と埋められていく中、所有者の強い思いを受けて埋められることなく残されました。
目印である畑の中にポツンとある白い標柱を目を皿のようにして探して見つけました。戦跡巡り仲間と一緒だったので見つかりましたが、一人で車を運転してたら中々見つからなかったかもです。

YOSSYのブログ-爆弾池

飛行場電信室跡。航空隊の敷地に隣接した場所にあります。この上に受信用の鉄塔が建っていたそうです。
YOSSYのブログ-電信室
YOSSYのブログ-電信室
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電信室そばを流れる水路。ここも航空隊敷地との境界でした。右側が航空隊敷地。
YOSSYのブログ-電信室


電信室近くにあるレンガ造りの建物。落下傘など航空隊で使われる兵器の整備が行われていた建物だという話が有力であるが実際はどうだったかは明らかになっていない。
YOSSYのブログ-レンガ建物
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機銃掃射の跡がたくさん残っています。2階の窓枠の間にうっすらと丸印がありますが、これは最優先で防災する事を示した印だそうです。
YOSSYのブログ-レンガ建物


レンガ建物近くにある無線受信室跡です。この上には受信塔が立っていたそうです。
YOSSYのブログ-無線受信室
YOSSYのブログ-無線受信室

無線受信室の裏にコンクリート製の建造物がありました。航空隊に関係する施設の跡かなと思うのですが、フェンスで囲ってある外側にあるので分かりません。
YOSSYのブログ-無線受信室


無線受信室跡近くにあるエンジン調整室跡。この建物にも機銃掃射の跡が残っているそうですが、民間の敷地内の為、近くまで行って確認する事ができません。
YOSSYのブログ-エンジン調整室
YOSSYのブログ-エンジン調整室
YOSSYのブログ-エンジン調整室


宇佐航空隊から出撃し、戦死した特攻隊の兵士と 宇佐航空隊で亡くなった人を祀っている石碑で戦後この位置に移されました。この石碑は、柳ヶ浦高校の正門の前にあり毎年4月16日に慰霊祭が行われます。
道路沿いにあるのですが、木の茂みを剪定して作られた塀で見えにくいので何度も前を通り過ぎてやっと見つけました。車で移動の際は細心の注意を払って探してみて下さい。

YOSSYのブログ-忠魂碑
YOSSYのブログ-忠魂碑


宇佐海軍航空隊跡③に続く
大分県内には、大分、佐伯、宇佐と三つの海軍航空隊があり、これまで大分、佐伯を訪れてきたが、今回、残りの一つ、宇佐海軍航空隊跡をやっと訪れた。


まずは宇佐海軍航空隊の概略を。

 宇佐に航空隊が出来たのは 昭和14年10月1日。呉鎮守府隷下の実用機訓練部隊として開隊した。

 宇佐航空隊は、茨城県の霞ヶ浦などの航空隊で ひととおりの飛行訓練を終えた兵士たちが、実際に戦争に使う飛行機で 訓練の総仕上げをするところでした。そのため、全国各地から 若い兵隊が集まり、宇佐航空隊などで訓練した人たちが真珠湾攻撃に参加しました。

宇佐に航空隊が作られた理由として、「瀬戸内型の穏やかな気候で、風向きが飛行機の離着陸に適していた事」、「周防灘や国東沖、別府湾、豊後水道を利用しての洋上爆撃・雷撃訓練が容易な訓練空域に恵まれていた事」、「呉鎮守府にもほど近く、航空母艦を招いての発着艦訓練も頻繁に実施できた事」、「物資輸送のための駅が近い事と」、「近くに国家の保護を受けた格式の高い神社である宇佐神宮があり、士気(兵士の戦おうという気持ち)を高めることができた事」、「広い田園地帯で地価が安かった事」などがあげられています。

 昭和16年に 大東亜戦争が始まり、昭和20年に沖縄が戦場になると、それまで訓練するだけの飛行場だった宇佐海軍航空隊は、特攻隊の基地となりました。宇佐海軍航空隊には、一番多い時で150機の特攻機が集められたそうです。
宇佐航空隊で編成された特別攻撃隊の出撃は、昭和20年5月5日に解隊されるまで4/6、4/12、 4/16、4/28、5/4 の5回ありました。計81機、特攻隊員154名の尊い命が失われました。

 宇佐海軍航空隊では、「宇佐八幡」にちなんで、「八幡護皇隊」「八幡神忠隊」「八幡振武隊」など隊名に「八幡」の文字がつけられました 。 


宇佐海軍航空隊跡周辺に残る戦争遺跡の位置図。
YOSSYのブログ-宇佐海軍航空隊

今回訪れた航空隊跡の敷地周辺の戦争遺跡の名称と詳細です。
宇佐海軍航空隊の規模は東西 1.5 km、南北 1.3 km、面積は約184 haに及ぶ。

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まず、滑走路跡に行ってきた。
滑走路は、はじめ 幅が30メートル 、長さが1150メートルでしたが、後に 幅が80メートル、長さが1800メートルに拡げられたそうです。現在の道路は幅が16メートルなんだそうです。

YOSSYのブログ-滑走路跡

このモニュメントが立てられている場所は、このあたりから飛び立つ飛行機を帽子を振って見送った場所だそうです。
YOSSYのブログ-滑走路跡
YOSSYのブログ-滑走路跡


次に掩体壕に行って来ました。
掩体壕は現在、城井地区に4基、畑田地区に5基、森山地区に1基の計10基が現存しています。
その中でも、宇佐市指定史跡として整備されている「城井1号掩体壕」に行きました。ここは戦後50年である平成7年3月に「史跡」として指定され、平成9年に「史跡公園」として整備されました。史跡指定は1995年3月、第二次世界大戦の遺構の史跡指定は、沖縄県南風原陸軍病院壕(同県南風原町)に続き全国2番目の指定だそうです。
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕

昭和23年に米軍機が撮影した宇佐海軍航空隊跡。敷地内は元の水田に戻りつつありますが、爆弾の跡や滑走路はまだ残っています。
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕

城井1号掩体壕の規模は、高さ5.4メートル、幅21.6メートル、奥行き14.6メートルです。
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕

掩体壕を後ろから見た所。
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕

国東沖から引き上げられた零戦のエンジンとプロペラの残骸、この写真では分かりづらいですが地面には零戦の原寸大の影が表示されています。
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕

滑走路に使用されていたコンクリート片。滑走路跡周辺の乙女地区や畑田地区などでは、土の中に埋め込まれたものや、ブロックのように積み上げられ、塀や石垣として使っている所もあるようです。また探しに訪れてみたいと思います。
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕

城井1号掩体壕の近くにある倉庫として使われている城井2号掩体壕。
YOSSYのブログ-城井1号掩体壕


過去、城井1号掩体壕に関係したこういう事件があったのでネットで拾った記事を載せておく。

2006年06月10日(土) 11時46分
一青窈さんの平和メッセージ破り取られる 大分・宇佐市(朝日新聞)
 大分県宇佐市の戦争史跡に備え付けられた感想帳のうち、「ハナミズキ」などのヒット曲で知られる歌手一青窈(ひとと・よう)さん(29)が平和メッセージを記したページが破り取られていたことがわかった。

 史跡は、戦闘機の格納庫だった「城井1号掩体壕(えんたいごう)」。特攻隊として154人が出撃した旧宇佐海軍航空隊の施設の一つで、市教委が管理している。9日に訪れた女性から「メッセージがない」と連絡があったという。

 一青さんは4月18日、大分市でのコンサートを前に掩体壕を訪れ、感想帳に「たくさんの悲しいできごとが 消えて たくさんの花が咲きますように」などと書いた。

 宇佐市で戦跡の研究活動を続けている住職、平田崇英(そうえい)さん(57)は「ファンが持ち去ったのだろう。メッセージは一青さんの了解を得て陶板にしようと考えていた。返してほしい」と話した。



この道は、飛行機が掩体壕から 滑走路へ出ていく時の道(誘導路)で、車輪の跡(轍)がそのまま現在の道になっています 車輪の間となっていた所には桜の木が植えられています。
 道幅は滑走路と掩体壕を行き来した「一式陸上攻撃機」の両輪の幅(約6メートル)とほぼ同じです。

YOSSYのブログ-誘導路跡

森山地区に唯一現存する中型掩体壕です。現存する他の9基の掩体壕よりも大型です 。
高さ9メートル、幅40メートル、奥行き23メートルで、一式陸上攻撃機を収納していたと言われています。

YOSSYのブログ-中型掩体壕


宇佐海軍航空隊②に続く
8月15日。

この日は何の日かみなさんお分かりでしょう。いわゆる終戦記念日と言われている日です。
私はこの終戦記念日という言葉が好きではありません。

だってそうじゃないですか。何で日本が連合国に降伏する事を発表した屈辱の日を記念しなければいけないのだろうかと昔から思ってました。
それにポツダム宣言を受諾して玉音放送が流され戦闘を停止した日ではあるけれど、米海軍戦艦ミズーリ甲板上で降伏文書に調印した9月2日が本来の終戦の日であろうと。
サンフランシスコ講和条約の条文中にも、1941年12月7日 太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)の日(現地時間)、1945年9月2日 降伏文書調印の日と出てきます。
そして、昭和27(1952)年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効を持って日本の主権回復と戦争状態の完全なる終結になるわけです。

サンフランシスコ平和条約「日本国との平和条約」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/other/tpj.html

そうはいっても特別な日である事は間違いないので、毎年恒例の地元の大分縣護國神社みたま祭に行って来て、正午の黙とう、最後に玉串を捧げ、戦火に斃れた英霊を顕彰し思いを忍んできました。

YOSSYのブログ-大分縣護國神社みたま祭
YOSSYのブログ-大分縣護國神社みたま祭
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みたま祭が終わり、夕方からもう一つの予定に出向くまで時間があるので、大分市駄原にある陸軍大分歩兵第47聯隊跡を訪れて見ました。聯隊跡には現在、大分大学付属小学校、付属中学校があります。

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聯隊跡近くにある大分県立図書館がある場所に以前は大在に移転した国立病院があり、前身は陸軍病院でした。
余談ですがこの地に国立病院があった当時、私はここで産声を上げました。

YOSSYのブログ-大分歩兵第47聯隊跡
YOSSYのブログ-大分歩兵第47聯隊跡
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次は桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)を訪ねて見ました。
ここには満州事変の戦没者、1919(大正8年)年2月26日、シベリア出兵でのプリアムールのユフタ周辺で、第12師団歩兵第12連隊の田中支隊(1個大隊規模、1個野砲中隊を随伴)が零下40度の厳寒のなか突然地方ソビエト共産党員、ドルゴセイエフスキー指揮下のパルチザンの猛攻撃を受け全滅に近い打撃を受けたユフタ事件の戦没者、病没者、軍馬などが祀られています。

YOSSYのブログ-桜ケ丘聖地
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ユフタ事件戦死者墓
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ユフタ事件戦死者墓
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軍馬之墓
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満州事変戦没者合祀碑
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満州事変戦没者合祀碑
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納骨塔
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祈念館
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旧衛成地戦没者合祀碑
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済南事変合祀碑

ちょっと小腹が空いたので一緒にいた友人と共にお好み焼きを食べたのち、もう一つの目的地、以前ブログでも紹介した最後の特攻隊発進之地である大分海軍航空基地跡で毎年行われている慰霊祭に参加するため現地へ向かう。
この慰霊祭が毎年行われている事を初めて知ったのが去年大分市上野丘にある 予科練資料館を見学に行った時初めて知りました。
この資料館を個人で管理されている川野喜一館長は予科練の生き残りです。
8月16日に出撃命令が出ていたそうですが、15日に日本が降伏した為に生き残られたそうです。

玉音放送の後、出撃したとされる午後4時半から実行員会の会長さんの挨拶があり、大分縣護國神社の宮司さんの祝詞が響き渡り、すぐ近くのテニスコートでボールを打つ音が聞こえてくるのとは対照的に
慰霊祭は粛々と執り行われました。
最後にはここでも玉串を捧げ、今となっては誰も分からない英霊の魂に思いを馳せました。

YOSSYのブログ-大分海軍航空基地跡
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宮司さんの挨拶の中にあった「英霊の方々が今の日本を見てどう思っているだろうか。俺達はこんな日本を作る為に命を懸けて戦った訳じゃないと思っているだろう。」という言葉がズシリと心に響きました。

まったくその通りだと思います。先人達が命を賭してでも護ろうとしたこの日本を正しい道に戻すのは現代に生きる我々の責務です。