伝説の野球選手 マイケル・ジョーダン | 暁の戦力外ウェブログ

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マイケル・ジョーダンってちょっとだけ野球やったよね。
などということを、
急にふと思い出して色々調べてみた。

突如シカゴ・ブルズを引退し、1994年、31歳にしてシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約。
オープン戦ではメジャーの試合にも出ているらしい。

高校まではかなりの有望選手だったらしいジョーダンは、93年に父親が殺害されたことにより、父にも進められていたというもう一つの夢であるメジャーへの挑戦を決意したとも言われている。

さすがにいきなりメジャーの公式戦には出られんので、AAのバーミンガム・バロンズでプレイ。
成績を見ると、外野手としてなんとチームトップタイの127試合(139試合中)に出場。

色々な文書を見ると、ほんとに朝から晩までバットを振り続け、懸命にプレイしたらしい。
そりゃまあ、多少契約に守られてた部分とかあるかもしれないけど、生半可な気持ちでドサ周り芸人みたいなマイナーリーグの生活はできない。

以下、成績。(baseball-reference.com より引用)
127試合 436打数 88安打 3本塁打 51打点 46得点 30盗塁
打率.202 出塁率.289 長打率.266 OPS.556

二塁打17 三塁打1 盗塁失敗18 四球51 三振114 併殺打4 死球4 犠打3 犠飛3

さすがに打率も低いし三振も多いけど、盗塁30はすごい。
3ホームランを打ち、打点もチーム4位で、充分戦力になっていたのがわかる。
身体能力の高い人は何やってもすごいのだ。

さらにこの年の秋季リーグでは2割5分2厘の打率をマーク。
実際結構評価されていて、翌95年はAAAでプレイすることが決まっていたらしいし、秋にはメジャーに昇格するんではないかと思った人もいたようだ。

ところが、94年途中からMLB選手会はストライキを実行、シーズンは打ち切りとなった。
その余波で、95年シーズンも開幕が危ぶまれていた。

実際は1ヶ月弱遅れの4月末に開幕となるのだが、
その際、チーム首脳がジョーダンたちにオープン戦への出場を要請したらしい。

実はホワイトソックスのオーナーはブルズのオーナーでもあった。
「コネ入団」とか批判されたくらいでオーナーにも恩義がある。
しかし「出場したらメジャーリーガーたちに嫌われるかもしれない」と若手選手達に相談され、自分の身の振り方も考えて、どうしたらよいかわからなくなってしまったそうである。
悩んだ挙句、彼は突然クラブハウスを引き上げて、ブルズの練習場へ戻ってしまった。

あと何年かはプレイしてほしかった。
ちょっとくらいはメジャーの試合にも出られたかもしれない。
つくづく惜しいところである。
同時にプレイした選手名を見る限り、有名選手はいないようだが、当時バロンズの監督だったのは、現レッドソックス監督のフランコーナだそうである。
彼は「あと2シーズンほしかった」と語ったそうだ。

こういう選手が存在したという懐の深さは「やっぱりアメリカをなめちゃいけない、と思わされ」るところであろう。

94年4月7日 シカゴ・カブスとホワイトソックスのエキシビジョン試合でのジョーダン
お遊び試合?とはいえ、なんかえらい活躍である。