ビル群の中に、たしかに閑静な住宅街はあった。すでに宵闇は迫り、表札の名前がやっと見えるくらいである。彼女は客間の電灯を点けようともせず、批評を乞うために渡しておいたぼくの戯曲を見つめている。
「私は小説家なのに、あなたのこの戯曲の中に出てくる詩の一節によって、心の奥底に沈んでいた澱が、まるで嘘のように消えてしまった」
彼女は、ぼくの計りかねる顔に気付いたかのように続けた。
「実は親子以上に信頼していた姪を昨年亡くしました。一言も交わすことが出来ませんでした。姪の突然の死を受け入れることができず、この一年ずっと悩んでいたのです」
彼女はさらに続け、「この戯曲により、まさに一瞬にして、いま心中の謎が解けたかのようです」と結んだ。どうやら、この「独り芝居・老いのレッスン」の主題歌のことらしい。
ぼくは彼女の一言のもと「言葉は人を救う」と確信した。六十六歳の老いぼれに残された僅かであろう人生。こともあろうか、この戯曲を抱え、ぼくは演劇の旅に出ようと決意した。
誰にも訪れる人生の終活。聴衆の中のたった一人の観客であっても、この劇中から自身の
小さなトゲの痛みを感じとる人がいるならば、ぼくは旅役者としての役目を果たしたことになるだろう。