古都のブログ小説 京の鐘980 

 

 

「うちも、大方回復しているので、電車の中でゆっく休み

 ます」

 志乃に迷いが無いので、秋山が即座にセンターへ電話を

 入れ、この話を伝え、夕食は子供たちはいらないと、

 告げるとセンターから

「夕食はもう献立通リ用意されていて、それを食べてから

 退院されますか」

 当番長のナースからの返事に、後で連絡しますと言って、

 一度、電話を切った。

 

 

 

 志乃たちの話し合いは即座に決まった。

 

 

 

 志乃のため、今少し休養し、他の者はいつもの如く、

 外食の弁当を買ってくるとの話が纏まり、

 小夜が早速、買い物に出かけた。

 

 

 

 この腰の軽さが天才的な学力がある子には珍しく、

 面倒見が良いのが、皆から慕われている原因でもあった。

 

 

 

 志乃は心は秋山の側にいたかったのだが、ベッドが無い

 ことが全てで、仕方なく、

 自分の部屋で休むことにした。

 

 

 

 志乃のパルスは平均値に近くに戻っていて、ひとまずは

 皆、安堵した。

 

 

 

 秋山はせっせと明日の台本作りにペンを走らせていた。

 

 

 

 なんと言っても明日はラテのどちらも、

 前日の志乃達らの舞の感想をネットでコメントで求め、

 その後は勿論、

 会場に詰め掛けたフアンたちからの率直な感想を求める

 ことで、更に時間を詰めることにした。

 

 

 

 そこで、

 取り上げられた舞の中で、録画ををピックアップすれば、

 もっと時間が取れるので、大体の大枠が出来上がった。

 

 

 

 ラジオではT屋の特設舞台で発表は避けるが、

 テレビでは、もしかして、志乃の体調が回復していれば、

 改めて再演させるのも一つかとも思ったが、

 多分、それは無理であろうと考え直し、進行次第での

 予定には入れないこととした。

 

 

 

 例え、志乃が舞いたがっても、止めるのが自分の役目と

 決めて、予定から完全に外していた。

 

 

 

 代わりに、再生映像で、彼女の舞をたっぷり見せ、

 会場からの感想を拾うことにした。

 

 

 

 新企画としては、志乃と二人で会場のフアンたちとの

 触れ合いの企画をと、思ったが、

 これは小夜の意見も聞いてみることにして、

 彼女たちが電車の中での意見交換で、生まれることを

 期待することで、

 今夜、決めることは避けることにした。

 

 

 

 早めの夕食を秋山の部屋で、全員揃って舌鼓を打ち、

 会話も弾んだ。

 

 

 

 すべては、あの番組の成功があったからだ。

 

 

 

 秋山が明日の企画を簡単に説明すると、

 皆が即座に同意し、いつも変わらず、目の色を変えて

 はしゃぎ、志乃を狼狽えさせた。

 

 

 

 小夜は月曜日はラジオは少し遅れるが、テレビには絶対、

 間に合わせますと、目を輝かせて、声を張った。

 

 

 

「今日の映像を家でもビデオで見ますが、皆の前で見るのは

 とても嬉しい・・」

 小夜の言葉に、全員、揃って肯いた。

 

 

       古都の徒然 吉田松陰論・・

 

 

 昨日の日経の夕刊に幕末に活躍した吉田松陰の歴史館の

 改修工事に関しての記事がでいたので、 

 久しぶりに幕末維新に関しての記事を書いてみようかと

 想い、少し筆を執ったもので・・。

 

 

 今更、吉田松陰って?

 誰っていう人はいないと思いますが、念の為、

 少し紹介しますと、

 幕末に長州の萩で、後に活躍する

 勤王の志士たちを自ら開いた松村村塾で教育した

 思想家だった方です。

 

 

 彼の門下生から優秀な人材が沢山現れ、後の明治に

 入って、

 活躍する人材を育成したことが後の世にも

 伝わり、

 山口では彼のことを呼び捨てではなく

 松陰先生との敬称で呼ぶほど、愛されている方でも

 あります。

 

 

 この塾から出た伊藤博文は明治に入って、

 初代日本国総理大臣になった人で、他にも政治家として

 活躍した方も多いのですが

 残念ながら、新しい明治の代を見ることなく他界した

 病死の高杉晋作や

 京の池田屋事件で、亡くなった吉田稔麿、

 更に禁門の変では

 久坂玄随が亡くなるなど、松陰と同じく新時代を

 見ずに、この世を去っているのが

 痛ましい限りです。

 

 

 ところで、

 そんな優秀な教え子たちを輩出した松陰がどのような

 方であったかを少し視点を変えて

 お話しますと・・

 

 

 彼は今風の学問と言うより、大きく言えば

 人の生き方について、

 語っていて、その真っ正直な生き方に共感する藩士たち

 が多く排出したわけです。

 

 

 ここまで語ると全て皆さまが、

 ご承知のことか思いますが、私が京都に来て

 すぐに、

 開説した私塾 古都歴史研究会で

 幕末維新史を講義したのは、この吉田松陰の性格の

 一部に世間で、意外にも知られていないことが

 あるので、

 それを教授することで・・・(笑)

 

 

 門下生に

 新たな視点を説き起こそうとしたのかも知れませんが(笑)

 

 

 そうは言っても

 松陰ほど、人に優しく身分の隔てもなく、親切に指導

 した想家は他には見当たりません。

 

 

 だが、あまりの過激な思想が長州藩の長老たちから

 煙たがられ、

 何度も牢にいれらましたが、ここでも、囚人たちが

 人の道を説く彼の姿に感銘して、尊敬するなど

 彼の思想家としての優れた資質が見受けられます。

 

 

 ところが、幕末の動乱時期に来て、

 彼はどうした分けか、人が違ったように、過激思想に

 変貌し、

 かっての門下生たちに、江戸から老中が京へ

 上洛するから,隙を見て、これを暗殺せよ・・との檄文

 を何人もの志士たちに送りつけ、

 受けとった教え子たちも仰天し、桂小五郎などが 

 心配して、

 これを止めさせようと何度も説得するのですが、

 これに耳を貸さず、

 ひたすら倒幕に走ることで命を削ることになるのです。

 

 

 一度、書き始めると、昔のように毎日、講義録を

 執筆していた頃の思いが蘇り、

 とても、単純な解説では収まらなくなり・・

 

 

 何しろ、講義では松陰だけで、何か月かかったか

 記憶があいまいですが、半年は・・とも

 

 

 なので、今、これを書いている内に身が熱くなり、

 収まらない苛立ちに襲われ・・

 もう、

 ・・・やめにしますね。

 

 

 とても、このままでは身が持ちませんので・・。

 

 

 また

 いつか、元気になれば、今一度、書いてみようかと・・

 では、今夜はこの辺で‥おやすみなさい(__)。