古都のブログ小説 京の鐘     

      

 

 皆で、昼を会社で一緒に取ったあと、全員で病院へ戻り、

 玄関口の廊下に姿を見せると同時に、

 ナースセンターの入り口付近から、

 甲高い歓声が上がった。

 

 

 

 志乃たちの車を廊下の窓から見ていたらしく、

 まさに電光石火の早業であった。

 

 

 

 ぎょっとした秋山以下、全員が身を固くすると、

 一拍置いて、ナースセンターから何人からのナースが

 転がるようにして、飛び出して来た。

 

 

 

 あまりの歓声と騒々しさに、廊下沿いに並んでいる

 個室のドアが次々と開けられ、

 志乃たち一行を目にすると、付き添いの家族らが部屋を

 とび出して来て、盛んに手を振った。

 

 

 

 誰もが志乃たちの舞う様子をテレビで見ていたのだ。

 

 

 

 それにしても、ICU室担当のナースセンターの看護師

 とは思えない、

 はしゃぎように秋山らの足が一瞬止まったが、

 後ろから急かされるように、足並みを乱し、廊下を足早に

 歩き始めた。

 

 

 

 秋山は志乃を急かせぬように、のんびりとした足取りで

 磨かれた廊下を進んだ。

 

 

 

 ナースセンタ付近で、もみくちゃになりながら、

 穂香らのはしゃぐ様子に微笑を漏らす志乃に

「君の舞を見ていたようだね」

「うちだけで、のうて・・」

 と言って、口ごもる志乃を見て、秋山はいじらしくて

 たまらくなり、気が付けば、志乃の肩を引き、

 軽く抱き寄せていた。

 

 

 

 志乃が少し赤ら顔で、秋山の肩に頬を寄せた。

 小首を少し捩じり、秋山の顔を見上げた。

 遠くから、何か悲鳴のような歓声が上がった。

 

 

 

 一瞬、見られたか・・と秋山が、ぼそっと口にしたが、

 格別、悪いことをした様子も見せず、相変わらず、

 ゆっくりと歩き始めた。

 

 

 

 穂香が駆け戻って来て

「センターでも、回診当番を覗いて、全員がテレビに

 釘づけになっていたようですよ」

 息を切って早口に巻くし立てた。

 

 

 

「病室からも人が出ていて、大丈夫なのかな」

 秋山の問いに答え

「どの部屋でも、うちらのテレビを見ていたようで、

 舞い終えた時は、悲鳴と泣き声が上がったみたい」

 

 

 

 穂香の興奮した話し方に、微笑みで返す志乃の目に

 円らなものが膨らんでいた。

 

 

 

 穂香の頬も熱いものがしたたり落ち始めた。

 

 

 

 志乃を抱きしめていた秋山が珍しく肩に乗せた片手を

 放そうとはしなかった。

 

 

 

 ナース達からも、早く来るよう急かす声が跳んでいた。

 

 

 

 ICUへの廊下が人々で溢れだす様子が目に入ると、

 志乃も秋山へ無言で、

「立っていないで、行こう」

 との目が語っていた。

 

 

 

 秋山もこれに応え、ゆっくりと歩を進めた。

 

 

 

 駆け戻って来た奈菜や小夜が口々に志乃の舞の評判の

 良さを捲し立てた。

 

 

 

 秋山と志乃は互いに目を見つめ合った後、

「とりあえず、入院している部屋へ戻ろう」

 無言で、肯く志乃の背に手を添えて、皆の後に続いた。

 

 

 

 途中、一つの病室から顔を覗かせていた中年の女が志乃に

 声をかけた。

 

 

 

「あんた、可愛かったよ。うちの婆さんがさ、会いたがって 

 るんだけど、構わないかえ」

 随分と蓮っ葉な言葉で志乃を誘った。

 

 

 

 咄嗟に、小夜が戻って来て

「悪いけど、うちの姫様は舞い疲れで、大変なの、またに

 して」

 めっぽう江戸前のきっぷの良い言葉で切り返した。

 

 

       古都の徒然 悔しさは・・

 

 

 人生で、悔しかった経験は山ほどありますが、

 中でも、

 記憶に残るものとして、最大のものは、忘れようとも

 忘れられない

 高校時代の苦い出来事でした。

 

 

 結果的に

 私の我儘が功を奏して、良かった、よかったの大合唱に

 なったのですが‥(笑)

 

 

 それは、私が高校二年の夏に突然、全身麻痺の難病に

 襲われ、

 学期末テストは父がタクシーで校門まで送ってくれ、

 待ち受けていた同級生に

 背負われたり,

 肩を二人で担がられたりして登校し、試験は手の指だけ

 動くので、

 それで何とか、しのいだのですが

 試験後、

 大学病院へ入院して検査をしても、病名が分からず、

 治療が行き詰ってしまい・・

 

 

 ※当時は進行性筋萎縮症、今でいう(ASL)と言う病名が

     浮かんでいたようですが、 医師に治療経験が無く・・

 

 

 でも、自分勝手に廊下の手すりに縋って歩く練習を

 繰り返して、

 何とか、自分の体を維持することが出来るようになり、

 10月には退院し・・

 

 

 問題はその後で、修学旅行が翌年の3月の下旬に行られる

 のですが、その企画と長崎コースと四国コースの

 選定など、生徒会での激論の末、なんと学校始まっての

 二つのコース選択制にして行われることになり‥(笑)

 

 

 私は当然、

 行くつもりでしたが、ある日、突然、体育の教員からの

 呼び出しがあり、体育館の中の

 教員室へ出かけると

 「先生方は何も言わないかも知らんが、君が参加すれば

  大変な苦労を掛けることになる。今からでも遅くない

 参加を取りやめろ・・」

 との強談判に唖然!

 

 

   私はこの旅行の企画から参加していて、あらゆる条件を

 承知しているので、引率教員より、

 情報を知り尽くしているとの思いが強かったので、

 絶対参加すると言って、

 教員の脅迫を突き放し、参加したのですが‥(*'ω'*)

 

 

 今、思えば随分と無茶をしたものですが、それは

 あの時の

 軍国時代のような教員の厳命に断固反抗したもので、

 病気と言う、

 人の弱点をついて、二度体験できない、夢のある修学旅行

 参加を諦めさせようとする学校当局への反感が

 募ったもので・・

 

 ※

  万一、

  病気が悪化しても一切、学校に迷惑はかけない

  との思いと、

  場合によっては現地の医師の参加も用意するとの意志

  を表しての、ことなのですが・・

 

 

 しかし、

 あの屈辱は私の人生で最大のもので、あれほど

 私を混乱させ、怒らせた事案はありませんでしたね。

 

 

 幸い、旅行は学友たちの助けで楽しい思い出が創られ、

 参加は満足できるものになりました・・。

 

 

 でもね、ステッキを付いての参加は流石に大変で、

 熊本の

 阿蘇山では猛吹雪で脱落する者もいましたが、

 私は断固登山して、

 帰りは流石にロープウェイで下りましたが・・(*^-^*)

 

 でも、相当数がロープを用いていたので、目立たずに

 恥はある程度で・・(笑)

 

 

 また、四国では讃岐の金毘羅山への厳しい石段も上り、

 喝采を浴びたり・・

 船にも強いところを見せたりの

 盛大な旅は私の人生で最大の効果を齎してくれました(笑)

 

 

 当初、指しか動かなったのも、随時、可能になり、

 やればできる精神は

 どんな教育より偉大であったからで・‥(*^-^*)

 

 

 私は若者だけに、負けるが勝ちより、勝は勝ちをとった

 のも今は・・どうでしょうね(__)

 

 

 未だに凄いなと思うのは、両親が参加を認めてくれた

 ことで、

 今更ながら、息子への溺愛ぶりが如実で、

 感謝以外の言葉が見当たりません(-_-)。