前回少し触れた「自分の中の差別意識」についての話です。

 

 

先日、なんでもない日常の中で、なにがきっかけだったかも忘れましたけど。

息子が私に対して

「なんだ?更年期か?」

と、言ったんです。

 

今までも、何度かあったんですよ。

「なんだ生理か?」「更年期なのか?」みたいなことを言われることが。

 

そう言われることに対して私はモヤモヤっとするものの、そのモヤモヤが一体なんのモヤモヤなのか。

そしてそれをどう伝えればいいのか、自分なりの言葉で話せる自信がなくて。

「そういうの良くないよ」くらいしか言えなかったのですが。

 

日々、学びを継続する中で、やっと自分なりに話せそうだ、と思ったので、息子に話しました。

 

以下は「なんだ更年期か?」のあとの私と息子のやりとりです。

 

 

(私)

いやいや、確かに私は更年期だけども。

それを侮蔑するために使うのはどうかな、と思う。

 

(息子)

え?侮蔑してないよ。

 

(私)

いやー、さっきの「なんだ?更年期か?」には明らかに侮蔑が含まれていたでしょう。

おばさんであることを嘲笑うような言い方だったよね?

私は確かにおばさんで、確かに更年期で、それは確かな事実だけど、だからといって嘲笑っていいことではないよね?

 

(息子)

えー、嘲笑ってないよ〜。

 

(私)

うん、多分ね、そうなんだと思う。

悪気はない、侮蔑なんてしてない、嘲笑ってない、そういう意識のつもりだったんだと思う。

だけどね、あの言い方は明らかに見下していたと思うよ。

例えば、私が「なんだ?思春期か?」(←息子の口調を真似)って言ったらどう感じる?

ただの事実を述べただけとは違うよね、明らかに見下したような言い方だと思うんだよ。

ていうか、そんなの、ただの事実をわざわざ相手に伝える必要なんて、日常の中でほとんどないんだよね。

あなたはおばさんですね、あなたは子どもですよね、それじゃあ思春期ですね、なんてわざわざ誰かに言うことある?

ないじゃない。

だから、やっぱり「更年期か?」とか「ガキ」とか、そんなのって相手を見下すためにしか使われない言い方なんだと思うよ。

 

(息子)

…………。

 

(私)

おばさんだからって、更年期だからって、そのことで人を見下していい理由にはならない。

それは分かるでしょう?

 

(息子)

うん。

 

 

 

というやりとりをしました。

このあと、このことについて特に息子からなにかを言うことはありませんでしたが、とても気まずそうにしていました。

男の人にも更年期ってあるんでしょ?とか、更年期って大変なんでしょ?などと言ってなんとなくごにょごにょとごまかすようなことも言っていたし、それについては「そうだね」「そうみたいだね」と返事をしましたけども。

 

そんな息子の態度を見て、私はとりあえず今はここまででいいな、と思い、それ以上なにも言いませんでした。

息子の態度で「あぁなにか感じてくれたな」と分かればそれ以上の言葉はいらないですよね。

 

 

この話とは別で。

昔、息子が中学生の時に、50代の女性の先生の文句を言っていたんです。

(文句を言う事自体は仕方ないと思う、私は内容に肯定も否定もせずに「そうなんだ」と聞きます。)

 

その時にも、その女性教師に対して「更年期かよ」ってクラスの男子の誰かが言ってた、という話を聞かされたことがあって。

その時は息子ではなく、クラスの誰かがが発言したって話を私に話してくれただけですが。

そのことをややおかしげに話す息子に対して「いや、笑えないんだけど…」と思いつつ、その笑えなさをどう話せば伝わるのか、その時は自分の言葉で話せる自信がありませんでした。

 

なので、モヤモヤしつつ、どう話せばいいのかずっと分からなかったんです。

 

 

 

 

一応言っておきますが、先日のこの「更年期か?」案件の時に私は息子に対して怒りの感情や悲しみの感情を一切、抱いていません。

とても冷静に、至って普通のことを当たり前に話す感じで話しました。

息子を責めるような気持ちも1ミリもなかったですし。

 

なぜならこれは、社会の中で社会から刷り込まれた感覚じゃないかな、と思うからです。

だから、私は「息子個人」を責める気持ちはひとつもないのです。

 

ただ。

「なんだ?更年期か?」なんて見下すような発言をする、それを冗談のように言う、それは息子の中の差別感情だと思ったのです。

だから、息子自身に自分の気持ちを見つめ直してみて欲しかった。

 

明らかに、年齢(中年)と女性だからという理由でばかにしている発言にしか思えなかったので。

そうでなければ、わざわざ言葉にして言うような事柄ではないと思います。

例え、事実でも。

冗談のつもりで言ったとしたら、なおのこと笑えないですし。

 

発言している本人は「そんなつもりは全くない」んですよ。

それくらい、自分の中の差別感情には気づけないものだと思うんです。

 

私も自分の中でこれは差別感情ではないだろうか、と疑うこともしょっちゅうあるし、「これは差別感情だ!」と気づいて自分で反省することも多々あります。

 

それは、私自身もこの社会の中で生きてきて、社会からの影響を受けているからなんですよね。

だからといって、自分個人は悪くない、とは思いませんが……。

なんかこういうのって悪い悪くないっていう問題ではないというか……構造の問題なんだと思うんですけど。

 

確かに社会の中の構造の問題なのですけど、そこに影響されている自分に、いかに気づけるかどうか。

そういう部分では自分に向かうものではありますね。

 

自分の中の感覚、感情で、なにが差別でなになら差別ではないのか。

 

その切り分けを自分のものとして獲得していくためにはやはり、「知ること」「知ろうとし続ける」しかないのかな、と思います。

知らないと、うっかり「社会の感覚」で差別してしまうことがあると思うんですね。

このあたりの感覚が身についてくると、世間では当たり前に使われている言葉そのものに違和感を覚えるようになったりします……「母性」とか「イケメン」とか。

 

そもそも「人権のこと」「人権感覚」だとも思うんですよね。

 

私は、子どもに必要な学びは人権教育だと思います。

はっきりいって、他の学びは最小限でもいいと思うくらい(笑)

それくらい、日本の教育に必要なのは人権教育なのではないか、と。

 

 

そして、日本は、人権について国連から是正の勧告を受け続けていますよね。

 

正直、私自身もどこから始めたらいいのか分からなくなりますけど。

でも、だれもが「今の自分にできることから」で良いのだと思う。

それじゃあ、一体何ができるのか。

 

今、自分の身近にいる人を大切にすること。

今、目の前にいる人の困難に気づいたら支援すること。

 

そういうことから始めたらいいんじゃないかな、と思います。

 

あ、あとは身近な人とたくさん、こういうことについて話す、も良いですよね。

 

困っている人は一体、どんな支援が必要なのか…例えば、目の前にいる自分の子どもはどんな支援が必要なのか?

それは、子どもとよく話さないと分からないですよね。

 

その「話す」の中に、「大人としての常識」とか、「世間的な感覚」とか、そんなものは全くいらないと思うんですよ。

 

そしてそもそも、子どもを対等な存在として見ることができているか。

そこには大人は努力が必要だと思います。

 

子どもと対等になるためには大人の方が努力しなければならない、と思うんです。

強いと弱いが対等に話すためには弱い方に努力させるんじゃなくて、強い方が努力をするべきと思います。

 

 

そしてまた別のある日、息子から責められる(?)ことがありました。

それについても話したいのですが、長くなりましたのでまたそのうち、気が向いたら、で。