今日は、高1息子はさすがに(?)学校に行きまして。
ところが小6娘がですね、「休みたい」と言いまして(笑)
えぇーーっ!?と思ったけど、仕方ないなぁってことで休ませてしまいました。
ほんと、うちの子、かわるがわる、どうなってんの?と思うけど、これね、外から何か言ってどうにか動かすのってものすごく労力のいることなんですよ。
例えばね、勉強したくない子供に勉強させる、とか。
習い事に行きたくない子供を無理やり引っ張って連れて行く、とか。
めちゃめちゃ労力が要る。
まあそれでですね、私も昔は若かったのでね(誰だってそうだよ!)そんな労力をさいたことももちろんあるのですけど……。
「大人になっていつか仕事する時には行きたくなくても行かなきゃならないんだよ」
「人生、避けられないことに出くわす場面はこれからもたくさんあるんだよ」
「今、逃げちゃうとこの先もずぅっと逃げることになるよ?」
なんて、いかにも、それらしいことを言って、学校に行きたがらない子供を一生懸命、口説いたこともあります(笑)
今にして思えば「なぁーに言ってんだ、アホンダラ」と、自分に言いたいですね~(笑)
行きたくなくても行かなきゃ、なんてのは大人になって「自分が」必要を感じればそうするだろうし。
人生、避けられないことに出くわすこともあるだろうけど、その時の「自分が」考えるしかないし。
逃げるも逃げないも、「自分が」考えてどうしたいのか、どうするのか、決めることであって。
ほんと、意味のない説教をしちゃったわ、と今の私は思いますね。
今の私が子供たちに言えることは。
「自分で考えて、自分で決めて、そんな自分をどう思うのかはまた自分で見て考えて」
ってことかな、と。
考える、決める、見る、まあつまり、自分について自覚的であれ、ということですかね。
一体、自分はどうなりたいのか、何が好きなのか、何が嫌なのか、どうしたいのか、それは私が決められることじゃないですから。
考えたり、決めたりするということは確かに、子供が自分でしなきゃならないことなんですけど、それを「手伝う」ことはできると思うんですよね。
私のことじゃないから知ーらない、じゃなくて。
「どう思う?」「どうしてそうなったの?」「ほんとはどうしたかったんだろう?」「どうなれば良かったと思う?」っていう問いかけをし続ける、ということですね。
そして、絶対に、否定しない。
どんな気持ちも、どんなことも、「絶対に」否定しない。
例えば「殺してやりたいくらいムカついた」みたいなことでも。
子供がもしそう言ったとしても「ほう、なるほど。かなりムカついたのね」とか「相当の怒りだったんだね」とか言って「そんなこと言っちゃダメ」からは入らない、というか。
私が個人的に「それは言わないで」と思うのは、容姿に対することと、「ぶっ殺す」とかの脅迫とも取れる言い方。
それらについては「それは言い過ぎ」「そこまで言っちゃダメ」「それは関係ない」「そこは言うべきでない」と、たしなめると思います。
あ、本題からズレていく。
まあまあ、とにかくですね、考えるっていうのは「話す」ってことだったりするんですよね。
考えるから話す、話すから考える、思っていること、気持ちを言葉という形にしていく、という作業は自覚的になるためにもとても大切な訓練になると思います。
いや、だからってね?
私も四六時中、子供たちに話しかけたりはしませんよ(笑)
これがまた難しいんですけどね、子供が望むタイミングを可能な限り、逃さない、っていうのもあるんですよね。
じっくり腰を据えて話し合わなくてもいいと思うんですよ。
ほんの少しのやり取りでも、分かることはあったりするものなので。
まあでもなんにしても一番大切なのって「この人はいつ、何を言っても受け止めてくれるな」と子供に思ってもらうことですかねぇ。
そうなったらもう、こっちのもんですよ(笑)
いやいや、こっちのもんて、どっちのもんよ。←自分でツッコむ。
そもそもね、子供(自分以外の誰か)をコントロールしようなんてことが間違ってると思うんで。
なんのためにそんなことするの?って話だし。
その人の人生、その人のものだし。
親と子供ってね、そこがうまく切り離せなくて大変なんですよね。
自分の気持ちと子供の気持ちは全く、別のところにあるものなのにね。
親はついつい、心配や愛情から、子供を安全な道に導こうとしちゃうんですよね。
って。
娘が学校休んだよって話をしようと思ったのに、なんかすごい話になっちゃったな。
これ私、自分に言い聞かせてるんですよ。
誰かに言ってるっていうよりも、自分で自分に言って頭の中を整理してるんだと思います。
すみません、それだけのことです。