白州次郎は1902年(明治35年)2月17日生まれということで、誕生日の今日、彼が人生の大半を過ごした旧白洲邸武相荘(ぶあいそう)へお邪魔してきた。



白州次郎って誰?

という方のために、簡単に略歴を記すと、

戦後、連合国軍占領下の日本で吉田茂首相の側近として活躍し、GHQの要求に対して毅然とした対応をし、GHQの要人から「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたり、マッカーサーが天皇陛下からのクリスマスプレゼントを斬罪に扱ったため怒鳴りつけ「マッカーサーを叱った男」とも言われている。彼に関するエピソードには様々な異説もあるが、いずれにせよ、日本の戦後処理に大いに貢献した人物である。

その他、憲法改正や通商産業省の設立、サンフランシスコ講和条約にも手腕を発揮したが、吉田茂首相退陣後は、政界から縁を切り、実業界に戻り、東北電力の会長をはじめ、様々な企業で役員や顧問を歴任した。


また、若い頃からクルマ好きであることも知られていて、第一神戸中学校時代には早くも17歳にしてアメリカのペイジ・オートモビルの6-38 フリートウッドというクルマを父親から買ってもらい、学生服を着たまま芦屋の街を乗り回したという。


武相荘の入り口にあるガレージには、このクルマの同型車が展示されている。


展示車は2008年に放映されたNHKドラマ「白州次郎」で使用されたもの


ペイジはデトロイトの自動車メーカーで、1908年創業。T型フォードよりも高価な車両を生産し、中産階級が主なユーザーであった。


6-38は5人乗り、38馬力の3771ccの直列6気筒エンジンを搭載。


シンプルだがカッコいいコクピット。





ペイジの横には大きな白州次郎の写真が。


そして、ケンブリッジ留学時代には、潤沢な仕送りで、ブガティやベントレーを購入し乗っていた。


その中の一台がこのクルマ


1924年製ベントレー3リッター

このクルマは実際に白州次郎が乗っていた個体そのもので、埼玉県加須市のワクイミュージアムに動態保存されている。

動態保存というからには、実際に今もエンジンがかかり走れる状態にある。約100年前のクルマがである。


ワクイミュージアムの涌井館長が、かつてカーグラフィックの創業者である小林彰太郎氏から、白州次郎のベントレーが英国にあるという情報を得て「日本にあるべきヒストリック・ベントレーだ」という話を聞いて、涌井氏が老英国人オーナーと半年の交渉の末に入手したという。


さらに晩年は、80歳までポルシェ911(901)に乗っていたというから、まさに根っからのクルマ好きである。


さて、話を武相荘に戻そう。

この武相荘は、東京郊外の町田市、小田急線の鶴川駅からほど近いところにある。

今では住宅地で賑やかだが、白州次郎がここを購入した昭和15年といえば農村地帯である。

使われていなかった家ということで、かなり手を入れなければならない状況だったらしいが、好きなようにゆっくりやれば良いと考えたということが、ミュージアムとして公開されている当時の住まいの中にも説明書きが書かれていた。


残念ながら、室内は撮影禁止ということで写真は無いが、憲法改正に関わったときの資料や、愛飲していたオールド・パーのボトル、フランスで取得したという運転免許証、書棚には膨大な書籍。そして有名な遺言状には、たった二行。「葬式無用」「戒名不要」いかにも彼らしい。


武相荘という名前だが、昭和18年に引っ越してきた際に、この辺りがかつての武蔵国と相模国の国境であったことから「武」と「相」をとり武相荘と命名。読み方を「ぶあいそう」としたのは、シャレで無愛想とかけたという。


門を入ると手前がカフェ、奥がかつての住まいで今はミュージアムになっている


庭には梅をはじめ様々な木々があり、心休まる空間が広がる。


ミュージアムの入り口。今ではあまり見かけない茅葺き屋根である。

中には様々な展示がある。


散策路にはたくさんの竹が植っている。


納屋のようなところには農機具もあった。

ここにあると最初レーシングカートかと思ったが、農機具であろう。


ガレージの下には梅や椿もある。

ここを通って竹藪を抜けると、専用駐車場に出る。


ここから一歩出れば、交通量の多い通りだが、緑の多い広い庭にいると、なにか懐かしいホッとする気がする。


今朝217に関するクルマの投稿ネタを考えていて、ふと今日誕生日の有名人を調べていたとき白州次郎の誕生日であることを知り、午後から武相荘へ出かけたので、投稿が遅くなりました。


誕生日に呼ばれた数奇な運命を感じつつ、また訪ねてみたい所が増えました。