命のビザ」で神戸へ ユダヤ人難民との交流史刻む案内板、三宮に設置へ

神戸ユダヤ共同体跡の石垣を示す山森大雄美さん=神戸市中央区
神戸ユダヤ共同体跡の石垣を示す山森大雄美さん=神戸市中央区
その他の写真を見る(1/2枚)

元校長ら資料収集

 案内板は、神戸・三宮の神戸電子専門学校の校舎が建つ石垣横に設置される。石垣は同共同体の異人館東側に接していたもので、高さ約2メートル、幅約20メートル。昭和20年6月の神戸大空襲で焼失した異人館の存在を今に伝える唯一の痕跡という。

 貿易港として発展した神戸には、多くのユダヤ人商人が移り住み、12年にユダヤ人協会と称される同共同体やシナゴーグ(ユダヤ教集会所)が設立された。その頃、ユダヤ人への迫害を強めるナチスドイツに対し、在リトアニア領事代理だった杉原が、亡命を求める現地のユダヤ人に日本への「通過ビザ」を発給。引き受け先が同共同体だったことから、多くのユダヤ人が神戸を訪れ、最長1年近く滞在したという。

 この神戸受け入れの歴史を発掘したのが、神戸外国人居留地研究会理事の岩田隆義さんだった。小学校の校長を定年退職後、神戸にユダヤ人難民がいたことを知って研究に乗り出し、戦災で散逸した資料を収集した。

 「消えてしまうかもしれない歴史を世に出したい」と、市民と温かい交流があった過去を追跡。近くの一宮神社宮司の山森大雄美(やまもり・おおみ)さん(83)、同専門学校を運営する学校法人「コンピュータ総合学園」常務理事の福岡賢二さん(53)らと検証を進めた結果、当時の写真に写っていた石垣と現在の石垣が同じであることを突き止め、異人館の場所の特定につなげるなど神戸のユダヤ人史を再確認した。

 

祈りささげる子孫も

 案内板は地元自治会や同学園などが市の助成を受けて製作。日本語と英語、ヘブライ語で書かれ、この場所がかつて「人道支援の地」だった史実を伝える。「神戸にはユダヤ難民に対して反ユダヤ主義はなかった。あったのはあたたかい思いやりとやさしさばかりだった」との同共同体メンバーの言葉も添えられている。石垣には今も、遠路シベリアを横断して来日した当時のユダヤ人難民の子孫らが訪れ、祈りをささげる姿もみられるという。

 新型コロナウイルスの影響で今春に予定していた除幕式が先送りされる中、岩田さんは今月初めに79歳で死去。長年の研究成果は神戸市史紀要「神戸の歴史」第26号に詳細に記された。

 福岡さんは「神戸が大きな歴史の舞台だったことは戦後語られてこなかった。多くの人に眠っていた史実を知らせたい」と話す。同神社で当時撮影された難民らの写真を見た山森さんは「自分もここで生まれ育ちながら、全く知らなかった地域の歴史に出合えた。岩田さんの思いが実った」と語った。

杉原千畝と「命のビザ」 外交官の杉原千畝が在リトアニア・カウナスの領事代理だった1940年夏、ナチスドイツの迫害から逃れてきた数千人のユダヤ人に、日本で乗り継ぐための「通過ビザ」を発給し、命を救った。人道主義に基づく独自の決断で、85年にイスラエルから「ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)」を受賞。86(昭和61)年、86歳で死去。