世界遺産登録問題が決着 | 老$の徒然草

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世界遺産で韓国側が折れた。
決め手は、
仮に日本の世界遺産登録が延期されれば、日本人の嫌韓感情が更に悪化、もう後戻りしないと判断したのだろう。
よくあることだが、外交を左右するのは、国民感情。
そして日韓貿易は、常に韓国側の赤字、更にこの円安と嫌韓で韓国から日本への輸出が急減、今やベトナム、香港より少なくなっているらしい。

今回、問題になった日本の世界遺産の候補地は、夫々別々に細々と町興しのために保存活動を続けていた、ユネスコからの勧告もあって、それらを束ねて世界遺産登録を目指した。
それだけに、韓国の反対でおじゃんとなれば大きなしこりが残った。
(ユネスコの運営費の分担金は、アメリカに次いで日本が2番目、そして国連の分担金でもよくあるがアメリカはしばしば入金が遅れる、日本はちゃんと払っているから実質日本の拠出金が一番頼りにされている。)

今回抱き合わせで出てきた百済の歴史地区遺産なんて初めて聞いた。
以下は、今から25年前、転勤で福岡に居た時の話。
韓国で誰でも知っている3人の日本人は、豊臣秀吉、加藤清正、そして宮崎県の町長だか村長だという。
秀吉、清正は、400年前の名古屋出身の盟友、秀吉の命令で清正は朝鮮に渡った、
この二人、韓国では不動の巨悪、だからこれは納得。
では、何故、宮崎?
町長、村長は当時の人、
百済が危機存亡の時、日本は救援ために大軍を派遣したものの唐・新羅連合軍に負けた(663年白村江の戦い)。
その時百済から亡命した多くの人々は近江に定住、要職に就いた人もいた。
何故宮崎なのか判然としないが、百済の王族が宮崎に逃れ、その町だか村では、その王族の数奇な運命に同情、1300年も追悼行事を続けていた。
その事実が丁度その頃韓国側に伝わり、町長だか村長が訪韓、3人目の有名人に躍り出たのだ。

ここから1時間ぐらいのところに半島出身者が居住していた高麗郷というところがある。
高麗神社の宮司は、直系子孫、1300年間今でもお祭りが続いている。
曼珠沙華が咲き誇る頃韓国からも若い観光客がやってくる、
だから、沿道にはハングルの看板が目立つ。

日本人は70年経てば大概のことは忘れてしまう、
しかし、韓国の人にとっては、400年前のことも1300年前のことも、昨日のことなのかもしれない。
1000年経ってもと言った朴大統領の発言は、決して大げさではない。

百済歴史地区は、人工的なテーマパーク、
ヨーロッパの歴史地区とは趣が違うような感じ。

 



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