川越の朝鮮通信使 | 老$の徒然草

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川越唐人揃い2015 川越唐人揃い2015  
川越の大商人が江戸で朝鮮通信使を目撃、感激して川越で再現したのが始まり。
つまり初めから仮装行列で、
本物の朝鮮通信使が川越を通ったわけではない。
よさこいやハロウィーンと同じように好きな人が勝手に始めたようだ。

10数年前途絶えていた朝鮮通信使の行列を復活、今は、国際交流が目的のお祭り。
現在のお祭りの名称は、『朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会 in 川越』
唐人の唐は韓、なので唐人は、中国人ではなく朝鮮半島の人を指す。
アイヌの格好をした人たちもいた。
笹川良一の『
世界は一家、人類はみな兄弟』を想い出した。

朝鮮通信使は、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本に拉致された陶工や学者を帰国させてくれと言う李氏朝鮮の外交使節団が始まり、
これを回答兼刷還使と称した。
以後、徳川の将軍が変わるたびに12回使節団が隣善友好のために来日。
当時の日本人には、その装束がとても物珍しがられ、大歓迎を受けた。
(川越の神社に奉納された絵馬や、その興奮を伝える記録が残っている。)
対馬から通訳も同行したが、宿泊先には日本人僧侶が詰めかけて漢字で筆談、先進学問を吸収した。
(一方で、徳川幕府は、長崎の出島からヨーロッパの情報も得ていた。)
川越の土蔵造りは、明治26年(1893年)の大火の後に建てられた耐火建築、
蔵造り資料館に消防ポンプが展示されていた。
左は江戸時代のポンプ、右は明治になってヨーロッパから輸入されたものをお手本に国産化したポンプ。



蔵造りの建物には、右の写真のような煉瓦で作った地下室があった。
火事が起きたら、この穴に商品や掛売などを記録した大福帳を投げ入れた。

江戸は、しょっちゅう火事があった、川越も同じ、
しかし、明治の大火にこりて他で見られない抜本策を講じた。
その時の蔵造りが現在まで残り、今は建物そのものが観光資源になっている。

豪壮な蔵造の商家と市内を巡回するレトロバスダウン

時刻を告げる有名な『時の鐘』アップ
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